口直しに甘ったるいケーキを口直しに甘ったるいケーキを
「……騙したな」
ふみやは恨めしげに天彦を睨みつけた。雲ひとつない晴天の冬の日、二人は総合病院の正面玄関前で立ち止まっていた。
「高級ホテルのスイーツビュッフェ連れてってくれるって言ったじゃん」
「はい、でも途中で予防接種をしないとは言ってませんね」
「詐欺だろ、こんなの」
「仕方ないでしょう。貴方が「注射マジ無理」とか言って頑として受けたがらないんですから」
「注射マジ無理」
「貴方が数日家を空けていた間、ハウスのほぼ全員が罹患しているんです。症状もかなり重い様子でした。ふみやさんには苦しい思いをしてほしくないんですよ」
季節の流行病がカリスマハウスを襲っていた。
ほぼ全員、というのは天彦とふみやを除いた全員である。不在だったふみやと予防接種を受けていた天彦だけが健康だったので、天彦は急いで予防接種の予約をしてふみやを連れてきたのだ。
「そうか、俺のためなら仕方ないな」
「ふみやさ……」
納得したような態度で天彦を油断させ、その一瞬の隙をついてふみやは全力で後方へダッシュした。
「ふみやさん!」
天彦も慌てて走り出す。体格は天彦が勝っているし普段鍛えているとはいえ、年齢差を考えると素早さはふみやの方が上かもしれない。しかもわざわざ電車を乗り継いで来た知らない町である。地の利もない。見失うことよりふみやが迷子になってしまうことが心配だった。
駐車場を走るふみやの数メートル後ろを追っていた(危ないなと思いながら)が、二人の間を車が通ってしばし姿が見えなくなる。そしてその車が去った後に、前を走っていたはずのふみやは消えていた。
「ふみやさん……?」
小走りで名前を呼びながら周囲を見回してふみやを探す。遮るものといえば車くらいしかない上に空きの多い駐車場である。そこにいなければいないですね。どこかの店員よろしくあっさり見失った。
もしかして帰ってしまったのだろうか。本当に心からふみやを思ってのことだし、スイーツビュッフェに行くのだって嘘ではない。そっちも予約してある。けれどやっぱり、こんな騙し討ちのようなやり方は良くなかったか。
がっくりと肩を落とし、ひとまず病院へと引き返す。帰ってしまったなら予防接種の予約はキャンセルしなければならないだろう。
と、俯く天彦の視界の端に見覚えのあるオレンジ色が飛び込んだ。
「あ」
「あっ」
ふみやが、病棟と病棟の狭い隙間に挟まるようにしゃがみこんでいた。目が合うとバツが悪そうに立ち上がった。
「良かった、帰っちゃったかと思いました」
「天彦が諦めて帰るのを待ってたのに。なんで戻ってきた?」
「諦めて帰るにしても、予約はキャンセルする必要がありましたから」
「よく見つけたね」
「その上着、結構目立ちますよ?」
今度は逃げないよう腕をホールドして病院に入ろうとする。ふみやは足を踏ん張って抵抗した。
「もうここまで来たんですから、やっちゃいましょう」
「いやだ」
「ちょっとチクっとするだけですよ。怖くありませんよ」
「怖いかどうか、決めるのは俺だろ」
「もう十九歳でしょう」
「まだ未成年だから」
まるで散歩を拒む犬だ。そして犬は往々にして、飼い主に力では敵わない。ふみやもそうだった。思い切り重心を後ろに傾けて引っ張ろうとしてもじわじわと病院の入り口へ運ばれていく。靴の裏が擦り減るだけだ。
「注射の時も天彦がそばにいてあげますから、ね? 頑張りましょう」
「手、握っててくれる?」
「ええ、いくらでも」
「……分かったよ」
天彦がそばにいて、手を握ってくれるなら。頑張るよ。抵抗するのも疲れたし。
そう諦めて、自動ドアをくぐった。独特の薬品臭に包まれるとまた逃げ出したくなったが、しっかりと手を繋がれているのでできなかった。
初めて来た病院だったので、初診受付をして診察券を作り待合室で待つ。ふみやは急に大人しくなった。ようやく覚悟が決まったかと顔を見れば、見たことないくらい蒼白になっていた。繋いだ手にはびっしょりと汗をかいている。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない。やめよう」
食い気味で早口だった。
「あまり緊張しすぎると良くないんです。迷走神経反射と言って、注射による過度な恐怖や緊張で気分が悪くなったり、最悪失神することもあるんですよ」
「うんやめよう」
「リラックスして、深呼吸」
ふみやの声は届いていたが完全に無視された。不機嫌そうに眉根を寄せる。天彦がお手本に深呼吸したので、それに合わせて深く息を吸って吐くと少し落ち着いたような気がした。
『伊藤ふみやさん、三番にお入りください』
スピーカーの放送で呼び出され、ふみやが椅子から飛び上がらん勢いで驚き怯えた。
天彦が先に立ち上がり、手を引いて三番の部屋に入る。真っ白な頭の、サンタクロースのようで優しそうなおじいさん医師が待ち構えていた。
「すみません、付き添いいいですか」
「どうぞ、構いませんよ」
注射の用意が整った長テーブルの前の丸椅子にふみやを座らせ、その隣に天彦は立っていることにした。予防接種を受けるにあたってニ、三の質問があったが、全部天彦が答えた。ふみやは怖がって何も言えないようだった。
