暗夜身体の奥底から燃え滾る紫焔を呼び起こす。加減はしなくていい。焔を呼ぶ時、それすなわち相手の聲を奪い去るべき時だから。爆発的な熱は己の肌をも焼きかねない勢いで体外へと流れ出ていく。灼熱に覆われる身体は歓喜に満ちていた。あまりにも圧倒的、それでいて美しい焔。それが俺の意志で動き、舞い、全てを燃やし尽くすと思うとたまらなく興奮する。蹂躙に悦楽を覚えているわけではない。己の意志で身体が動く、己の意志で行動を決める。意のままに力を振るうことができる、その自由が叫び出したくなるほど嬉しかった。
「燃え尽きろ……!」
高揚をそのままに拳を突き出せば、柔らかな人の身体は簡単に押し負ける。ずぶりと食い込んだ腕に伝わる生暖かな内臓の温度。雨のように跳ね返る血飛沫。命を屠る感覚。
「ボッ、クス」
「は?」
呼ばれた名前に瞬きを一つ。それはあまりにもよく知った聞き馴染みのあるもので――決して、焔を向けるべきではない者の聲だった。鮮血に濡れる身体が頽れていく。こちらを見つめる紅眼は血飛沫とよく似た色をしていた。一瞬のうちに生気を無くしていく瞳は、死に瀕してなお慈愛に満ちている。
「ロック」
血の気が引く。体温が下がる。こいつは。この男だけは。決して、なにがあっても、傷などつけてはならないものなのに。
「お前は変われないよ、闇で生まれて、闇に生きてきたんだから」
◇◇◇
「っ、あ……!」
声にならない叫び声をあげて跳ね起きる。ぼんやりとした月明かりはカーテンに遮られ、部屋は真っ暗闇に近い。まだ、真夜中だ。どうやら悪夢を見たらしい。
「は……、っ……、はっ……。はー……、はー……」
荒れる呼吸を制する間に、幾重もの汗が肌を伝って落ちていった。どくどくと早鐘を打つ心臓がひどく煩い。瞼を閉じれば美しい死に顔が蘇ってしまいそうで、必死に目を見開いた。
(腕、は……汚れてない……)
深呼吸を繰り返しながら両腕を見つめる。褐色の肌に血の汚れはない。が、真っ白い包帯が解けて絡みついていた。糸がほつれた跡がある。夢を見ながら引っ掻きでもしたのだろう。隙間から覗くのは痛々しく、まだ新しい火傷の跡だ。
「はは……。久し振りにみた、こういう夢。……よりによって……、なんてもん見せんだよ……」
拳を握りしめると、腫れた肌がひどく痛む。しかし今はその痛みが、頭に残る混乱を鎮めてくれるような気がした。
誰かを殺す夢を見るのは初めてではない。殺される夢も然り。どちらかと言えば後者が多いだろうか。どちらにしろ幼い頃から慣れている夢だ。アサシンとして初めて殺した富豪は、やりすぎて首が落ちてしまった。殺す瞬間の夢と、報復に首が追いかけてくる夢を何度繰り返して見ただろう。ろくに飯も食えなかったのをよく覚えている。海に突き落としたマフィアが俺を道連れにする夢もよく見た、土に埋めたやつらが這いあがって俺を八つ裂きにする夢も。現実で犯した罪の分だけ、夢は俺を責め立てる。夢の理由は罪悪感だろう。全てを諦め、すっかり裏社会に染まっているようなふりをしておきながら、おかしなことに贖罪の心を打ち捨てることができないでいる。
(……わかってるよ、今俺はこれ以上なく怯えてる。あの夢は一歩違えば現実だった)
落ち着きを取り戻してなお、呼吸は僅かに震えている。脳裏に過るのは、つい前日の出来事だった。
スラムで大規模な乱闘騒ぎが起きていると報告が入り、車を出そうとしたところにひょいとロックが顔を出した。手伝う、と同行を願い出た男は言いながら嫌そうに口をゆがめている。俺の安全運転はなかなかどうして彼に合わず、決まって酔うとは本人の談だった。努力するよと笑って助手席に助っ人を乗せ、薄汚い路地をできる限り慎重に進む。それでも何度か怒号が飛んだが、目的地に着くまでにロックがえずくことはなかったのでまぁ合格点だったはずだ。
