ーー嫌なら断りゃいいのに……
そう頭では理解しているはずなのに、重い足を引きずるようにして約束の場所に向かう己は本当に愚かで浅ましいと思う。
多分鉄鼠は時間になって朱の盆が姿を現さなくとも、何とも思わないだろう。仕事が押したと見るか、別に切れてもいいと思うか。とかく、表向きは胸倉を掴み罵声と拳を投げ合う仲の悪さが周知されているような間柄だ。
きっとこれ以上嫌われることなどない。
胸の奥にわだかまるもやもやを吐き出すように、無意識に溜息がこぼれた。
傘の表面を叩く音よりも、降りしきる雫の勢いの方が耳につく土砂降りの夜。
明かりの消えた宿の戸を控えめに叩くと、暫くしてから立てつけの悪いそれがゆっくりと開く。途端埃っぽいようなかび臭いような室内の空気が鼻について、朱の盆は店の者に気づかれぬようぐっと奥歯を噛み締めた。
「ツレが先に来てるはずなんだが」
「……お二階の奥の間です」
幾度か訪れているため、顔を覚えているのだろう。ボソボソと聞き取りにくい調子でそう招き入れてくれた男は、朱の盆に手を差し出しびしょ濡れになった傘を恭しく受け取った。
鉄鼠はいつも同じ部屋にいる。
案内されるまでもなく、軋む階段を上がった朱の盆は言われたように一番奥の部屋の襖を開けた。
「入るぞ」
「おや……今日はもう来ないかと思ってました」
「…………約束してっから」
枕元、限りなく小さくされた行灯の火に青鼠色の双眸が反射して光る。そうした些細を見る度に、やはりこの男は獣の血を引く種なのだな、と朱の盆は改めて思うのだ。
「約束、ねえ……」
くつくつと喉奥で笑われて、思わず口が尖りそうになったのを辛うじて堪える。鉄鼠がどう思おうが、朱の盆に取っては約束だ。
こちらが踵を返してしまえば途端に、恐らく二度と紡がれることはない関係を何と呼べばいいのかーーそれなのに求められて嬉しいと想うこの気持ちを何と呼べばいいのか、未だに解らずにいる。
「ほら、突っ立ってないでこっち来て。いつまでもそんな恰好してたらいくらあなたが馬鹿でも風邪引きますよ」
「うるせぇ」
ーーああ、嫌だ……
嫌なはずだ。
嬉しいなんて勘違いだ。
なのに、足は言われるままに鉄鼠の方へ歩み寄る。引かれるままにその腕の中に堕ちる。
ーーお前は別にオレじゃなくたっていいのに……
出来るなら時間を巻き戻して、あの日の前に帰りたい。全部全部なかったことにして、ただ気楽に喧嘩だけしていた日々に戻りたい。
ーー何でオレ……
ゆっくりと重なる口唇に早くも思考がぐちゃぐちゃに溶かされて行く。
ーーお前、何でそんな顔してんだ……?
言葉に出来たのはそれが最後で、後は悦楽の濁流に飲まれた。