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    閉所恐怖症ぁまひこをふみゃと一緒にエレベーターに閉じ込めたらどうなっちゃうの〜!?

     天彦は狭いところがダメなんだろう、というのはふみやも勘づいているところだった。
     二人が付き合い始めてからしばらく経っており、逢瀬だって何度もしている。大型ショッピングビル、海や山にラブホテルまで、あらゆる場所に一緒に出かけた。
     しかし、その中で一度もエレベーターを使ったことはないのだ。
     一番高い階だとラブホテルの八階だっただろうか。そこしか空いていなかったのでその部屋を取ったが、その時でさえ天彦は健康のためだの準備運動だのと言い訳をして階段で行った。
     自分からエレベーターが苦手だと言い出さない以上、ふみやの方から聞き出すつもりもない。きっと格好がつかないとかなんとか思っているのだろう。ふみやも男である。そういった見栄はよく理解できた。
     今日は大型ビルの十四階である。なんとなく夜まで時間を潰し、これからホテルへしけこもうとしている二人である。
    「では、いきましょうか」
     なんて、当たり前のようにエスカレーターを使おうとする天彦を、ふみやは止めた。
    「エレベーターで行こうよ。十四階だし、さすがに」
    「エスカレーターでいいじゃないですか。待たずに降りれますよ」
    「疲れる。このあと"運動"するだろ」
     ホテルでする行為のことを考えれば、体力は温存しておきたいのがふみやの考えだった。それとは別に天彦へのちょっとした意地悪でエレベーターに乗ってみたい気持ちもある。
     まあ、本当に拒否するなら無理にとは言わないが。
    「セクシー……いいでしょう、エレベーターで降りますよ」
     天彦は拒まなかった。ふみやの言葉に恍惚として勇足でエレベーターの前に立つ。
     狭い箱には二人きりだった。一階ずつ下がっていくエレベーターは不気味なくらい静かで、乗る者も降りる者もいない。
     隣の天彦を仰ぎ見る。やはり恐怖を感じているらしく、顔が強張っている。一文字に結んだ唇が少しだけ震えている。努めて呼吸を整えようとしているのが胸の動きと吐息の音から伝わってきた。
    「大丈夫?」
     思ったよりも天彦が抱える恐怖は大きいものだったらしい。大人しくエスカレーターで降りてやればよかったかも、とほんの少しの後悔と心配でつい尋ねる。
    「……何がですか」
     あくまでも知られたくないらしい。険しい表情で前を向いたまま、いつもより特段声が低いのは怯えが滲まないよう気をつけた結果だろうか。不機嫌なようにも見えるが、強がっているだけなのは分かっていた。
     であれば、その強がりを通してやろう。
    「いや、なんでもない」
     どうせもう三階まで来ているのだ。もうくぐこの箱からは去る、そのあとはもうエレベーターになんか乗せてやらないことにしよう。
     だが、そうはいかなかった。
    「あっ」
    「え?」
     ガタン、と何かがぶつかったかとでも思うような衝撃の後、エレベーターが揺れた。いや、地面全体が揺れていた。地震だ。
     二人は驚いて顔を見合わせる。
    「結構揺れるね」
    「震度五くらいでしょうか」
     揺れが収まった。
     地震による直接的な被害はないが、さて、困ったものである。エレベーターは、地震が起こるとしばらく止まる。
     天彦は絶望しているだろうと顔を覗けば、動揺を隠そうと目を閉じて深呼吸していた。しかし細く長く吐く息は既に震えている。
     まずは非常ボタンから管制室に連絡を取らなくては。ふみやは赤いボタンを強く押し、繋がった通話であと一時間程度でエレベーターは動くという情報を得た。
    「一時間だって。天彦」
     平常心を保つのに必死な天彦の耳は音を拾わなかった。感情を押し殺した真顔で正面を見つめている。澄んだ青の瞳は不安に揺れていた。
    「天彦、とりあえず座ろう。立ちっぱなしじゃ疲れるだろ」
     よく見れば膝が震えていたので、肩を触って促す。天彦はびく、と跳ねた。
    「っ、あ……はい。そうですね……」
     触れられたことで己の内側に向いていた意識を呼び戻されて驚き、ふみやと並んで腰を下ろす。
     こうなってしまっては、虚勢を張り続けるのも疲れるだろう。