報告通り、スラムの大通りでは数個のグループが何でもありの殴り合いを繰り広げていた。物陰からしばらく事態を観察し、これは面倒だと零したため息がロックのそれと折り重なる。拳、蹴りまでならまだいい。打撲のための武器も目を瞑ろう。しかし銃火器の類はどうにも対応が面倒でいけない。だというのに、目の前の乱闘騒ぎの中からは明確に火薬が爆ぜる音が聞こえてくる。スラムには多くの住民がいるのだ、流れ弾で怪我でもされればひとたまりもない。貧民街の人間は咄嗟に手当に回せる蓄えなど持ちはしないのだ。早く事態を収めさせなければ、無関係の人間が地獄を見ることになりかねない。例えば逸れた銃弾が誰か大人を掠り、それに子どもがいたとする。怪我が悪化して倒れれば子に残された道はあまりにも茨だ。ちらりとロックに視線を投げれば、日ごろ柔らかな瞳が怒りに燃えているのが見える。恐らく、同じようなことを考えているのだと確信があった。彼もまた、スラムの貧困による絶望を味わったことのある幼子のひとりであるが故。
幸い、大通りに割り込むにはいくつかの抜け道が存在する。俺とロックはひとまず二手に分かれ、奇襲による短期決戦を目論むことにした。目立って武器を持っている人間は限られている。まずは厄介な飛び道具を制して、あとは順繰りに意識を落としていけばいい。
奇襲は成功した。銃火器の奪還も概ね想定通りに。予想外だったのは、銃を「切り札」として隠し持つ多少頭が働く輩がいたこと。それから「忘れていた」のもある。俺が助っ人に据えた男が、誰かのためを想えば簡単に命を投げ出せる愚か者であるということを。
あとは全員殴って意識を奪えばいい、という最後の仕上げの段階で、俺が大振りの技を撃つのと同時。切り札を引き抜いた一人の男が、震える照準をこちらに向けた。狙いは心臓だろうが、顔が引き攣っている。撃ち慣れていないのだろう。恐らく狙いは逸れる、当たっても腹、ならばそのまま撃たせればいい――。一瞬の思考を経て、動きを止めずに拳を構える。しかし銃口に気づいたロックは、俺を放っておいてはくれなかった。紫焔を吹き上げる拳も、黒光りする銃口も、足を竦ませるには十分だったはずだ。けれどあいつは、一瞬も怯えることなく地面を蹴った。
庇われるように抱き込まれ、勢いよく地面に身体を叩きつけられる。銃弾は思った通りに逸れていったが、吹き上げる紫焔を収めるのが間に合わなかった。ようは、夢の通りだ。内臓を貫くまではいかなかったが、柔い肌に焔が走って焼け焦げていく。丁度脇腹のあたりを焼かれたロックは苦しそうに呻き、しかしきっと俺を睨むと「残りをやれ」と強い命令を飛ばして来た。駒としての本能が残っていて助かった、と思うのはきっとこれが最初で最後だろう。咄嗟の命令に反射的に従った俺は、混乱したまま全てをなぎ倒し――夢と同じように血の気を失いながら、ロックを見た。そんな顔をするなよと笑った彼に、何と返すのが正解だったのか今もわからない。「ごめん」と謝罪を繰り返して屋敷に帰り、それからずっと頭に影がかかったままでいる。事情を聴いたカインは「見誤ったな」と笑っていたが、果たしてそれで済む話とは到底思えない。俺が彼に負わせた怪我は重くはないが、軽くもなかった。医者を呼ぼうという提案をロックは「大丈夫だよ」と笑って退けたが、焼け爛れた火傷は決して適当な処置で治るものではないだろう。そもそも俺が避ける選択をしていればロックは傷つかずに済んだのではないか。もし銃弾が当たっていれば、ともすればグラントと同じような末路もあったかもしれない。思考はとりとめもなく、ただ、ただ、得も言われぬ恐怖心ばかりがそこにある。
(……会いに、行こうかな)
流れる冷や汗を手の甲で拭って、そっとベッドを抜け出す。悪夢を退けるには、彼の体温が必要であるような気がした。文字通り音を立てぬまま扉を潜って、ロックが眠っているはずの隣室に忍び寄る。月が支配する真夜中、それも怪我人となれば今頃ぐっすりと眠っているはずだろう。
