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    きりはら

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    ゆめすごし|村上鋼
    2021年発行『日々くらし』より再録

    ゆめすごし|村上鋼 日々暗し 馬鹿正し 夢凄し


     私がボーダーの入隊試験を受けなければ、余計なことを言わなければ、お兄ちゃんはボーダーに入ることはなかっただろうし、遠征のメンバーに選ばれることもなかったのに。でも頭のなかを覗いたみたいに、お兄ちゃんも村上先輩も「でも、これでよかったって思う日がきっとくるよ」と言った。

     兄の遠征行きが決まったという知らせを開発室で受け取った私は、どうしてもなみだをこぼさずにはいられなかった。もう子どもじゃないのにってどんなに自分に言い聞かせてもキーボードを打つ手が震えて、どくどくと心臓の音が身体に響くと鼻の奥がぴりぴりと痺れた。
     こぼれたなみだを慌てて手の甲で拭いたとき、声をかけてくれたのは村上先輩だった。

    「少しいいか? 相談したいことがあって」
    「え、っ、あ、私に……?」ぱちん、と目が合う。やば、泣いてるのバレそう。
     村上先輩が開発室に用があるとして、私に声をかける理由にはまったく心当たりがなかった。
    「いまですか……?」おそるおそる訊くと、村上先輩は頷いた。
    「うん。影浦隊の作戦室でもいいか? 開発室とカゲに許可はとってあるから」
     黙って頷くと村上先輩は「じゃあ行くか」と言った。開発室のメンバーは誰も何も言わなかった。

     一歩後ろを歩きながらすんすんと鼻をすすっている私に、村上先輩は振り返ることもなく前を歩いていた。影浦隊の隊室に入ってからようやく、村上先輩と目が合った気がした。

    「大丈夫か?」
    「あ、っ、すみません。大丈夫です。トリガーの相談ですか? それともトリオン体でしょうか」
    「ごめん、それは口実なんだ。心配だったからつい……一人のほうがいいだろうしオレは出て行くから、落ち着いたら連絡してくれ」
    「心配って、……なんで? 村上先輩が私を?」
    「それは……オレもサイドエフェクトがあるから。だから、本人のことも周りのことも少し気になって。おまえの兄貴のサイドエフェクトなら誰だって遠征行きを断れなかっただろうし」
    「でもお兄ちゃんのサイドエフェクトは違うんです。私のせいです。私のせいで……、」
    「あー、ストップストップ」と言って村上先輩はティッシュを箱ごと渡してくれたのでありがたく使わせてもらうことにした。(今度ヒカリちゃんに返そう……。)
    「オレが言うのもヘンだけど、座っていいから。ジュース飲むか? 買ってくるよ。何がいい?」
    「……いいです。いまジュース飲んでも何も味しなさそうだから。村上先輩はのどかわいてるなら自販機行ってきてくださいね」
    「オレもいい。あとでラウンジでなにか奢るよ。連れ出してごめん」
    「いえ……ありがとうございます。村上先輩が声をかけてくれなかったらトイレに逃げてそのまましばらく出られなかったと思うので」
     うつむいていると、いつの間にかなみだが止まっていた。
    「……おまえのせいじゃないよ」
     顔をあげると、村上先輩はくるしそうに笑っていた。
    「でも、……」
     やっぱりまたなみだがこぼれてきて、慌ててうつむくと目の前が白くなった。村上先輩がティッシュを差し出してくれていて、顔をあげると村上先輩と目が合った。私たちは気まずそうに笑いあった。
    「オレのじゃないけど、好きなだけ使っていいから」
    「ティッシュは私からヒカリちゃんに返します」
     ああ、そうだ。ヒカリちゃんはどう思っているんだろう。お兄ちゃんのことも、お兄ちゃんが遠征に行くことも。ボーダーのことも遠征のことも、私は深いところまで知らなくて、こんなに身体が沈んでしまうと知っていたなら、入隊しようと思わなかったかもしれないと考えることさえあった。
     遠征のことも近界のことも、兄のサイドエフェクトの分析が終わって遠征への参加を打診されたときに聞いた。ボーダー隊員のうちの一体どれくらいの人が、本当のことを知っているのだろう。
    「ごめん」
    「え、なんで村上先輩が謝るんですか」
    「いや……なんだかオレが泣かせたような気がしてきて……すこしつらくなってきた……」
    「え、村上先輩は関係ないですよ」
    「……まあ、関係ないかもしれないけど。……でも関係ないからオレは本部の隊員じゃないし、なにか家族とか友達とか……周りに言いにくいことがあれば頼ってくれ」
    「……もし、こうなるとわかっていて、時間を戻せたらわたし、きっと、ボーダーには入らないと思う」
     でもボーダーに入らなかったら、村上先輩と出逢うことはなかったかもしれない。どうしてかはわからないけどそういうふうに思って、村上先輩がやさしいから、いいひとに出逢えてうれしかったんだろうなと思った。
    「今はそう思うかもしれないけど、でも、これでよかったって思う日がきっとくるよ」
    「……そうかなぁ。そうだといいけど、ほんとうは、お兄ちゃんもお父さんもお母さんもみんな、わたしのせいだって思ってるかもしれない、……っ、遠征なんてぶじに帰れるか、わからないのに……」
     服の袖でごしごしとなみだを拭くと、村上先輩に手首を掴まれた。
    「目……赤くなるから。そんなにこするな」
    「……すみません。泣いてばっかりで。村上先輩のせいじゃないです、すみません」
    「好きなだけ泣けばいい。オレの前では気にしなくていいから」
    「で、でも! もうボーダー隊員で子どもじゃない、のに、こんな泣きむしではずかしいです……」
     村上先輩は「泣きむしか……」とぽつりとつぶやいたあと、
    「そう言うな。オレも同じだよ」と笑った。
    「ほんとに? 村上先輩が?」
    「さっきの……これでよかったって思う日がきっとくるって、オレには、来馬先輩がそう言ってくれたんだ。もう少し違う言葉だったけど……それに、おまえはまだ子どもだよ。泣けばいい」
    「む……でも村上先輩もまだ高校生じゃないですかっ! 今のは私だけ子どもみたいな言い方!」
    「オレはもう18だからな」
     その日から、私と村上先輩はよく話すようになった。