    「天彦さ、狭いところダメだろ」
     分かっていると、バラしてしまおう。素直に怖いものは怖いと頼ってもらいたかった。
     天彦はふみやの方を見た。眉をハの字に下げた顔にはもう強がる必要はないという安堵と、弱いところを知られたことの恥ずかしさが滲んでいた。
    「はは、いつから気付いてました?」
    「確信したのはラブホの時。さすがに八階まで歩くのは不自然だろ」
     誤魔化し笑いも力無く、はぁ、と短くため息を吐いて項垂れた。
    「情けないところを見せてすみません」
    「そんなこと気にしないよ。ほら」
     ふみやが差し出した手を、内心とても助かると思い握りしめる。さらさらしたふみやの手の温もりで、自分の手がひどく冷えて汗をかいていることを自覚した。冬だが空調は効いていて室温はさほど低くない。この冷えは精神的なものだろう。
     そもそも、狭いところへの恐怖は幼い頃の折檻が原因だった。厳格な父は何かと言えばお仕置きと称して天彦を蔵に閉じ込めた。年端も行かない少年である、暗く生命の気配のない蔵に何時間も置かれるのは途方もない恐怖であった。狭く閉鎖的な空間はその時の恐怖を呼び覚ますのでどうしても苦手なままだ。今はもう大人で、折檻などされることもなく大抵のことは力で解決できる程度には鍛えている。それでもエレベーターは避けてきたし、テラによって部屋から出られなくなった時には多少の怪我を覚悟して窓から飛び降りた。
     そんな天彦にとって、現状はまさしく脅威である。満足に腕も伸ばせない、寝転ぶなど当然できもしない狭い箱。その閉塞感が、天彦の胸をギチギチと締め付けた。
     なんてことはない。一時間もすれば出られるのだ。
     自分にいくら言い聞かせても、迫る恐怖は天彦を捉えて離さない。身体が震える。冷えと同じように、心臓から遠い末端の部分から順番に震え出すので、手を繋いだふみやにはそれがよく伝わっていた。
    「天彦、落ち着いて。大丈夫だから」
     分かってる。分かっていますよ。ご心配ありがとう。声にはならなかった。ただ不安定な息がはっ、はっ、と発せられるだけだ。
     ふみやの紫色の瞳が視界で揺れる。焦点が定まらない。怖くて怖くて、ただ繋いだ手に縋るしかなかった。ふみやの手の甲に額をつけて目を閉じ、眉根を寄せる。
     まるで神に祈る敬虔な信徒のようだと、場違いにもふみやは思った。縋られる自分はさながら神だと。その震えは神を畏むようだと。
     薄情? 所詮、完全な感覚の共有などできやしないのだ。天彦が感じている恐怖は天彦のもの。いくら憐んでも、貰ってやることはできない。
     可哀想な天彦。ふみやにとってはただの窮屈な部屋でしかないこのエレベーターが、天彦にとっては絶望の檻なのだろう。
     引き寄せられた手にはびっしょりと汗をかいている。縋る額も同様で、こんなにも身体が冷たいのに炎天下にいるかのごとく汗だくなのはちぐはぐだ。ブルブルと震える様は薬物中毒のようでもあった。乱れた呼吸に時折、ぅ、ひっ、と嗚咽のような声が混じっている。手の握る力は本当に強くて、骨が軋むほど痛い。高所から落ちないように掴まる命綱とでも思っているのか、と。きっと本人は恐怖に支配され、そんな比喩を考えることなどできないのだろうが。
     戦慄く唇が何かを紡ごうとしているのが聞こえた。
    「……さい」
     か弱い声だった。
    「ごめんなさい……」
     天彦は、自分で何を言っているか理解していない。意思を介さず声だけが出ていた。うわごとだった。
    「お父様……ごめんなさい……」
     ふみやは目を丸くした。手を額につけているため見えない顔を横から覗き込むと、真っ青になってぎゅっと閉じた目尻に涙を浮かべていた。
    「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……! 開けて……ここから出して、お父様、ごめんなさい……」
    「天彦」
     百八十五センチの大男から発せられる低い声ではあるが、そのトーンは幼い少年のものである。きつく瞑った瞼の裏に何が見えているのかは、ふみやにも容易に想像ができた。
    「天彦、天彦」
    「ご、ごめ、なさ……ごめん、なさい」
     落ち着かせるために手を額から離そうとすると追い縋るように力強く引き寄せられた。
