――やっちまった。
「……ネロ?」
「先生か……いつもの?」
「それはそうなんだけど。どうしたの、しゃがみこんで」
ちらりとにぎりしめた胡椒のミルに視線が行ったものの、またどこかに指ぶつけたの?と、からかいまじりに笑いながら差し出してくれた手に甘えて立ち上がった。
そういえばファウストには以前食材の箱に小指を強かに打ち付けて、痛みに悶えていたのを見られている。
「いや、ぶつけて、は、ねぇんだけど……ちょっと反省を、というか」
それについてもまた?なんて怪訝そうな顔をされてしまったものだからうぅ、と思わず情けない声が出てしまう。前回見られた時も、別のことで気がそぞろになっていたのを知られているのだから、最近ファウストには情けないところばかり見られてしまっている気がする。……まぁ、今さらな気もするが。
「ふふ。きみは意外と顔とか態度に出るね」
「えぇ……?わかりにくいとは言われたことあるけど?」
それには否定も肯定も返さずに笑みだけ深めたファウストにいたたまれなくなって、手早く残しておいたハムの切れ端なんかを準備した。
「ありがとう。……聞く?」
「ん?んー、触れないでやってくれる、と……助かりマス」
「そう。じゃあこれもらっていくよ」
いってらっしゃい、とファウストを送り出す。そのやわらかな心遣いはありがたいが、しゃがみ込んでいた理由なんて言えるはずもない。
ミルで若干気取られている気がしないでもないが、そこはファウストなら見てみぬふりをしてくれるだろうと信じている。……つまみ食いをしたブラッドリーをくしゃみで飛ばすのは、もはやいつもの光景となりつつあるのだから。
それにしても、と先程の感触を思い起こしてまたもしゃがみ込む。
――あれは、なんなんだ。
キッチンにいたネロにじゃれつくようにブラッドリーが食べ物をねだるのはいつものことだ。火を使っているから危ないというのに、肩に腕を回したり、後ろから肩に顎を乗せてきたり。
危ねえからするな、と何度言ったところでネロのいうことを聞く男ではないことは十二分に知っているから、大型犬にでもじゃれられている、くらいの気持ちで最近はされるがままに放置気味だった。
そうしたら、歯、を立てられた。
さすがになにごとかと驚いて振り返れば、ブラッドリーの方はけろりとしたどころか、どこか悪戯が成功したこどもような、けれど目にだけは、笑い飛ばせないような色を乗せて、笑った。
だから何が起こったからわからないなりに無性に腹が立ったのと、頭の片隅で鳴り響く警告音にミルを掴んで振りかぶった。そうして頭が冷えたら、今度は別のところに熱が集まっている気がして、顔を覆っていたのだ。
軽く歯を立てられた首元が疼いた気がして、そっと指で触れる。
痕すら残らない、甘噛み程度のものなのに、あの犬歯をもっと深く突き立てられたらと、その感触は簡単に想像できてしまう。いつだってつい反応を気にして見つめてしまう、肉を噛み切るときのこどものような無邪気さが、途端にそら恐ろしいものに変わった。
だって、思わないだろう。
昔から、気に入ったやつには頭を撫でたり、肩を組んだりとスキンシップが多いやつだった。魔法舎で再会してからも、こどもたちによくそうやっている姿を見かけている。自身のそういう振る舞いが、相手にどういう影響を与えるかわかっている男だ。
昔はそうされるたびに、心臓が跳ねて仕方なかったものだが、それがむず痒い嬉しさに変わって、それからその体温が馴染むようになった。肩に回される腕をいつしか当たり前のように受け入れるようになった。
けれど知っているのはそこまでだ。
それ以上は知らない。
あれは、渇望する目だ。あれは、何か別のものに注がれるべきもので、ネロはその横顔を見つめるばかりだった。それを、真正面から、ネロ自身にぶつけられるなんて思いもしない。
