花雷は二度咲く 花火は初秋の季語だそうだ。秋の初め、つまりは夏の終わり。たしかに日が短くなり始めた頃の夜空に火薬の光は良く似合うかもしれない。が、物事には必ず例外がある。ある本丸の審神者にとって花火大会は、夏を知らせるものであった。
「お、今年もこの時期か」
政府のお知らせに一枚のちらしが交じっていた。まだ夏とは言い切れないこの時期に審神者が拠点とする地域では花火大会をする。残念ながら――というか、なんというか、その花火大会は決して有名ではない。有名ではないが、そこそこの数が打ちあがるため地域にとっては一大イベントなのであった。
「防寒具は必須……まだ寒いものね」
本丸からその花火を見ることはできない。地図を見ると近くの川で打ちあがっているらしいから、きっと政府が空間を区分しているのね、と審神者は納得するようにしていた。審神者は歩きながらそのちらしを眺めた。A席、座敷席、観覧席……地元の小さな花火大会と侮っていた。思ったよりもいろんなチケットがある。審神者はチケットを買って花火を見るという文化は知っているけれど、したことはない。そもそも、花火大会に行ったのも、ずいぶん昔の話――
「花火大会ですか」
らしくない昔話に思考をとられていたからか、声が降ってくるまで蜻蛉切に気づかなかった。彼は審神者の背後からちらしを覗き込みながら静かにそう言った。
「毎年やってるんだよ」
「それは知りませんでした」
「伝えてないからね」
みんなで見に行きたいけどそんなことしたら地域の人を驚かせちゃうし、と笑えば、彼はそれは確かにといいながら私の手からちらしを抜き取った。
「これは誰かに見せたのですか?」
「さっき私が取ってきたばっかりだから見てないと思うけど」
その回答に蜻蛉切はゆるりと口角を上げて頷いた。少しだけ沈黙が流れた。百合の花は風に吹かれて小さく揺れていた。
「主」
改まった声だった。蜻蛉切は私と目線を合わせるように少し屈んでちらしを私の方に向けた。
「この日の夕方、主の時間を自分にいただけませんか」
蜻蛉切が指をさす日付は二週間先であった。土曜日だし特段用事はないな――と思ったところで心臓が跳ねた。
もしかして私、蜻蛉切に花火大会へ誘われている? もしかしてなんて言ってる場合ではない。これがお誘いじゃなくてなんなのか。付き合って半年、そんなこと一回もなかったのに。
「主?」
まだ日は高い。彼の口調も態度も主従の範疇にある。ただ、内容だけが合わない。
「う、ん。わかった。空けとくね」
その答えに彼は満足そうに目を細める。
「ありがとうございます」
では、と丁寧に頭を下げて去っていくのを審神者はぼんやりと見送った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
付き合って半年と言ったが、それは蜻蛉切から「お慕いしています」と告げられてから半年という意味である。文字通り受け取ってほしい。そう、ふたりはお慕いしていますと言ったものと言われたもの、という関係なのだった。審神者は蜻蛉切の告白になんと返したのか覚えていない。蜻蛉切のことはつい目で追ってしまうくらいには好ましく思っていたが、まさか彼が自分に対して恋慕しているとは露程も思っていなかった。
記憶の中の蜻蛉切は笑っている。肯定的な返事をしたのだろう。それは確実なのだが、果たして何と言ったのか。その記憶にだけ霞がかかったように思い出せない。だから、告白された日から今日まで蜻蛉切からなんのアクションがないことに怒ることも悲しむこともできないのだった。
しかし、今日ようやくはっきりした。まだ蜻蛉切は私のことが好きらしい。じゃなかったらあんな公私混同を彼はしない。最近はあの告白の方が記憶違いなんじゃないかと冷や冷やしていた審神者は、その晩蜻蛉切の言葉を何度も思い出しては胸を押さえた。
雨天決行、大雨延期の文字に怯えながら審神者は仕事をした。晴れ女であると自負していたが、こういう時はわからない。花火は晴れてくれなきゃ困る、と柄にもなくてるてる坊主を作った。そして紫陽花柄の浴衣を持っていたはずだということを真夜中に思い出した日は、眼が冴えて仕方なかったので二時間かけて探した。お目当ての浴衣は奥底に仕舞いこんでいたらしく、皴は綺麗に伸びていた。
どうやら自分は相当楽しみにしているらしいことを自覚したのは約束の三日前。部屋には糊を貼った浴衣が吊るされ、悩んだ末に選んだ帯が置かれている。防寒対策としてレースをあしらったひざ掛けも準備した。新しい口紅もその日のために選んだ。帯と同じオレンジがかった紅色。艶やかな仕上がりなら闇夜にちょうどいいだろうといつもより少し派手なものにした。唇に視線がいけば、あの朴訥な蜻蛉切であっても、恋仲なのだから――
「はあーーだめだーー」
枕に顔をうずめてあーと叫ぶ。楽しみが過ぎる。ここ数年で一番かもしれない。審神者は完全に浮かれていた。
「そりゃあ、好きなひととデートするんだもん……」
