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    竜の帰郷エンドその後の🐺と🌾

    どれほどの時が経とうと🐉様を敬慕し続ける🐺と、そんな🐺に片思いする🌾の話です。

    銀湾の鵲(かささぎ) むかし、むかし。
     天にそれはそれは美しい天女がおりました。天の上帝の娘である彼女の織る天衣は、霞のように軽く、天と地を行き来することができました。
     ある日天女が下界の水辺で水浴びをしていた時のこと。彼女に一目惚れをした牛飼いが、彼女の天衣を取り上げてしまいました。
     天に返ることを諦めた彼女は、牛飼いとともに仲睦まじく暮らし、子宝にも恵まれました。
    しかしそれを快く思わなかった上帝は天の使いを差し向け、天女と牛飼いを無理やりに引き離してしまいました。
    牛飼いは天女を追いかけ、連れ去られゆく彼女に手が触れそうになったその瞬間。大きな川が現れ、二人は離れ離れになってしまいました。
     それでも牛飼いは諦めることはありません。彼女を連れ戻したい一心で追いすがろうと手を伸ばします。
     その健気さに心打たれた上帝は、一年に一度、二人が再会することを許したのです。


     はるかに高い天空に、瞬く無数の星影が散りばめられた銀湾に、集いし無数の鵲が翼の橋を架ける時。牽牛と織女は一夜の逢瀬が叶う。
     一途の恋を貫き通した二人に、今日も人は願いを託す——————。


     目の前には、高く聳える山々が雄大に広がっていた。青峰はどこまでも連なり、ともすれば無限に続いているかのように思えた。山の端は夏霞にたなびき、ぼんやりと淡い光を放っている。
     どんなに首を巡らせたとて、その全てを視界に納めることなど到底出来そうもない。
     広い。———ただ、ひたすらに広かった。

    (すごい………)

     かつて変若の御子と呼ばれた娘は、目の前の景色に圧倒されつつ胸中で呟いた。見晴らしのよい丘の上から望む光景に、零れるのはため息ばかり。底抜けに青く光る葉の色が視界を眩ませる。
     深く、深く。胸の奥底、限界まで息を吸い込む。生い茂る夏草の青々とした、しかしどこかむうっとするような重たく湿った空気が肺を満たした。血の金気臭さと、人肉の腐敗する匂い、淀んだ線香の香り。今まではそれが全てだった。多種多様な、名も知らぬような草花の香が入り乱れた空気を吸い込むと、いかに自分が狭い世界で生きていたか、そして何も知らずに生きていたのかを痛いほどに思い知る。
     ちち、と遠くで夏鳥がさえずる声を聞きつつも、稜線に目を凝らした。

    「本当に……、遠くまで来たのですね……」

     ふと漏れた呟きに反応し、隣に立つ男が静かに顔を上げた。

    「随分と、歩きましたから」

     飾り気がなく、聞く者によってはそっけなくも聞こえる彼の言葉。だが落ち着いた、男らしい低い声音はいつでも不安に揺れるこの心を安堵へと導く。それに、自分は知っている。彼がどれほど優しく、思いやりに溢れた者であるかを。普段はその名の通り狼のような鋭い眼差しで周囲を警戒する瞳は、今は柔和に和らぎ、穏やかでいて切なさを含んだ眼差しで御子をみやった。
     季節は夏。冬に出立し、春はうららかな陽光を浴び、百姓の田植え唄を聞きつつあぜ道を歩いた。目的の地の方向に行く為に山を越えねばならず、雨の降りしきるなか、ぬかるんだ土に足をとられつつ山を登った。連日降り続いた雨によってあたりの山一帯には雨靄が立ち込め、これまで山からの景色を見る事は叶わなかった。ずっともどかしく感じていただけに、ようやく願いが叶った感動はひとしおだ。
     山の中腹で突然足を止め、開けた場所に向かって駆ける自分を狼は止めなかった。幼子のようにはしゃぐ姿を見られ気恥ずかしい気持ちは少々あるが、それ以上に感動が勝っていた。