     ひゅ、と天彦の喉が鳴る。
     それを皮切りに天彦の呼吸は完全に乱れてしまう。吸っても吸っても苦しくて、それなのに酸素を求める程に一回の呼吸は短くなっていく。深呼吸、と頭の隅では思っているのだが身体は言うことを聞かない。鼓動は不自然に早まってバクバクと不愉快に胸の内側を打っている。依然震えも続いていて、生理機能の何もかもが不随意になってしまったかのようだった。
    「天彦、落ち着いて。俺の目を見て」
     強引に手を離し、浅い呼吸に苦しむ天彦の顔を正面から見据えた。過呼吸を起こすその口は中途半端に開いたまま奥歯をカチカチと鳴らしている。脳内のほとんどを占める恐怖の隙間にどうにかふみやの声を割り込ませることができたようで、恐る恐るといった様子で開いた瞼の下に青い瞳が涙で歪んでいる。汗で額に前髪が張り付いていた。いつもの活力に溢れた奔放な姿は見る影もなかった。
    「天彦、天彦。深呼吸」
     どうしよう。全然聞いてくれない。聞こえていない。
    「ご、め……なさ、ごめん、な、……さ、ひゅ、っ……おと……さま、……ごめ、」
     目を開いてなお、脳裏のビジョンに囚われた天彦は目尻からぼろぼろと涙を溢して惨めに泣いている。その間にも呼吸は浅く荒くなっていき、いずれは死んでしまうのではないかと思われるほどに苦しそうだった。側から見ていてそう感じるのだから、渦中にいる本人はさぞかしつらいだろう。
     こういう時、ビニール袋でもあればそれを口に当てて応急処置ができるのだが、生憎そんな用意はない。だが手ぶらでも呼吸を落ち着けてやる方法を一つ、ふみやは知っていた。
     パニック状態に陥る天彦の頬を優しく手で包み、震える唇を塞ぐ。ワールドセクシーアンバサダーを名乗るくらいだからキスの最中は鼻で息をすることは分かっているはずだろうに、混乱していて呼吸そのものを止めてしまう。だが、それでいい。むしろ都合がいい。
     気の毒なくらい冷えた唇に何度もキスをした。エレベーターには必ず監視カメラがついていて、それを無効化する術もとっていない今はきっと見られているだろうが、そんなことより天彦を落ち着かせることの方がよっぽど大事だった。
     唇を離す度に天彦は思い出したように過度な呼吸を再開する。キスをしている最中には息を止める。一見すると極端だし、正直これが医学的に正しいのかはふみやにも分からなかった。ただ、何もせずに見ているだけではなんだか見殺しのような気がして、できる限りの対処をしたつもりだ。
    「……ぷは、ふみやさん」
     まだいつものような生命力は宿っていないものの、幾分か落ち着きを取り戻した青がふみやを見据えた。
     かと思えば、ふみやに力強く抱きついてきた。先程手を握られていた時と同じように手加減ができていない天彦の力はふみやの骨を軋ませる。勢いもあったハグにぐぇ、と小さく呻いた。
     本来これだけの強さを発揮できる人間なのだから、日頃のスキンシップがいかに優しいものなのかがよく分かる。天彦からすれば自分なんてきっと壊れ物だ。
    「ありがとうございます」
     抱擁のため後ろから聞こえてくる声はまだ震えていた。だがまともに話せるまで戻ってこられたから、あとはこのままエレベーターが動く時間まで堪えればいい。
     ふみやは腕を伸ばして天彦の背に回す。自分を押し潰さんとする力に負けじと抱きしめ返した。そして子供をあやすように手のひらでぽん、ぽんと優しく撫でる。
    「落ち着いた?」
    「ふみやさん……」
     子供じゃないんですから、と言おうとした口を噤む。背中を撫でる手の温もりが心地良いから。
     心臓はまだ早鐘を打っている。密着したふみやにもそれは伝わっていた。
     天彦のいつになく早い鼓動を感じながら、ただ抱き合う。ゆっくりのリズムで背中を柔らかく叩く。呼吸はすっかり整っていて、異常はほとんど治っていると言えた。身体が少し強張って動悸がする程度だ。
     やがてエレベーターが動き出す。ハグで落ち着いてから二十分は経っていたが、体感はもっと短かった。
     天彦は名残惜しげにふみやから離れ、ドアに向かって立つ。ふみやも並んだ。チン、と音がして一階に到着する。
     床を踏みしめてエレベーターから出る。手を繋いだまま。
     もう、震えてなどいなかった。
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