言ってしまえば、拾われたときから、ネロは、ネロの居場所はブラッドリーだった。すでにブラッドリーのテリトリー内に「在る」ものだったのだ。ネロは。
だからこそ、そんな目の力なんて知るはずもない。
ネロの中でのブラッドリーの印象は、背中だったり横顔だったりが強い。それは、そのままブラッドリーとネロの立ち位置を示している。
盗賊団にいた頃は、当たり前のようにそこにあったのは尊敬や憧れ、だ。それは、離れたいと願うようになった頃だって、そうだった。根底に、それがあるから、離れることを選んだ。
だって、どうしたってネロとブラッドリーの間には上下関係がある。それは相棒と呼ばれるようになったからといって、変わることはない。たとえどんなにその差が縮んだように思っても、それは決してなくなることはなかったし、それをネロもブラッドリーもわかっていた。
けれど、そうだーー確かに、魔法舎で再会してからは少し違った気がする。再会してすぐは同じだった。肩に回る腕も、誘う声音も「ボス」のそれだった。
それなのに今はどうしてか、まるで同じ地に立っているような勘違いをしてしまいそうになる。――昔より、ひどく甘えられている気がするのだ。目線や、声や触れる、指が。思い返せば、キッチンで覗き込まれたときに後ろから抱き込むように腰に腕を回されたこともあった気がする。
ネロにとって、いつだって「格好いい男」で「どうしようもない男」が、どこかしらでかわいいとも思うようになった。こどもらと並んでネロの料理を頬張る姿が微笑ましくて、屈託なく笑う顔にこちらも頬が緩んだ。
だから、かつてのようなじゃれあいを、こどもらと同じようなものだと思ってしまっていた。
けれど思い知らされた。あれは、そういうものではないのだと。
ぶわりと羞恥にも似た何かが迫り上がってくるのがわかる。これは、自覚してはいけないものだ。
ーーだって、そんなの、あり得ない。
「……なんで、いまさら……」
頼むから、今日は帰ってこないでほしい。せめて数日、落ち着く時間が欲しい。落ち着いたら詫びにフライドチキン山盛り揚げてやるから。
「おい、コラ」
がしりと頭のてっぺんを鷲掴みされる感覚。……あぁ、もう。こういうときにだってネロの願いは叶わない。
「……ずいぶん、お早いおかえりで……」
「近いところに飛んだからな。てめえ、ミル頭に振り下ろす気だったろ」
ちっとかすったじゃねぇか、ったくおっかねぇ。
そういう声の調子はいつもと変わらないのに、頭の上の手はどかされない。それが、先程の目が気のせいでないことの表れのように思えてくる。
「で、わかったか?」
「……うるせえよ」
「ハッ、上等だ」
「あんた馬鹿じゃねぇの。……なんで、」
「なんでもクソもねえよ。俺がそう思ったからに決まってんだろうが」
ブラッドリーもしゃがみ込んで頭頂部にあった手が後頭部に回される。それから、そのまま引き寄せられてーー
「っ、ちょ、っと待て!!」
「ぶっ」
ばちん、と顔面を押し退ける。まだそこまで理解が追いついてない。
「てめえなぁ、往生際がワリィぞ。いい加減諦めろ」
「無茶言うな。いきなりの急展開で頭追いついてねぇんだよこっちは」
「へぇ?」
顔面に手のひらを叩きつけたというのに、どこか機嫌の良さそうな声をしてブラッドリーが立ち上がった。
「じゃあ、頭が追いついたらてめえからするってことだな」
「は?」
「俺様から仕掛けて、毎回ぶっ叩かれたんじゃたまったもんじゃねぇしなぁ。楽しみに待っててやるよ」
まぁ、そんなに気は長くねぇがな、とひらりと手を振ってブラッドリーはキッチンから去っていく。
「………はぁ!?」
それから、いつまで立っても踏ん切りのつかなかった、というかあわよくばそのままなかったことにならないかな、なんて淡い期待を抱いていたネロが、痺れを切らしたブラッドリーに部屋に連れ込まれるのはそう遠くない話。