    「葦名は、私たちがいた場所はどの方角なのでしょう」
    「さあ。山を越えました故に、仔細な場所まではなんとも。おそらくは、あのあたりかと」

     狼が指さした方向を見るも、折り重なった山々があるばかり。わかっていたことではあるが、見知った景色の片鱗は見出すことはできなかった。

    「……そうですか。あの場所に未練などありませぬが、かの地が見えぬほどに私たちは遠くまできた、ということなのですね。こんなにも世界が広いだなんて、旅に出なければ一生気づきもしなかった」
    「……?」
    「このような景色をみていると、全てが小さな存在に思えてきます。自らの出自、運命(さだめ)、使命……、自然の前では諸々が意味をなさぬのだと」

     思わず口にした言葉に、狼の眉間の皺が微かに深くなった。

    「御子様、それは」
    「分かっています。我らの使命は、竜胤をお返しし九郎様を人に返して差し上げること。忘れたことなど一度たりとてありませぬ。ですが、この景色を九郎様にも見せて差し上げたかった。そう、願ってしまうのです……」
    「…………」

     幼い身でありながらも、その身に余る力を宿し、自らの為に命を散らしてゆく者達に心を痛め続けてきたであろう九郎。立場は違えど自分にもその気持ちはよくわかる。竜胤などなければ、自分さえいなければと、近しい者の死を目の当たりにするたびに、自らを呪った。きっと彼もそうだったのだろう。九郎とは面と向かって話したことはない。けれど分かる。院に訪れる狼の話から、なによりも胸の内に息づく九郎の魂は、泣きたくなるほどに温かかったから。
     一瞬、狼の顔が苦し気に歪んだ。眩し気に細められた目には切なさと愛しさが陽炎のごとく揺らめき、引き結ばれた唇が微かに戦慄いた。穏やかな水面に突如立ったさざ波のように。
     だが、御子が言葉を発するよりも早く、狼は再び感情を押し殺したような無表情へと戻ってしまった。

    「御子様、そろそろ木陰へ。長く日に当たりすぎては体に差し障りまする」
    「ありがとう。分かっています。戻りましょう」

     狼の言葉に頷く。日が出ているうちに山を下り、街へ行かなければならないのだ。いつまでも景色を眺めている時間はない。
     後ろ髪をひかれる思いで、踵を返したそのときだ。

    「…………!?」

     不意にぐらり、と目の前が回った。足元がおぼつかない。ふわふわと、まるで雲の上を歩いているようだ。目の前が徐々に暗くなる。夏鳥のさえずる声が遠くなってゆく。
     なぜか無性に体が熱い。必死に呼吸をしようと息を吸うが、その動作すらとても遠くに感じられた。

    (からだが、うごかない……。 ……一体、どう、して……)
    「御子様!!!」

     狼の焦りを含んだ声が遠くに聞こえたのを最後に、変若の御子の意識はそこでぷつんと途切れた。





     長い、長い暗闇を歩いていた。時折蝋燭の炎がちらちらと揺らめく。明かりはそれだけだった。
     誰かの悲鳴と、断末魔、抑揚のない読経を背にして、歩き続けていた。
     足が止まる。もう、疲れてしまった。これ以上、歩きたくなかった。
     目の前が昏くなり、やがて世界は闇に閉ざされた。いつのまにか、声は止まっていた。心のうちで、穏やかな安らぎを覚える。

    (これでいい。————これで。もう、誰にも会わない。扉を閉ざし独り静かに生き、死のう。友たちの魂をこの胸に抱いて)