     村上先輩をすきになった理由とか、はっきりしたきっかけとかはわからない。でもいつか他のだれかをすきになる日がきても、私はきっとずっと村上先輩が励ましてくれたことを忘れないと思う。自分の選択が招いた結果に落ち込む日も、自分の行動の結果に納得できた日も、村上先輩のことを思い出すだろう。確信めいているようで、そうだといいな、という願いでもある。
     そのときはこの日々のことも、思い出すだろうか。鬼怒田さんに初めて褒められた日のことや、寺島さんと漫画の話題で盛り上がったこと、村上先輩と行ったいろんな場所のこと、鈴鳴支部でテスト勉強をしていたら太一がジュースをこぼしてプリントがびしょびしょになったこと(太一のせいではないけれどテストの点数は私も太一もひどかった!)、村上先輩とコンビニでアイスを買った夏休み、今先輩の料理、来馬先輩がくれたおみやげの高級感、カゲ先輩のおうちのお好み焼きのソースの匂い、ヒカリちゃんの明るい笑い声、お兄ちゃんのやさしい笑顔、家族の靴が並んでいる玄関、……。
     ……それからやっぱり、村上先輩の隣の、ああ、これがしあわせなんだってわかる居心地のよさ。春の午後に吹く風のような、夏の朝の空のような、秋の匂いのような、冬の透きとおった気配のような。

     月曜日の気だるさも火曜日の気まぐれも水曜日のわがままも木曜のさみしさも金曜日の夕暮れものんびりした土曜日も、村上先輩とクレープを食べにいく日曜日も。
     私がいてよかったって、村上先輩に思ってほしい。


     本屋の前にクレープ屋さんが来ているのを教えてくれたのは葉子ちゃんだった。

    「最近きたらしいからしばらくいるんじゃない? アタシがきなこもちで、華はガトーショコラ食べた」
     そう言って写真を見せてくれた葉子ちゃんはうれしそうだった。

     クレープ屋さんまでの道のりにも気になるお店があった。「あ、」と私が急に立ち止まったせいで、村上先輩は「なにか忘れ物か?」と心配そうに私の顔をのぞきこんだ。

    「そういえば兄がこの間ここのオムライス食べたって言ってました。村上先輩は食べたことあります?」
    「いや、ないな。でもオレも来馬先輩に聞いたことがある。来馬先輩は太刀川さんに聞いて、太刀川さんは迅さんに聞いたって言ってたな。話を聞いたのはけっこう前だけど」
    「けっこう前なのに行ってないんですか? ま、村上先輩たちはいつもお好み焼き食べてますもんね」
     そう言って私が歩き始めると、村上先輩はまた歩調を合わせてくれる。
    「でもカゲんちのお好み焼きうまいだろ。それにおまえだっていつも……、なんか、いろいろ食べてる」
    「それ太一にも言われましたよぅ。修学旅行のおみやげのクッキーくれるときに」
    「……太一にはなにを言われたんだ?」
    「いつもなにか食べてるからみんなにナイショで……ってひとつおまけしてくれました。あとからくれた分のクッキーは粉々になってましたけど」
    「ああ……ごめん、いつものことだけど太一のやつ……。でも、オレは太一の気持ちわかるよ。おまえがおいしそうに食べるのを見てるとなんだかこっちも気分がよくなるからな。つい食べさせたくなる」
    「カゲ先輩のお店でもそれ言われました。きょうだいそっくりだそうです」
     ひとくち、と言って村上先輩とクレープをひとくちずつ交換した。そのあと「ちょっと行きたいところがあるんだけどいいか?」と村上先輩が言うからわくわくしたのに行き先はレンタルショップだった。
    「荒船が教えてくれた映画は配信がないらしいんだ」
    「えー今どきそんなことあるんですか? 荒船先輩はマニアだなぁ。わたしこういうところ初めて来ま、した……」あ、やっちゃった。村上先輩がこういうとき気づかないはずないのに。
    「どうした?」村上先輩が私の顔をのぞき込む。やさしい眼差しが後ろめたい。
    「えと……じゅうはっさい未満立ち入り禁止」
    「……おまえにはまだ警戒区域だな」
     けらけら笑うと、村上先輩は「笑いすぎだ」と私の頭を軽く撫でた。その手のやさしさで、声のくすぐったさで、私はやっぱりこのひとのことがすきだと思った。
     そういうことだけを思い出して眠りたい。


    「……鋼くん、」
    「ん?」
    「もし私がいなくなっても……私がいたこと、覚えててくれる?」
    「うん、覚えてるよ」
    「そっか……よかった。私がここにいたよってこと、鋼くんに覚えててほしいから。うそでもいいから、覚えてるって言ってほしかったの」
    「うそじゃない。だから夢の中だけでいいから、オレとずっと一緒にいてくれ」
    「夢の中だけでいいの?」
    「夢の中だけでもいいんだ」
    「じゃあ私は夢の外でも鋼くんと一緒にいたいな。それならずっと一緒でしょ?」
    「今度の日曜はどこ行こうか」

     夢からさめると、きっと今日もいつもと変わらない朝がくる。まだ知らない一日が始まる。どこかにあなたがいて、どこかにわたしがいるはずの日々が。


    (日々暮らし 美味しか但し 夢過ごし)
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