【ブラネロ】心が弱ってるボスを甘やかす西シリーズ②愛憎編「シャイロックー!」
「ムル」
営業中にしたばかりの扉の札が勝手に準備中に変えられた気配がして、シャイロックは苦笑とともに顔を上げた。
営業を始めたばかりで閉店はこまるのですが、と言いかけた彼は、ムルが一人ではないことに気が付き言葉を甘やかな吐息に変える。
そのまま、ムルに引きずられるように入店した男に艶然と微笑んで見せた。
「いらっしゃいませ、ブラッドリー」
いつになく軽装だ。よく見ると、ジャケットもコートもない。シャツにネクタイという、彼にしてはどこか頼りない……たとえば、鎧を剥がれた兵のように、どこか危うい隙のある恰好で、不服そうな表情ではあるがさして抵抗もせずにムルの成すがままになっている。
「濁ってたから連れてきた!」
「あ? 濁ってたってどういう意味だてめえ」
聞き捨てならねえぞとブラッドリーがムルを睨む。
ムルがその睨みにひるむはずもなく、彼はぐいぐい、なおも腕を掴んだままシャイロックの待つカウンターを目指しながらそのまんま!と笑った。
「ブラッドはいつも、透き通ってキラキラ光る宝石みたい!でも今日は濁ってる感じがする」
「いや答えになってねえよ」
「いいではありませんか。確かに今宵の貴方は、私でもつけ入ることができそうです。弱って柔らかくなっているところを擽って、甘やかな時間を堪能するのも捨てがたいですが」
カウンターチェアにもつれ込むようにムルと並んで座ったブラッドリーに、シャイロックは柔らかく頬を緩めてグラスを差し出した。
夜の色のカクテルの中に、パチパチと小さな花火が輝いている。
「今宵は心を尽くしてもてなしましょう。どうぞ」
「……てめえらは本当やりづれえな」
ふ、と、ブラッドリーが口元を緩めた。
人恋しさが隠し切れない、どこか甘やかな苦笑だった。
ああこれは本当に弱っているなと、シャイロックは笑みを崩さずに思案する。
うかつにそんな隙を外で見せてしまえば、人間も、魔法使いも、男でも女でも、踏み込まずにはいられないだろう。
普段はグラスを交わして駆け引きめいた戯言を重ねている間も一切踏み込まさぬ男のそれは、あまりにも危険だ。
見つけたのがムルでよかったのかもしれない。
ムルが嬉しそうにカードにチェスに、と次々取り出しながら、さあブラッド、とグラスを軽くブラッドリーのそれと重ねた。
澄んだ高い音をたてて、グラス同士がキスをする。
「何して遊ぶ? 今のブラッドなら簡単に勝てそう!」
「あ? 馬鹿言え、負けねえよ」
ムルのひと言でブラッドリーの声にいつもの調子が戻る。
それでいい。
シャイロックは次に出す酒を思案しながらパイプを取り出し、紫煙をくゆらせた。
強い酒と、戯言と、挑発と、何もかもを一度忘れて没頭できる賭け事と。
興じて、一時逃げてしまえばいい。
逃げることを良しとしない貴方だからこそ、こちらが仕掛けてあげましょう。
「せっかくですから、今日は貸し切りにしましょう」
かたん、とカウンターを出て扉へと向かいながら、シャイロックは笑って囁いた。
「《インヴィーベル》」
「……何した?」
ブラッドリーがわずかに怪しむようにシャイロックを振り返る。
ふふ、とパイプを消して、彼はいえ何も、と緩やかに首を振る。
「邪魔が入らぬように、おまじないですよ」
カタン、と音を立ててわずかに開いた扉にネロは息を詰めた。
「おや。すいません、せっかく来ていただきましたけど今日は営業しないことにしたのですよ」
「シャイロック。その」
「?何か?」
ネロは言葉をためらって、それからか細い声を絞り出した。
「ブラッド、来てねえかな」
「ブラッドリー、ですか?」
怒らせた。
傷つけた。
間違いなくこちらに非があって、話をしたいのに捕まらない。
部屋にも戻っていなかった。
だが、ネロが手を離せない時に限って声が聞こえたりするのだ。
そんな状態が数日、続いている。
項垂れたネロの顎を手入れの行き届いた指先がつい、と掬う。
シャイロックの肩越し、カウンターにムルが一人で座っているのが見えた。
「いいえ、見ていませんね」
「そうか……。ありがとうな」
ここだと思ったのに。
肩を落として踵を返すネロを、シャイロックの声が呼び止める。
「ネロ。今日はもう、おやすみなさい」
「はは……そうしようかな。おやすみ、シャイロック」
「おやすみなさい」
甘やかな紫煙が映す虚像の向こう側から、その様子をブラッドリーが見つめていた。
パタン。
扉が閉まる音と重なり、ブラッドの番!とムルから声がかかる。
「おう」
ブラッドリーは手元のカードに視線を落とした。