     亡くなった友たちと語り、ひっそりと世を去る。そのつもりだった。閉ざされた一面の闇は、安寧の闇だった。
     そこにふと一筋の光が兆した。眩く、はっきりと闇を照らす、強い光だ。始めは驚いた。闇しか知らぬ目に、光は未知そのもので、恐ろしいものに思えた。しかし、兆した光はとても温かく、いつの間にか心惹かれていた。獰猛で優しくそして美しい、光を背負った獣に、甘く切ない想いを抱くようになった。
     しかし、それを欲しいとは思わなかった。脳裏にかの忍びの姿を思い描き、密かに愛でながら彼が来る時を心待ちにしていた。彼の使命の為、己の身が役に立つと悟った時には、喜びに心が震えた。
     獣が深い慈愛を注ぐ子供を、なんとしても守りたかった。深い信頼を寄せあい、強い縁(えにし)で結ばれた二人を見守り、助ける。それが自分の役割なのだと理解し、九郎を受け入れた。自分はただ見守るだけ。かの美しい獣の心は、あの方のもの。

     心のどこかに出来た、痛みにもならないほどの小さな傷口は見ないふりをした。




     目が覚める。見上げると目の前には天井の木目が広がっていた。背中に敷物の感触がする。どうやら寝かされているらしい。尼削ぎに短く切りそろえた髪が首元を擽った。微かに複数の子供の声と川のせせらぎが聞こえる。視線を動かすと木枠の格子窓が見えた。淡い日の光が差し込み、寝床の脇で腕組をして固く目を閉じている狼の顔を照らし出している。白い光が彼の長い睫毛を煌めかせ、荒れた浅黒い皮膚に濃い影を落としていた。薄く開いた唇からは浅い呼吸が漏れている。

    (矢張り、綺麗な方……)

     変若の御子はひっそりと息をひそめたまま、狼の顔を見つめた。幾筋もの深い皺と傷が刻まれた顔は、彼が潜り抜けてきた数々の死線を物語っている。しかしそれらがあってなお彼の顔は整っている部類と、これまであまり人と接する機会のなかった御子でも推測できた。すっと伸びた高い鼻筋、男らしくきりりとした太い眉、長い睫毛。いつかそれらに触れる事が出来たなら……。

    (わ、私ったら……、何を考えて……)

     突如芽生えた考えに頬がにわかに熱くなった。きっと今自分の頬はきっと真っ赤に染まっている事だろう。押し寄せる気恥ずかしさに両手で頬を抑え寝床で悶えていると、その音で御子が目を覚ましたことに気づいたのか、うっすらと狼が目をあけた。

    「お目覚めでしたか。御子様」
    「御子の、忍び……。ええと、ここは、いったい……?」
    「麓の民家です。覚えておられませんか、貴方は軽い熱当たりで倒れられたのです。街へは行けぬと判断し、この民家へ。……ご安心を。家の者らには事情を説明しております故」
    「そうでしたか……。ごめんなさい。ご迷惑を、おかけしてしまいました」
    「お気になさらず。むしろこれは俺の手落ちです。傍にいたにも関わらず、貴方の様子に気づくことが出来なかった。従者としてあるまじきことです。誠に申し訳ありませぬ」
    「や、やめてください!!」

     居住まいをただし、深く頭を下げる狼に慌てて御子は起き上がった。と、日の熱が抜けきっていない体がぐら、と揺れ、倒れそうになる。背に襲いかかるであろう衝撃に身構え思わず目を閉じた瞬間、体が何かに抱きかかえられた。恐る恐る目をあけてみれば、先ほど見惚れていた顔が目と鼻の先にある。一気に顔に熱が上る。胸が高鳴った。狼は器用にも義手の腕で御子を抱きかかえ、生身の手を頬に伸ばした。おもわず悲鳴のような声が出る。

    「御子の、忍びっ…………!?」
    「お体に触れる無礼、お許しを。ですが、ふむ……。まだ万全ではないご様子。未だ御顔が熱い……」

     眉間に深い皺を刻みながら、狼はささくれだちごつごつとした手で御子の頬を撫でる。ひんやりと冷たく心地よい。だが、恥じらいに火照った頬の熱がそれで引くはずもなく、ますます顔が熱くなる。御子は途切れ途切れに呻くように囁いた。