当たり前でしょと自分を落ち着かせようとしたが、自分は蜻蛉切のことを好きなのだと声に出して確かめる形になって逆効果だった。とくとくと早鐘を打つ心臓と上がる体温を抱えて審神者は身を縮めるようにして寝た。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
約束の日。審神者はいつもと同じように起きて、遠征と出陣を指示した。本丸はいつもとなんら変わらず機能し、夏の連隊戦に向けたレベル上げに勤しんだ。審神者は刀剣たちの前では顔色一つ変えなかったが、逆に刀剣たちは審神者に慈しむような顔を向けるのであった。
「主さん、あれで隠せてると思ってるんだもん」
「それが可愛いんじゃないか」
「あんまりからかっちゃいけないよ。ふたりの話なんだし」
「蜻蛉切が一抜けしたって聞いた時は驚いたぜ」
「まあ、先を越されたものは大人しく見守りましょう」
どうやら今日審神者と蜻蛉切はデートに行くらしいという話は本丸中の知るところになっていた。そして、審神者が随分楽しみにしていることも筒抜けであった。知らぬは本人ばかりなり、とは本当のことなのである。
やたらとゆっくり流れる時間をやり過ごし、本丸は業務終了時間を迎えた。審神者は近侍の堀川国広にお疲れ様と言うと足早に部屋を出た。夜の降水確率は10%。ほぼ晴れと同義。悪くない。審神者はそんなことを思いながら自室に急ぐ。楽しみな気持ちを上回るほどの緊張がせり上がってくるのを感じたが知らないふりをした。絶対に今日という機会を逃したくない。せっかく『誘われた』デートなのだから。
遠い昔、憧れの人と数発の花火を見た。花火が好きだと言った彼を勇気を振り絞って誘って。わずかな時間だったけれど、鮮やかな光が彼の美しい横顔を照らしていたのを覚えている。もしかしたら、蜻蛉切とその人は背格好が似ているのかもしれない――
そこまで飛んだ思考を審神者は頭を振って現実に戻した。思い出はいつも美化されている。たしかに、忘れがたい記憶だけれど、それに囚われるのも今日までだ。
青い紫陽花の浴衣に赤い帯。髪は緩いお団子にして、化粧はほどほどに。なかなかじゃない? と鏡の前でくるくると回りながら三度確認した。さて、準備は整った。蜻蛉切はどこにいるのだろうか。彼の自室かそれとも玄関か。はたまた門の前――。とりあえず外に出るか、と審神者は巾着を握って襖に手をかけた。いつも通り若干立て付けの悪い襖を滑らせる。その時ふと、これが私の思い違いで蜻蛉切は花火大会に行くつもりじゃなかったらどうしようという不安が浮かんだが、一瞬にして消えた。
「……蜻蛉切?」
襖に沿うように彼は座っていた。部屋から漏れた光が彼の綺麗な鼻筋と膝の上にぴたりと揃えられた指先を浮かび上がらせる。
「お迎えに参りました」
そう言ってこちらに視線を寄越す。いつもは見上げるか同じ高さでしか見たことがなかった彼の顔を審神者は見下ろしていた。彼はゆっくりと立ち上がり、審神者に右手を差し出した。動転した審神者が右手を差し出すと、ゆるりと笑って腕を握らせた。どこか緩い表情とぬくい仕草。そんな蜻蛉切を審神者は知らなかった。
「では、参りましょうか」
いつもの廊下が妙に長かった。玄関を出て本丸の門をくぐるときも心臓がうるさくてまともに呼吸ができなかった。呼吸さえ乱れてしまうのは、彼の軽装から焚き染められたのであろう香が漂ってくるからであった。紫紺一色で仕立てられた飾り気のない浴衣から花とも蜜ともとれるような甘さを含んだ香りがする。審神者は頬が熱くなるのを感じながらただ足を動かした。
からんからんと鳴る下駄がふたりの沈黙を埋めていた。本丸の外に出ればちらほら花火を観に行くらしい人たちが歩いていた。
「随分日が長くなりましたね」
審神者はそう言われて顔をあげた。七時を回っているというのに見上げた空にはまだオレンジの気配が残っていた。
「本当だね」
時間が経つのは本当に早いなあと笑う。すると蜻蛉切は審神者の方へ首をひねり、
「ようやく笑ってくださった」
と言った。そして素敵な浴衣ですねと目を細めた。
はて、蜻蛉切はこんなにも人たらしだっただろうか。
審神者が答えの出ない考え事をしているうちに会場に着いたらしい。蜻蛉切は受付にチケットを渡して審神者に行きましょうと声をかけた。芝生の上に歪な四角がいくつも描かれている。蜻蛉切は半券を凝視しながら一つの四角を見つけてこちらですと審神者に笑いかけた。そしてどこからか取り出した風呂敷包みを開けて敷物を敷き、審神者に下駄を脱ぐよう勧めた。
「ここからが一番よく見えるのだそうです」
審神者が座ったその隣に正座をした彼は少し硬い声でそう言った。先ほどまでの自然なエスコートとは打って変わってとたんに彼の一挙一動は硬くなっていく。
なあんだ、と審神者は思った。慣れないことをしてくれたのだ。私のために。
「場所押さえてくれてありがとう。ね、足崩しなよ」
「いえ、そんな」
「崩して」
お願い。ね? と蜻蛉切に詰めよれば、おずおずと足を組み替えた。少し近くなった目線でからかうように目を合わせる。
「……主」
「今は主じゃないでしょ」
それとも、主としてここに連れてきたの?