「はい、じゃあ腕まくって。力抜いてねー」
テーブルに腕を差し出し、袖を捲るのも天彦がやった。片方の手はふみやがずっと握っているのでやりづらい。アルコール綿で消毒されるといよいよ震え出し、空気を抜くため上に向けた針の先を凝視した。
「あ、あま、ひこ、」
「はい」
「あまひこ、あまひこ……」
名前を呼んではいたが、ほとんど意味のない鳴き声と同じだった。刺される腕も見ようとしていたので、「見ると余計怖いですよ」と目を塞いでやる。大きな手は冷たくも安心感があり、これがなかったら喚いていたかもしれないとふみやは思う。
さすがに天彦も気の毒になってきた。ここまで怯えるとは思っていなかったのだ。もはや苦手の域ではない。恐怖症と呼んでも差し支えないのでは。
ふみやは身体をひどく強張らせ、天彦の手を強い力で握りしめた。無意識のことなので全力以上の力が出ているのかもしれない、天彦は少し痛かった。
呼吸を荒げて短くはっ、はっ、と苦しそうに息を吐くので目を隠す手で頭を撫でる時のように優しくゆっくりとリズムをとった。
「ふみやさん、落ち着いて。深呼吸」
今度は聞いてくれなかった。呼吸は浅いままだ。
「うぅ、あまひこ……やだ……」
聞いたこともないくらい弱気な声だ。夜には散々あられもない姿も見てきたが、こんな声も出せたのかと。
そしてついに針がふみやの腕に刺さった。薄く皮膚を突き破り、その内溶液を筋肉へ注入していく。
そして針を抜いた直後、ふみやは突然気を失った。
「ふみやさん!?」
「伊藤さん!」
危うく倒れそうになるところを天彦が受け止める。針を抜いた後で良かった。
『迷走神経反射と言って、注射による過度な恐怖や緊張で気分が悪くなったり、最悪失神することもあるんですよ』
さっき自身で言ったことが脳裏を過ぎる。ふみやは普段落ち着いているし、もしこの症状が出ても気分が悪くなる程度で済むかと思っていたのだが。予想外に物凄く怖がっていたし、本当に悪いことをしてしまった。
脱力して天彦に体重を預けるふみやは目を閉じて額に汗を滲ませている。顔色はやはり白いままだ。
「寝かせましょうか」
医師に言われ、すぐ隣に置かれていた黒い革のベッドに横たえてやる。いつも見る穏やかな寝顔とは別人のように弱った様子は痛ましかった。手を握ると氷のように冷たくなっていた。
五分とせずにふみやは目を開いた。起きあがろうとするその肩を抑える。
「もう少し休みましょう。もう終わりましたから、動けるようになったら帰りますよ」
「終わった……?」
「はい。よく頑張りましたね」
「じゃあ、スイーツビュッフェ行ける?」
「え、食べられます?」
「食べるよそりゃ。これで行かなかったらマジの嘘になっちゃうよ」
気分が悪くなっているのではと心配していた天彦だが、どうやら食欲はあるようで安心した。それどころか行く気満々で今にも立ち上がろうとするので安静にと制する。もしかしたら拗ねてしまうかもしれない、怒るかもしれないと思っていたがそれも大丈夫そうだ。
「はは、じゃあ約束通り。休んだら行きますよ」
なんだか気が抜けてしまって、額に掌を当てて笑った。
スイーツビュッフェのあるホテルは病院から歩いて行ける距離にあった。かなり血圧が低下しているはずのふみやだが、体調が悪そうな様子は全くない。むしろ天彦より先をずんずん歩いて行く。その足取りは浮かれていて、よほど楽しみだったのだろうと思うと騙したことへの罪悪感が重く天彦にのしかかった。
「ここだよね」
しょげる天彦をよそにふみやはホテルを指さした。天彦が頷くや否や早足で入って行く。予約していた天堂です、と勝手に受付を済ませて着席し、システムの説明などを申し訳程度に聞いて即スイーツを取りに行った。
そして光の速さで皿いっぱいにスイーツをてんこ盛りにして戻ってきたふみやの顔といったら。ホクホクである。可愛らしく飾られたフルーツやクリームに容赦なくフォークを突き立てて次々と口に運ぶ。
「天彦、食わないの? めっちゃ美味いよ」
「え、ああ……」
「どうしたの?」
もうとっくに注射のことなど気にしていないようだが、天彦の喉にはそれが引っ掛かっていた。
「すみません。貴方の好物につけ入って騙すような真似をして」
「騙すようなっていうか、完全に騙してたよ」
「申し訳ありません……」
天彦は項垂れるように頭を下げた。ふみやはあっけらかんとしている。
「なんだ、気にしてたんだ」
「だって失神までさせてしまいました」
「天彦のせいじゃないよ。スイーツだって連れてきてくれたし。むしろ、ありがとうな」
顔を上げると、ふみやはスイーツの手を止めて天彦を見てくれていた。好物を前に、口元にクリームを付けて嬉しそうなその顔を見てようやく天彦も食欲が湧いてきた。
「なら良かったです」
ふみやの唇のすぐ横を指で拭い去った。その指を軽く舐める。白いクリームが舌の赤に乗って口の中に入っていく。なんだか艶かしくてふみやの目が釘付けになる。
天彦は甘く上等な味を感じながらそんなふみやを見てふっと口角を上げた。
「……」
「セクシーですね」
無言で照れているふみやに笑いかけ、スイーツを取りに席を立つ。
セクシーなのはお前だよ。