    「み、御子の忍び……私なら、大事ありませんので……っ!!」
    「では」

     狼の手が離れ、優しく寝床に寝かされる。離れ行く両手にほんの少しの寂しさを覚えた。

    「しばし、安静になさっていてくだされ。俺は、家の者の手伝いをしてきます。何かありましたらお呼びを」
    「わかりました……。ありがとう、御子の忍びよ」
    「…………っ」

     部屋を後にする後ろ姿に礼の言葉を投げかける。狼が振り返った。どういうわけか、その顔は微かに強張っているように見えた。口元が小さく震え、何事かを口にする。聞き取れず、御子は小首をかしげた。

    「どうしたのですか?」
    「……いえ。どうぞお大事に。あまりご無理をなさらぬよう」

     そう呟き狼は部屋を後にした。どことなく足早に思えたのは気のせいだろうか。もう一度首を傾げ、御子は再び薄い布団にくるまった。とろとろと心地よい眠気が押し寄せてくる。思えばここ数日は歩きどおしだった。ただでさえ長い道中の上、二人分の魂を抱えた身。偽りの竜胤を持つとはいえど、人並みに疲れが溜まってしまったのだろう。熱い日差しもここまでは届かない。もう少しだけ、寝てしまおうか。
     ゆっくりと目を閉じる。窓辺から風に乗って子らの笑い声が聞こえる。屈託のない、明るい声に不思議な安堵感と懐かしさを感じながら、御子は眠りに落ちていった。





    「……みこさま、寝てる?」
    「おい、あんまり近づくなって……!!」

     ひそひそと頭上で交わされるあどけない囁き声に意識が浮上する。目をあければ、二人の幼子が自分をのぞき込んでいた。

    「あ! 起きた!!」
    「こら、紗枝。おきなこえだすなよ……!」

     ぱあ、と顔を輝かせ、髪を一つに括った少女が歓声を上げる。すかさず飛ぶ叱責。こちらは少女よりも若干年上のようだ。この子の兄だろうか。こちらを窺うように不安げに揺れる瞳に、安心させるように御子は努めて優しく微笑んだ。

    「大丈夫、心配いりませんよ。ありがとうございます。あなた方は……?」
    「……俺は、太郎。こっちは妹の紗枝。かあちゃんに様子見てこいって言われたから来た」

     太郎は顔を背け、憮然とした様子で早口に言う。警戒心が強いのか、かたくなにこちらを向こうとはしない。一方妹の紗枝は懐こい様子で御子の顔を覗き込む。

    「みこさま、からだ、なおったー?」
    「ええ、だいぶ楽になりました」
    「よかった! みず、もってきたよ!!」
    「っ、おい。それじゃのめないだろ」

     と、寝たままの御子の口元に椀を運ぼうとする紗枝。それを慌てた様子で制し、太郎はゆっくりと御子の体を支えた。成程素気はないが、存外に優しい子であるらしい。口元を綻ばせ、御子は差し出された椀から水を飲んだ。寝起きの乾いた喉に冷たい清水が沁みこんでいった。大きく身を起こす。だいぶ体に力が戻ったようだ。未だ背を支えてくれている太郎に小さく微笑み会釈をすると、慌てたように太郎はそっぽを向いた。差し込む日の光の加減だろうか、ほんのりと太郎の頬に朱が上っているように見える。窓を見れば、斜光はすっかり弱まっていた。一筋の西日が白い夏蒲団を茜色に染め上げている。穏やかな川のせせらぎと、蜩(ひぐらし)の鳴き声が微かに聞こえる。そしてもう一つ。耳のすぐそばでさらさらと葉が擦れ合う音が聞こえた。見れば、兄妹の手には青々とした笹の小枝が握られている。