「……、あれ……?」
自室を抜けたのと同じ手はずで、音もなくドアノブを回そうとする。しかし握ったそれは空回りし、すでに扉が薄く開いていることを意味していた。隙間から中を覗き込めば、遠目に見えるベッドは布団をまくり上げて空になっている。
「ロック?」
慌てて気配を探る。今の彼は仄かに血の匂いを侍らせている、少し集中すればそれを辿るのは容易だった。
(外……、いや、上……? トイレじゃないね、こっちは、カインとメアリー様の……)
うっすらとした鉄の香りを辿り、足を進める。気配は階段の方へ伸びていた。俺達の私室の一つ上は、この屋敷の最上階にあたる。最上階には姉弟の私室がそれぞれにあるだけだ。首を傾げながら階段を上り、ひとまずはカインの私室を目指してみることにする。
「……ああ、……二段目? 二段目は……。……ああ、左からか。……あった、グラントの……これでいいんだな?」
(カイン?)
部屋の前で耳を傍立てると、カインの話声が聞こえてくる。誰かと電話をしているようだ。仕事熱心なボスがこの時間まで起きている、と言うこと自体は珍しくもないことだが、誰かと話しているというのは物珍しい。
「心得ている。応急処置はこちらで行うから、朝一番に尋ねてくれ。夜分にすまなかったな、ではまた。……ああ、よろしく頼む」
カインの意識が電話に向いているうちに、ドアノブを捻る。俄かに隙間を開け、先ほどと同じようにそっと中を覗き込むと、電話を手にしたカインの紅眼はしっかりとこちらを捕らえている。
「……。なんで完全に消した気配がわかるかな」
「私は視線に敏感なものでね。ロック君を探しているなら正解だ、入っていい」
何もかもを見通しているカインの微笑みにため息を吐きながら、降参の意を示す様に両手を上げて部屋に入る。見回す限り、ロックの姿は見当たらない。ここに居ないということは、扉を隔てた一つ奥にある寝室のほうにいるのだろう。
「それ……」
何があったのかとカインに尋ねようとして、彼が注射器を握りこんでいるのに気が付いた。それは少し前まで、俺にとっての師、そしてカインにとっての親友であるグラントに痛み止めと称して処方されていたものである。
「五分ほど前か。傷が痛むと這いずってきてね。お前に悟られれば心配をかけるから、少しでも離れたこちらで匿えと。少し看たが随分熱が高い、何かできる手当がないかと医者に連絡を入れていたところだ。ひとまず痛みを止めてやれとのことだよ、眠れさえすれば体力でどうとでもなる」
「あいつの大丈夫って三文字、もう絶対に信じてやらない」
「そう言ってやるな。あれの無茶は、彼なりの思いやりだ。困った癖ではあるがね」
「……ね、俺が行っていい?」
注射器とカインを交互に見やると、ボスはおかしそうに口角を上げて俺の瞳をじっと見据える。目から感情を読み取るのがこれ以上なく上手い男だ。こちらの本心を、言葉にする前に覗こうとしている。
「ロック君の気遣いを踏みにじると?」
「俺がやった怪我だから。俺が面倒みるのが筋でしょ」
「ふふっ……、そう理屈めいたものではない気もするが」
意味ありげに肩を竦めたカインが、俺の手に注射器と消毒液をまるごと押し付ける。使い方は? という問いかけに深く頷きを返しておいた。これをグラントに打つのは大抵カインの役目だったが、俺も何度か経験がある。
「喧嘩をするなよ」
「したことないって」
軽やかに背を叩いたボスは、俺の後を追ってはこない。降り注ぐ慈愛の視線を少しくすぐったく感じながら、部屋の奥にある寝室へ入る。足音は殺さず、堂々とその名を呼びながら。
「ロック」
「……っ」
