きみゆるし|仁礼光※男夢主 日々暗し 身を尽くしなば 君許し
「あの香取がちょっと引いてたらしい」という尾ヒレをぴらぴらさせながら、オレと光の絶交のウワサは静かに関係者に流れていった。香取が本当に引いてたかどうかはあまり覚えてない。オレと光がラウンジでどれくらい大きい声で言い合いしていたかもわからない。子どもみたいに「バカ!」とか「絶交だ!」とか叫びながらオレを殴ろうとする光を小佐野や北添先輩が引き離して、オレはいつの間にか三浦と若村に保護されていた。いつまでも作戦室に来ない若村たちを探しにきた香取(と染井さん)は「放っておけばいいのに」とつめたく言い放って作戦室に帰ったが、香取なりに遠慮していたらしい。
オレと光はどんなことでも話せる仲だった。オレがトリオン補給係として遠征に参加することが決まるまでは。オレは多分もっとわがままで、自分勝手だった。ボーダーに入るまでは。
「こんにちは。先輩もこういう漫画読むんですか? ちょっと意外です」
光とケンカして早数日。気分転換に行ってみた本屋で見かけた新刊コーナーのコミックを元の場所に戻したとき、不意に声をかけられた。諏訪隊の笹森にはひとつ下の妹が良くしてもらっているらしい。
「笹森はスポーツ漫画好きそうだもんな」と言うと、笹森は照れくさそうに笑った。
「オレは光がこれ読めって渡してきてさ。けっこうハマったから続きかしてくれって言ったらカゲ先輩のだって言うから、途中から買うかどうしようか迷ってるんだ。笹森はどう思う?」
「買うなら最初からのほうがいいと思いますよ。やっぱり一気に読みたいじゃないですか。それに自分がちゃんと揃えてたら人にかせますし……って影浦先輩もこれ読むんですか?」
――走れ! 仲間のために!
帯に大きく書かれている文字は、たしかにカゲ先輩やオレにはあまり似合わないものだった。人にはそれぞれ向き不向きとか、長所と苦手がある。カゲ先輩は走らない点取り屋で、オレは走れない上になにもできないけど。
「でも今度、歌川が一緒にバスケしないかって誘ってくれたんだ」
笹森は表情を明るくして「じゃあ奥寺たちとサッカーするとき先輩も呼びます!」と誘ってくれた。
「先輩がしばらくいなくなる前に、ぜひ!」
……そうだ。光には、遠征に行く前にかりていた漫画を返さないと。
幼なじみの光がボーダーに入ってから前ほど一緒に遊べなくなったのはつまらなかったけど、オレもボーダーに入ろうとは思わなかった。でも妹はボーダーに興味をもつようになったらしく、嵐山隊とも光とも違って、エンジニアになりたいみたいだった。言われてみれば妹は小さい頃から「どうして?」と質問してばかりいた。研究心がつよかったからエンジニアになれたし、気づいてしまった。隠しごとができない素直さが短所になって、「怪我の治りが異常に早い兄がいる」ことがバレた。
怪我の治りが早いのは、回復力が強化されているからだった。検査の結果トリオン量は平均的だったが、回復力はトリオンにも作用することが証明された。サイドエフェクトだった。
妹は自分のせいでオレを巻き込んでしまったのだと自分を責めた。ボーダーのひとはわざわざうちに来て、オレたちきょうだいがいたらどんなに助かるのかを丁寧に教えてくれた。
「きみがトリオンを補給することで、ボーダー施設が強化されて三門市を守ることができる」
だから戦闘員として遠征に行くほどの実力がなくても、トリオン補給のためだけのために遠征に連れていく価値があるそうだ。
遠征に参加するにあたって、――、印鑑を――、――、それから、遺書を――。……遺書?
作戦室があればひとりになれたのに。その日は数日前のことを思い出しながら、しばらくラウンジでぼーっとしていた。コーラの入った紙カップの下に水たまりができていて、テーブルに広げたルーズリーフの端っこが濡れて暗くなっていた。不意に視界がぐらぐら揺れて、慌ててルーズリーフを裏返しにした。肩が重い。オレにこんなことをするのはひとりしかいない。
「おーっす! なにしてんだ? 宿題か? ぬけがけすんなよな!」
光はオレの肩を掴んだまま後ろからひょいと顔を出した。今は会いたくなかったな、と思った。
「まあ……そんなとこ。学校のじゃないけど」
「コソコソすんな! ヒカリさんにも見せろよ」
「無理むり無理ムリ絶対無理」
ルーズリーフをぐしゃぐしゃに丸めて、なにも読めないようにした。「光へ」しか書いてなかったけど、だからこそ見られたくなかった。光になにを伝えようとしたのか、オレにもわからない。言い訳が思いつかないし、からかわれるのがいやだった。
「マジで光には関係ないことだから気にすんな」
はぁ、とため息をつくと、光はオレの肩から手を離した。
「……おまえ最近アタシになにも言わなくなったよな。アタシにはなんでも話せるって言ったくせに! 好きなお弁当のおかずも小テストの点数も! アタシには話せるって言ったくせに! なんでアタシに関係ないとか言うんだよ! バカ! うそつき!」
噛みつきそうな勢いの光に、ついムッとしてしまった。人の気も知らないで勝手なこと言うな!