    「これはね、たなばたのおねがいごとを書くんだよ」

     御子の視線に気づいたのか、紗枝が嬉し気に言った。たなばた。初めて耳にする単語に御子は目を瞬かせた。

    「たなばた……?とは、なんですか?」
    「なんだ、しらないのか? 七夕ってのはお願い事をする日のことだ。笹の葉船に願い事を書いて、流せば願いが叶うんだ」
    「そうなのですか……!!」
    「そうだよ!! みこさま知らないの? だったら紗枝がお話してあげるね!!」

     かくして紗枝から聞かされた七夕の話は、御子の胸をひどく締め付けた。愛し合っているにも関わらず一年に一度しか会うことが出来ない男女。住む世界が違うが故に引き裂かれ、それでもなお深く愛し合っている……。とても悲しい話だ。けれど一方で、一夜だけでも逢瀬が許されているのならば。それはとても幸せなことなのではないかと考えてしまうのは、狼と九郎、会いたいと願いつつもそれが叶わぬ二人を見ているからなのだろうか。
     物思いに沈んでいると、不意に目の前が一面の青に覆われた。笹の葉の清々しい香りがふわりと広がった。

    「夜におねがいごとを書いた笹舟を流すの。そうすれば天のひこぼし様とおりひめ様におねがいごとをかなえてもらえるんだよ! みこさまもやろう!!」
    「え、」

     無邪気な誘いに、御子は酷く戸惑った。忌まわしい実験の果てに生まれ、人としての生を望まれなかった自分が『願い事』など、身の程知らずもいいところなのではないか。こうして忍びと九郎、二人と旅をしているだけで十分満たされているのに。人の摂理を超えた実験の産物が何かを願ったとしても、願いを聞き届ける側とて困惑するに違いない。
     けれども。

    ((同じくらい歳の子たちと、一緒に遊んでみたかった))

     ふと脳裏に一つの幼い声が蘇った。
     普通の子供のように生きる事が出来たなら。何をしようか、こんなことがしたい。悠久の時が流れる院の幻廊で、魂だけの存在となった友たちと語らった。その時に友たちの一人がぽつりと漏らした言葉を思い出したのだ。
     あの時は願えども、願えども、決して叶うはずのない夢だと思っていた。焦がれて手を伸ばしたとて結局は叶わない、手に入れられない。それが当たり前になっていて、語るうちに虚しくなって、いつしか想像することをやめていた。
     だが今はどうだろう。溌剌とした様子で自分を誘う妹の笑顔、ぶっきらぼうながらも優しい兄の細やかな気遣い。ほんわりと温かい気持ちで胸中が満たされる。気づけば、御子は誘いに頷いていた。

    「ありがとう。ご一緒させて頂けますか?」



     夜。
     御子は一枚の笹の葉を片手にぼんやりと、流れる川を見るとはなしに眺めていた。頭上に広がる星々は、その一粒一粒が金剛石の欠片の如く眩いきらめきを放っているのに、視線を向けた先のせせらぎの向こう側は底知れぬ闇に覆い隠され何も見えない。何匹かの蛍が投げかけるいくばくの光のみが、暗い水面を淡く照らし出していた。あたりは静まり返り、ただ流水の音だけが響いていた。はしゃぎつかれた兄妹は、今はすっかり眠っている。
     夕餉を食べ終わるなり御子は二人に連れられ、川べりまでやってきた。見れば二人の持っている笹の葉はとりどりの絵が躍っていた。絵だけでなく字も必要なのではないだろうか。疑問に思い、尋ねれば二人は少しばかり暗い顔をした。字が書けないのだという。