灯りの落ちた部屋の真ん中。一人で寝るには随分と広いベッドの中で、塊がびくりと揺れ動く気配がある。カインの纏う華やかな香水の匂いに包まれたシーツの真ん中に、ぐったりとした青年は蹲るようにして倒れていた。じっとこちらを見つめる瞳は熱に浮かされて潤んでおり、それでいて不機嫌に俺のことを睨みつける。
「なん、で……、いる……」
「神出鬼没が自慢なもんでね。痛むのになんで遠出するの? 何かあったら言って、って念押しして別れたよね、昨日」
「それは……、だって……」
「……俺の前くらい強がるなって、何度言ったらわかってもらえんのかな。ほら、腕貸して。薬、打つから」
「くすり……? ……ちゃんとしたやつ……?」
「んー……。ちょっと怪しいかも」
「いらねぇ、帰れ。……っう、っ」
うっかり軽口を叩くと、あちらもいつも通りに悪態をついた。どかりと横に座った俺から逃れようと、身体を捻った拍子に傷が痛んだのだろう。小さな悲鳴が響き渡って、蹲った背が動かなくなる。
「ごめん、調子乗った。……カインが医者に連絡して準備したものだから、大丈夫。辛いんでしょ、ほら……いい子だから」
「……」
おずおずと伸びてきた腕を取ると、いつもよりずっと高い体温が伝わってくる。消毒液を適当に振りかけて、余計な痛みを与えない様に迷わず針を差し込んだ。決して褒められた治療ではないが、放って耐えるよりはずっといいだろう。
「はい、おしまい」
「……、何度でも、言うけど……」
「ん?」
「俺が勝手に飛び出して、俺が勝手に守ったんだから……。お前はなんにも気にしなくていいんだぜ」
「……そんなにしみったれた顔に見える?」
「いつも通りに見えるけど、お前は演技がうまいから。気にしてない奴が……わざわざカインの部屋まで来るかよ」
浅く早い呼吸を制しながら、ロックは薄く笑って俺の腕を小突いた。戯れる様なふれあいに思わず口元が綻んで、同時に悪夢の最後に聞いた嘲笑が脳裏によみがえる。
『お前は変われないよ、闇で生まれて、闇に生きてきたんだから』
「……? ボックス……?」
ふと動きを止めて黙り込んだ俺に、ロックが心配そうに眉根を下げる。そんな余裕がある身体ではないだろうに、その献身は恐ろしいほど眩しく見えた。決して俺などが触れてはならない――美しく優しい、光のように。
「……夢を見てさ、起きたんだよね」
「……?」
「攻撃が掠るんじゃなくて、真正面からロックに当たる夢。あんたの内臓をひっつかんで、燃やして、もう絶対助からないってところで名前を呼ばれてはっとする。そこまで、貫いたのがあんただっていうのにも気づかないまま。むしろ力の解放を心地いいとさえ思っていたのに、誰を殺したのか分かった瞬間肝が冷える」
引いたはずの冷や汗が、再び額をじっとりと濡らした。言葉にして思い出すだけでも恐ろしいと思う。
「人を殺す夢っていうのは、よく見る。殺される夢もそうだけど。だから飛び起きることはあっても、そのあと引きずることはない。もう、とっくに慣れたと思ってた。けど、あんたの身体をぶち抜く夢は……怖かった。どうしようもないくらい、目の前が真っ暗になって」
手を握る。年上というのに一回り小さい掌は、格闘家らしく豆だらけで握り心地が悪い。それはこちらも同じこと。ごつごつとした肌と肌が触れ合うと、ロックの指先が労わるように手の甲を撫ぜていった。
「あんたは……苛立つくらいお人よしで、迷いばかりで、夢見がちで、でも、優しくてあったかい。カインやビリーの考えを放って、俺だけの意見を述べるなら、間違っても裏社会に居ちゃいけない人間だと思う。あんたみたいな眩しい人には、きっともっと……日向が似合う」
「日向……ね」
「うん。だから……俺なんかがあまり関わっちゃいけないって、頭の隅ではわかってるんだ。でも手放しでサヨウナラって言うのは難しい。適当に作ったってわりには好物ばっかりにしてくれる飯とか、口うるさいけど心配がいっぱいの説教もそうだし、適当に鳴らしたトランペットにベースを返してくれんのも悪くない。向う見ずに庇ってくれることだって。……あんたが傍に居るとあったかいって心がよくわかる、それが心地いいから」