「っ……遠征のことなんて話せるわけないだろ!」
「でもアタシには言えよ!」
言えるわけないだろ。光に、遺書になにを書けばいいかわからないなんて。言えるわけないだろ、光のことばかり考えてるなんて。多分オレは光のことが好きだなんて。テストの点数も寝癖が治らなくて遅刻しそうになったことも漫画読んで感動して泣いちゃったこともなんでも言えるのに。
ほんとうは、遠征に行くのは少しこわいんだ。でもそんなことを光には言えない。言いたくない。
「元気ないですね」
汗を拭きながら歌川はひかえめにオレの顔を覗き込んだ。コートではザキさんたちが遊んでいる。
「そっ……そうか? 今日は誘ってくれてありがとう。たのしかったよ」
「いえ、こちらこそありがとうございました。急に声をかけたのに」
歌川はまだなにか言いたそうだ。
「……もしかして妹がなにか言ってた?」
はは、と苦笑いを返すしかない。
「いえ……そういうわけじゃないですよ。でも遠征前ですし……」
「あたしが言う。ケンカしたんでしょ? あのお店のオムライスおいしいんだって。誘ってみれば?」
そう言って熊谷はお店の場所を送ってくれた。(お店はザキさんに教えてもらったらしい。)
っていうか。なにも言わなくなったって言ってたけど光だってオレに言わずにカゲ先輩とこでお好み焼き食ってるじゃん。そりゃ、オレは影浦隊じゃないけどさ。
「……ありがとう熊谷。ジュース奢るよ。歌川にも」
こうしていると、オレも光ほどではないけどボーダーの中で少しは話せる相手がいる。光はオレ以外にもいろんなことを話すってずっと思っていたけど(あんまり当たり前だから嫉妬したこともなかった)オレもいつの間にか光以外にもいろんなことを話すようになっていたのだとようやく気がついた。
子どものときは、光とふたりならどこへでもいけるような気がしていた。子どもだったし光とケンカすることもあったけど、なにかあったときに絶対に味方してくれるのも光だった。
漫画を返したいんだけどって光に電話すると、ポストに入れとけとか、学校の机に入れとけとか言われた。口実に使うのをやめてはっきりと「オムライス食べにいこう」と言うと、すんなりOKが出た。
初めて来るお店なのにオムライスに刺さっているちいさな旗がなつかしかった。不機嫌な顔の光はオムライスを食べてからはすこしだけ目を合わせてくれるようになった。お店を出る前に言わないと。
「漫画は返すけど……光、オレとケンカしてさみしかった?」
「……ハァ⁉ なんっでアタシがさみしいんだよっ! ヒカリさんがいなくて泣くのはおまえだろっ!」
「うん、そうだよ。オレは光がいないとだめだ」
光はしばらく口をぱくぱくさせたあと、顔を赤くして黙り込んだ。
そのあとはショッピングモールに行って、ふらりと立ち寄った雑貨屋でお揃いの犬のキーホルダーを買った。たった数百円だしお店には同じものがいくらでもあるけど、赤いスカーフがよく似合っていた。フードコートでポテトを食べながら、光はカゲ先輩のとこのお好み焼きに行こうと誘ってくれた。また今度かと思っていたら今日だったらしく、光はカゲ先輩と自分の親に電話して「いいってさ!」とうれしそうに笑った。かわいい。口に出ていたらしく、光はぷいと目をそらした。
夜になると急に寒くなって、お好み焼き屋の熱気との差で思わず顔がゆがんだ。
「ぎゃっ! さむい!」
そう言って光は手をぎゅっと握って拳をつくった。
「……光、オレに手かして」
「……しょうがねーな。やっぱりおまえは、アタシがいないとだめだもんな」
そうだよ。だから、でも光には、オレがいなくても平気でいてほしい。すこしさみしいけど。
「オレは光が好きだ。ともだちとしても、とくべつな意味でも」
こういうことを手を握りながら言うのは、なんだか、自分じゃないみたいだった。
「だからオレはどうなってもいいから光が……っ、」
光はオレの手を思い切り振り払った。光に拒絶されてびっくりしたし、そんな自分にびっくりした。
「そういうこと、言うなっ……アタシにやさしくするな! もっとわがまま言え!」
「……ごめん。泣かないで、光。泣いてもいいけど、オレがいないときひとりで泣かないで。……でもわがまま言っていいなら、オレ以外の男の前で泣くのはできればやめてほしい」
「……じゃあカゲもユズルもゾエもだめってことかよ……心のせまい男だな……」
オレや光がそう思っても、カゲ先輩も絵馬も北添先輩も、光をひとりにしないだろう。
「遠征に行くまでに、手紙を書くよ。光が何度も読み返したくなるような、オレと光しか知らないことをたくさん書いた手紙……そうだな……昔は一緒にお風呂に入ったよなとか、テストの点とか、」
「じゃあ今日のことも書け」
そう言って、光はオレを思い切り抱きしめた。光は抱きついたつもりかもしれないけど、オレは光が抱きしめてくれたと思ったんだ。
オレの腕のなかにいる光はちいさくて、すこしお好み焼きの匂いと、あまくてやさしい匂いがした。家族や友達も大切だけど、今だけは泣きたかった。子どものときみたいに光だけが味方に思えた。
「光ってさ、いい名前だよな。光にぴったりの名前だよ」
光よ光、どうか――。
(日々暮らし 澪標なば 君ゆるし)