    「ここら一体の子はみんなそうだ。字なんて書けねえ」
    「‥‥‥‥‥‥!」
    「知りたくても、だれも教えてなんかくれないもん」

     考えてみれば当然の事だった。まずは生き延びること、明日を生きて迎える事がその日暮らしの民にとっては何よりも重要なこと。知識など二の次に追いやられる。知りたくても、そもそも知識を得る場所などどこにもない。そんなことにすら気が回らなかった己を、今更ながらに御子は恥じた。
     院にいたころは、唯一生きながらえた変若の御子として手酷い仕打ちは山ほど受けた。だが、同時に修道者らにとって己は重要な存在であったことも確かだった。民らが欲してやまないもの—————温かい飯、清潔な衣服、雨風をしのげる場は、当たり前のように用意されていた。知識も、当時寺にいた世話係の老婆が授けてくれた。それすらも享受できない者がいるとも知らずに、自分ばかりが不幸なのだと無意識ながらに思っていた。

    (私、知らないことばかり……)

     ふと心のうちに暗雲が兆す。世間知らずで変若の力を持っているだけの、ただの女。自分の体力も測れずに旅の途中で倒れ、迷惑をかける。そんな自分を、かの忍びの眼にはどう映っている事だろう。足手まとい。目が離せない。危なっかしい女。そんなところだろうか。
     そう思うと酷く情けなく、涙があふれた。かつて抱いていた憧れは空の星のように高く、明るく輝いて見えたものだが、圧し掛かる現実は向こう岸の見えない川のように、暗く、未知そのものだった。

    「御子様」

     背後から呼びかけられた声。御子は振り返り、気かわし気な、だが微かに痛みを堪えているようなどちらともつかない表情で立つ狼を、認めた。

    「お身体は、如何ですか」
    「ありがとうございます。すっかり良くなりました」
    「それは良かった」

     それきり狼は黙り込んでしまった。居心地の悪い沈黙が広がる。

    「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

     以前はこうではなかったのに。以前は御子の好物の柿を土産に、様々な話をしてくれた。口調も柔らかく、ここまで距離を感じるものではなかった。
     九郎を宿した時から、彼は変わってしまった。会話は目に見えて減り、言葉を交わしたとて最低限なもの。顔を見れば、何かを恐れるように渋く顔を曇らせる。
     途方もなく寂しかった。拠り所としていたしるべが川の向こうに消え去ったような気がした。

    (何を馬鹿なことを。私の役割はお二人を見守ること。それ以上の望みなど願っては罰が当たる)

     だけれども。

    (あの優しい眼差しを、もう一度向けてくださったら……)

     何もかもが中途半端だ。揺りかごとしての役割も果たせず、かと思えば秘めた想いを伝える事も出来ず。何も知らない小娘のままで。
     限界まで堪え、表面になみなみと波打っていた雫がぽろりと頬を伝った。一度決壊した涙は、堰を切ったようにぽろぽろと零れ落ちてゆく。突然涙を零し始めた御子を、狼は驚いたように見つめた。

    「矢張りどこかお加減が……! 早く戻らなければ。御子様、こちらへ……」
    「いいえ、違う、違うのです……!!」

     泣きながら必死に首を振る。

    「先ほど、私はあの二人の兄妹に無神経なことを言ってしまったのです。きっと傷つけてしまった。……愚かでした。人の心一つ汲み取れぬ未熟な女が人ひとりの魂を身に宿しているという事が、とても恐ろしいのです」
    「御子様は立派にお役目を果たされています。何も心配はいらぬかと。それよりも、早く中へ……」

     違う、聞きたいのはそんな言葉ではない。

     なぜ、『私』が心配だと言ってはくれないのですか?
     なぜ、私の目を見てはくれないのですか?

     知っている。狼にとって九郎は絶対だと。己の入る余地などないことも。
     けれど。
     押し殺していた気持ちは、雪崩のように御子を飲み込み、とうとういうべきではなかった言葉が口から飛び出していた。

    「御子様。それは、私のことでしょうか。それとも……?」

     頭を包んでいた布を取り去る。突如強い風が吹く。尼削ぎの、肩口で切りそろえた髪が揺れる。
     —————それはまるで、少年のような。
     狼の目は大きく見開かれ。見紛えはしない、はっきりと苦し気に歪んだ。乾いた唇が小さく戦慄く。許しを乞うように、そして愛おしさの詰まった声で狼は囁いた。