きっとカインも、同じような葛藤の中に居るのだろうと思う。闇に生きる人間が、宝を守るのは難しい。力の庇護のもとに置いておけば全てが守れるかと言えばそうではないのだ。力があるが故、手元に置いた宝物を人質に取られるなどよくある話である。本当に大切で守りたいものであるのなら、自らを含めた裏社会全てと縁を切らせるのが一番いい。かつて、ギースがそうしたように。
けれど俺は、まだまだ子供だ。手にした宝物を、いつまでだって握りしめていたい。
「だから……傷つけるってわかっていても、傍に居てほしい。けれどやっぱり、壊してしまいそうで怖いんだ」
ロックは深く息を吸うと、同じだけ深く息を吐き出した。薬が効いて来たのだろうか、こちらを見やる視線には俄かな眠気を孕んでいるような気がする。
「ばっからし」
「……。……俺、結構真剣に話したんだけど」
「わかってるよ。その上で、馬鹿らしいって言ってる。……別に俺、そこまでやわじゃねぇし。今回は上手くいかなかったけど、次はもっとうまく守る。だから……その、ああ、なんて言ったらいいかな……くそ、お前相手だと妙に口が悪くなるから……」
もごもごと口ごもったロックは、ぼうっとした瞳を何度か瞬かせて、傷を抑えながら徐に身体を起こしにかかった。まさか起きるとは思わず、動けないまま青年の行く末を見守る。
「ろ、うわっ」
顔を顰めながら身体を起こしたロックは、徐に手を解くとそのまま俺の身体を抱き寄せるようにしてベッドの上に引きずり倒した。熱い掌が、坊主頭をざりざりとおざなりに撫でていく。手つきが乱雑なのは、意識が混濁している証だろう。
「大事に想ってくれてんのはわかったよ。……だからそのまま、素直に愛してくれりゃいいって。……誰かを大事に思うのに、裏も表も、日向も影も、きっと関係ないからさ」
「……あい……?」
「ああ……。たぶん、そうだろ。……ふふ、案外いい子だな、お前……」
「っ、ガキにガキ扱いされても」
「忘れんな、お前のほうが年下だぜ」
親が、子の背をあやす様に。ロックの掌は頭からずり落ち、とんとんと背中を叩いている。母に甘えた記憶などないはずなのに、どこか懐かしさを感じて自然と身体中の力が抜けて行ってしまった。安心する、とはこのことなのだろう。刺々しい警戒心やぐるぐるとした思考、嘲笑の影も、この安寧には届くまい。
「……、このまま、寝ようぜ……。難しいこと考えんのに……夜って、あんまり向いてないから」
「カインが怒るよ」
「三人……寝れるだろ……。こんなに広けりゃ……」
「……、ふ、ふふ……そうかな……、そうかも」
ひそめた笑い声に、返事は戻ってこなかった。代わりに安らかな寝息が聞こえてきて、薬が無事彼の苦痛を取り除いてくれたことを知る。ロックの言う通り、ベッドにはまだまだ余りがあった。ここで意識を手放したとて、きっとカインは怒らないだろう。大の大人がもう一人くらい、寝そべるスペースは優にある。
「……狭い方が、悪い夢は見ないからね……」
かつて、悪夢に晒された時もそうだった。心配する仲間に囲われて、掃きだめの中で寄り添うように固まって眼を瞑ったのを思い出す。守るためには全てを突き放さなければと、烏滸がましい考えだったかもしれない。そもそも俺は、孤独を切り捨ててカインの懐に入ったのだから。守ると思うのならば抱えなければならない。それこそロックを見習って。
「……、あんたはすごいよ。見直してる、ここんとこずっと」
熱っぽい抱擁に身を預けて、目を閉じる。あれだけ間近に合った悪夢の影はもうどこにも見当たらない。ほうっと安堵の息を吐けば柔らかな眠気が襲い掛かってくる。生まれて初めて味わう恐ろしさのない夜は、どこまでも心地のいいものだった。