ーー今日はいっぱい人助けしたぞ……バアちゃんの荷物運んだし、迷子探し手伝ったし、引ったくり捕まえたし、お使いもちゃんと終わった……
気分よく戦果を心の中で指折り数えながら、朱の盆は道場への廊下を歩いていた。思わず上機嫌に鼻歌がこぼれてしまうのはご愛嬌と言うやつだ。
ぬらりひょんに拾われて、ねだって稽古をつけてもらうようになってからこっち、朱の盆は傭兵稼業の手伝いをするのが日課となっていた。無論、まだ妖力の使い方が完全に掌中にあるとは言えない段階であるため、あくまでも『力は絶対使わない』と言う約束事の前提ではあるが。そうなると自然『手伝い』と言っても、荒事からは程遠い仕事内容になる。
それでも誰かに感謝されることはとても嬉しい。
今まで誰かを怖がらせて傷つけるだけのものでしかない、と思っていた力が誰かの助けになることはとても嬉しい。
そして何より、尊敬するぬらりひょんに褒めてもらえることがとても嬉しい。
ーーもっと稽古して、早く前線でお館様の隣に立てるようになりたいぜ……
そのために剣の稽古は欠かせない。
力の制御を覚えるだけではなく、盾となり鉾となるため、戦う術は多ければ多いほどいいのだ。
堺に拠点を置く、となった際、手を組んだ隠神刑部はこの立派な城と傭兵団用にたくさんの武家屋敷を用意してくれた。雨露を凌ぐのも人数の都合上苦労していた彼らにとっては、大変ありがたくはあったがあの日々も懐かしいと言えば懐かしい。
慣れない真新しい建物はまだほんの少し樹の匂いがする。晴れた日は特にそれが顕著だ。
すん、と鼻を鳴らして本館から道場への渡り廊下へ出たところで、朱の盆は耳慣れない音を聞いた。べん、べべん……と空気をたおやかに震わせる不思議な音色に、しびびっと全身に小さな雷が走ったようだった。
色を変え、調子を変え、確かな流れを描き出すそれを『旋律』と呼ぶのだと言うことは知らなかったが、とくとくと己の鼓動がざわめき心が騒ぐのに逆らうのは勿体ないと本能が叫ぶ。
ーー前聴いた……流しの芸人の笛とか、太鼓とか……ちょっと違うけど似たものだ!
たっ、と踵を返し音のなる方へ。
一体誰が奏でているのやら、とひょっこり顔を覗かせてみれば、生垣の向こうに煙羅煙羅用の庭が広がっている。縁側に座って何やら細長いものを抱えている彼女は、がさがさと枝葉を揺らしてぴょこりと生えた灰銀の頭に、驚いたように手を止めてしまった。
「朱の盆……! どっから入って来てんだぃ、全く」
「今の音、煙羅煙羅か!?」
「そうだよ。三味線って言うんだ」
「すげーいい音だな!」
剣の稽古に向かう途中だったことは頭の中からすっぽ抜け、煙羅煙羅の隣に腰を下ろして朱の盆はきらきらした眼差しを彼女の腕に抱く楽器に向ける。
「ふふ……気に入ったかぃ?」
「おぅ! 続き! どうやってやるんだ?」
「この撥で糸を弾いて奏でるんだよ。反対の手でこうして糸を押さえて……」
言いながら、細い指が動いて先程の音を紡ぎ出す。どうしてそれで音が出るのか仕組みはさっぱり解らなかったが、朱の盆の口からはほう、と感嘆の吐息がこぼれた。
「すげーなぁ……」
「やってみるかぃ?」
「え? いいのか?」
「ぬらりひょん様からいただいたものだから、大事に扱っておくれよ」
「わ、解った!」
わくわくと溢れる好奇心を抑え切れない顔で草鞋を蹴るように脱ぐと、朱の盆は煙羅煙羅に倣って縁側へ正座した。渡された三味線をおっかなびっくりと抱える。
「反対だよ、あんた利き手は右だろう?」
「右ってどっちだ?」
「お箸……あー、刀持つ方だよ」
「ん」
撥を握り、反対の手指で押さえた糸を掻き鳴らす。煙羅煙羅のようにピン、と立った音は鳴らずぺよん、と間伸びした音ではあったが、朱の盆は何せ自らの手で楽器を鳴らすのは初めてだ。ぱあ、と喜色を広げる表情豊かな顔に、煙羅煙羅はふふと笑みをこぼした。
「もっと背筋を伸ばしてごらん。あと三味線はお腹に当てちゃあ駄目だよ、音が響かない」
「こ、こうか?」
「いいよ、左手はもう少し上だね」
べん……っ、と今度は張りのある音が庭先に響く。
「おお……っ!」
「ふふ、上手じゃないか。じゃあ、今度はこっちの指で下の糸を一緒に押さえて……」