    「御子、様……!!」

     やはり、と思った。恐れていたような落胆や失望は感じなかった。不思議な落ち着きだけが、ただそこにあった。



     天から舞い降りし天女が、下界の男と出会う。だが、引き離され、互いにいつか訪れる邂逅の時を待ちわびる。
     それはとても九郎と、その忍び、二人に似ているように感じた。
     では、自分は?
     ……自分は、鵲だ。二人を見守り、橋を架ける。二人にとってなくてはならない存在。
     そのような存在になれたら、忌まわしい実験の末に生まれた自分にも価値があると思えるようになるのだろう。



     願いを込めた笹船を流す。もう、願いは決まっていた。先の見えない暗い川の流れに乗り、小さな笹船は不安定に揺れながら、岸を離れた。幼子二人が書いた願い事の笹舟を追いかけ、ゆらゆらと進む。
    己の願いを、天は聞き届けてくださるだろうか。いや。首を振った。たとえ聞き届けられずとも、二人を大切に思う気持ちは変わらない。ずっと、見守っていくだけだ。今までも。この先も。

    「明日、発ちましょう」

     狼が言った。

    「少し歩けば、街につきます」
    「ええ」
    「街に着きましたら……」

     ふと狼がこちらを見た。目があった。

    「どうしました?」
    「いや……。街についたら、どこか甘味処へ寄ろう。近所の者から聞いた話だが、団子の旨い店があるらしい。……どうだろうか」

     たどたどしく呟かれた誘い。しゃがみ込み、御子と視線を合わせ狼はぎこちなく微笑んだ。
     不器用で、優しい。彼に大切に想う者の存在があったと分かっていても、否応なしに惹かれてしまう。

    (だからこそ、私はそんな貴方を好きになった)

     この想いは叶わなくていい。叶えなくていい。大切に心のうちに閉まっておく。いつか心の整理がついて、彼に話すことが出来るようになるまでは。
     自分の想いを告げることで、九郎様を取り戻そうと前を向く彼の邪魔をしてはいけない。
     だから、笑顔で。

    「ありがとうございます。是非、参りましょう」

     華やかな微笑を浮かべ、ひとつ頷いた。

     空には、美しい天の川がはるか天に広がっていた。雲一つない、透き通った夜空だ。今頃織姫と彦星も無事に出会いを果たしていることだろう。
     いつか狼と九郎、二人にもその日が来ることを願い、御子は流れに消えゆく笹舟を見守り続けた。


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    Replies from the creator

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    DONE変若の澱の後遺症の影響で体が衰えゆく弦一郎と狼が雨宿りしながら語らう話。

    しんみりと切なくて温かい話を目指しました。
    青梅雨 じとり、と。頬に触れる空気に、纏わりつくような重さをふと覚えた。山稜から吹き付ける風は蒸れ、むせかえるほどの土気と露を含んだ山草の濃い香りを運ぶ。山の脈動と力強い息吹を感じる風の中に入り混じる微かな青梅の香を、熟達の忍びの鋭い嗅覚は機敏に感じ取った。
     空を見上げる。山に分け入った際は僅かな横雲がたなびいていた筈の空は、今や陰雲が無数に立ち込め、空本来の色を完全に覆い隠してしまっていた。時折遠雷の音が雲の切れ間から朧げな響きを伴って、鳴る。

    (もうすぐ雨が降る)

     ここから城へはどれほどか。遠くに目をやるも既に城は遠霞の向こう側に覆い隠され、そこにあるのはただ白いもやばかりである。
     どこか雨を凌げる場所を探すほかあるまい。忍び———狼は判断し、くるりと踵を返した。手に持ち運んでいるものを抱えなおし、雨に濡らさぬよう自身の首に巻かれている色褪せた白橡色(しろつるばみいろ)の襟巻をそっとそれにかぶせる。己は濡れても良いが、今腕に抱えているものだけは決して濡らしてはならない。
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