なんて意地の悪い質問だろう。審神者はそう思いながらも目の前の恋槍に確かめたかった。もし、その一言が聞けたなら、審神者はもう何もいらないと思った。
蜻蛉切の目が見開いた。唇が震える。喉ぼとけが滑らかに上下して、空気を震わそうとする。そのすべてがゆっくりと見えた。蜻蛉切の頬は熱そうだった。唇がすぼまった。審神者はその一言目を待った。
その時だった。審神者は大きな音と眩い光に思わず空を見上げた。打ちあがる前のひゅるるという音は聞こえなかったらしい。突如咲いた華は火薬の爆ぜる音とともに鮮やかに夜空を彩った。
「きれい」
思わず零れた言葉で審神者は我に返った。はっとして蜻蛉切の方へ向き直る。あ、と声を出す前に闇から伸びてきた手に彼女の顎は捉えられた。
会場では二発目の花火が上がったようだった。が、その色を審神者は知らない。呼吸さえ止めたまま審神者は重なった柔らかさを享受した。まるで脈があるような熱い唇だった。審神者はゆっくりと瞼を開けて手を伸ばす。彼が自分にそうしたように彼女もまた彼の頬に手を添えた。
「自分はあなたことを何も知りません」
知っているのは、あなたが自分のことを好ましく思ってくださっているということだけです。
唇が離れただけの距離で蜻蛉切はそう言った。絡んだままの視線はそれ以上の情報を与えてはくれなかった。審神者は蜻蛉切の目がさっき見た太陽の残光を蜂蜜に溶かしたような色をしていることに妙な満足感を得た。
「私もよ」
あなたが私を好きなこと以外、何も知らない。
審神者はそう言ってもう一度口づけた。そっと触れるだけの優しいキスだった。
「――なにがほしい?」
ふたりの視線が再び交わった時、審神者はそう尋ねた。辺りの喧騒は全く気にならなかった。空は暗くなったり明るくなったりを繰り返している。蜻蛉切は崩していた足を静かに畳み、正座した。そしてはっきりと告げる。
「呼ぶことを許される名と、あなたの心」
そして、あなたの時間を。あなたを知るために、自分を知っていただくために……どうか。
最後は懇願に近かった。声は震えるくせに目は一瞬だってそらさなかった。
「いいよ」
あげる。審神者としての自分以外は全部。
「だから、返さないでね」
許さないから! と笑った。完璧な笑顔のはずだった。少しだけ視界が歪んだのには気づかないふりをした。
「ありがとうございます」
蜻蛉切はぐっと唇をかみしめて審神者の手を握った。その手のひらの温かさに審神者はようやく涙をこぼした。
花火は絶えず上がっていた。ふたりは光と光の間でもう一度だけキスをした。
「どうして花火大会に行こうと思ったの?」
人混みの中、本丸への帰路をのたりのたりと歩きながら審神者は蜻蛉切に尋ねた。下駄は変わらずからんころんと鳴った。
「お好きなのかと思いまして」
熱心にちらしをご覧になっておりましたからな、と言ったあとで、蜻蛉切は審神者の顔を覗き込んでこう続けた。
「自分が後ろにいるのにも気づかないほどに」
「あ〜うん、そうだったね」
「塗り替えてやろうと思いまして」
「え?」
「いえ、なんでも」
なんかさらっと凄い事言わなかった? 蜻蛉切、もしかして嫉妬深かったりする? そうなの? と審神者の頭の中にはたくさんの疑問符が浮かんだが、蜻蛉切の顔は涼しいものだった。彼は思い出に気づいていたのかもしれない。たしかに、これまで花火をみて浮かんでくるのはあの人だったけれど。
「私はね、これから花火を見たら今日のことを思い出すよ」
五感の全部が今日を忘れない。だから安心して、と蜻蛉切の腕に頭をもたれる。
「……ずっと探しておりました。次に進む機会を」
盗られまいと心を告げた。そこまでは何をすべきかわかっていた。しかし、心をつなげた後のことはわからなかった。――半年もかかってしまった。それでも待ってくれた審神者に蜻蛉切はこれ以上ない愛しさを溢れさせる。
この気持ちは伝わっているだろうか。そう思いながら零れた分を注ぐように蜻蛉切は審神者の髪を撫でた。
人混みはまだ続いている。だらだらと進まない帰り道がこんなにも幸せなものだということをふたりは初めて知った。
fin.