本来最初は一つ一つの音を探り当てるのもそこそこ苦労するものなのだが、元々勘がよいものか四苦八苦しながらも音階を順繰りに鳴らすだけは割りとすぐに飲み込んでしまう。
ーーなかなかどうして器用なもんじゃないか……
感心しながら曲とは呼べないめちゃくちゃな旋律を紡ぐ朱の盆を眺めていると、
「……こんなところにいたのか」
座敷から二人の主が顔を覗かせた。
そこでようやく、本来自分が何をしようとしていたのかを思い出して朱の盆の顔が青ざめる。稽古の時間になっても姿を見せないものだから、ぬらりひょんはあちこち探したのだろう。
「おおおおおお館様! 申し訳ございません!! 別に稽古サボろうとかそう言うつもりじゃなくて……」
「構わん。お前が剣以外に興味を持つのは大事なことだ」
ゆっくりと歩み寄ったぬらりひょんは、反対隣に腰を下ろし鬼の丸い頭を撫でる。
「これは面白いか?」
「はい! あ、でも稽古してください! 煙羅煙羅、これありがとな」
「もういいのかぃ?」
「明日! 明日またやる!」
「何だ……聴かせてくれるのかと思ったがな」
「ま、まだ今日初めて触ったので! 練習、して……その、ちゃんと弾けるようになったら聴いてください」
「……解った。楽しみにしていよう」
そう頷く主に、朱の盆は照れくさそうなはにかんだような笑みをこぼした。
とは言え、煙羅煙羅も本気で朱の盆が三味線を嗜むようになるとは思っていなかった。このくらいの歳頃の興味と言うものはころころと移ろう。せいぜいもっても十日ばかしのことだろうと思っていたのだ。
けれど予想に反して朱の盆は暇を見つけては煙羅煙羅の元に通い、日々少しずつ手ほどきを受けた。始めは拙かった指運もひと月経ち、ふた月経ちする内に次第に様になり、覚えた譜面をそらで演じられるようになる頃には洒脱な脚色まで出来るような腕前に成長した。
ならば、と今度は同じように煙羅煙羅が齧った程度の琴を与えてみたところ、これまたあっと言う間に上達してしまったのだ。
「思うに朱の盆は目と耳がいい。勘も鋭い。向いているんだろうな」
とはぬらりひょんの弁であるが、短期間で基礎を習得出来たのは、道場で立ち会いをする時と同様に凄まじい集中力を発揮しているからなのは間違いないだろう。
彼の自室にはいつの間にか古い三味線と琴が置かれるようになり、気の向くまま時に繊細で情緒豊かな、時に激しく血の滾るような様々な曲が奏られるようになった。
* * *
「お、何でこんなところに三味線が?」
鉄鼠宅で見慣れぬものを発見して、朱の盆の双眸が丸くなる。何せ余計なものを置きたくない主義のこの男の持ち物としては、あまり相応しいとは言えない代物だ。
「クソタヌキの皮剥いだ記念で作りました」
「お前上司に何してんの」
「冗談ですよ。預かり物です」
何でも口裂け女の舞台の演奏隊に貸し出す予定らしいのだが、隠神タワーの倉庫に眠っていた年代ものであるため調律と手入れが必要だろうとのことであった。
「お前三味線とか弾けたのか」
「失礼ですね……まあ、それなりには。食って行くためにはいろいろ覚えておいて損はないですからね」
べべん、と二三節即興で奏でてみせる辺り、なかなか手慣れているらしい。
「今音半個ずれてた」
「おや、どれですか?」
「貸してみ」
糸に触れ、躊躇なくネジを調節し、張り具合を整えて行く朱の盆に鉄鼠は信じられないものを見た、とでも言いたげな顔をした。
「え……弾けるんですか?」
「おう」
「あなたが?」
「だから弾けるっつってんだろ。あと琴とか笛とか太鼓もイケるぞ」
「……意外過ぎてどんな情緒でいればいいのやら」
「失礼なやつだな」
不満気な顔をした朱の盆の手がゆっくりと旋律をなぞり音を紡いで行く。最近堺の巷で流行っているしっとりとした歌を、譜面も見ずに奏でる鬼に鉄鼠は思わず見入ってしまった。
図らずもそれは大切な恋人に向ける愛の歌だ。
ーーまあ、このバカにそんなつもりはないんでしょうが……
曲が終わるなりどうだと言わんばかりのドヤ顔を披露する連れ合いに、赤くなった頬をごまかすように咳払いして鉄鼠は今度はお前の番と差し出された三味線を受け取った。
しばし、曲目を考えた末にこりと笑みを浮かべる。
「オレがゼニ取らずに披露するなんて多分初めてなので、しっかり聴いててくださいね?」
以上、完。