舎利容器の中身◆はじまり
「そろそろ裟羅を眷属に迎えようと思います」
将軍を一心浄土に呼び出し、影はそう告げた。
「九条裟羅を眷属に、ですか」
「ええ。今ならちょうどよいでしょう」
ちょうどよい。その意味を将軍は考えた。
影が、かつて目指した静止した永遠の道を捨て、変化を受け入れ前に進むと決めてから百年が経った。
百年という時間は、稲妻の社会を大きく変えた。
技術の進歩は武家を形骸化した。現在ごく一部の武家以外はぼぼすべて衰退し、必然的に奉行家制度も機能しなくなった。
三奉行の中身はまるで変わった。幕府の下部組織として直接管理され、平民出身の官僚も上層部に増えてきた。稲妻社会において、家という後ろ盾は昔ほどには重要ではなくなった。
九条家もこの例に漏れず、孝行の反逆後徐々に衰退し、近年とうとう没落した。この凋落に裟羅が巻き込まれないよう、影と将軍は少しずつ彼女を九条家から引き離してきた。こうしてしがらみが絶えた今、確かに裟羅を雷神の眷属に迎えるにはよい機会だろう。
九条裟羅が雷神の眷属に加われば、稲妻の永遠は一層盤石となる。あの者の忠義と実力を思えば、迎えるのが遅すぎるくらいだと将軍は思った。
ただ、一つ気になることがある。
「ならば、雷電影と影武者のことも伝えるのですか」
「ええ。勿論話すことになりますね」
彼女も、これからはあなたと同じ、私の協力者ですね。
影はにこやかに言う。
「そうですか」
「裟羅と話すので、彼女を一心浄土に連れてきてください」
「わかりました」
空間の出口へ歩きながら、将軍はこの百年を思った。
影が現世に戻って百年。
人形の『雷電将軍』が影武者になって百年。
――彼女の神のふりをして百年。
九条裟羅が、雷電影の眷属になる。
問題ない。いつかこの日が来ることは、わかっていたのだから。
◆問題ない。大丈夫、わかってる
天守閣の執務室で将軍は裟羅を待っている。
一心浄土から戻ってすぐ、将軍は奥詰衆に九条裟羅を呼び出すよう命じた。
鎖国令解除から百年。流入した他国の文化と技術により、稲妻の街の様子は大きく様変わりした。けれどこの天守閣は変わらずそのままだ。
天狗の裟羅と二人でいると、外がどんなに変わろうと、この部屋の景色は百年前と変わらなかった。
執務室に裟羅がやってきた。
「失礼いたします。お呼びでしょうか」
「来ましたか。九条裟羅、あなたに伝えることがあります」
私と来てください。
本物の神が、あなたを待っています。
その言葉は将軍の喉で止まり、発されなかった。
将軍は戸惑った。まるで禁則事項のように何度試しても言葉が詰まって出てこない。裟羅が怪訝そうこちらを見ている。
「……この間、提出予定の法案があると言っていましたが、あれはどうなりましたか」
最終的に将軍の口から出たのは、苦肉の策で思いついた質問だった。
何故、よりにもよってこの話を。自らの選択を将軍は苦々しく思った。
以前、稲妻で詐欺事件が起きた。
ある者が、とある聖者のものだと触れ込み、偽物を入れた舎利容器を売り捌いたのだ。
詐欺に使われた方法の一部が、既存の法律の穴をつくものだったため、現在天領奉行では法の改正案を作成しているのだ。
信じて偽物に祈り続けた信仰者たちと、正体が判明して尊さを失った容れ物――そのお話は、将軍にある感情を引き起こさせた。心に蓋しても、なお滲み出す混然としたそれは、あえて形容するならば恐怖だった。
恐怖? いったい九条裟羅の何を恐れるというのだ。
裟羅はすらすらと、法案作成の進捗を報告している。
ふいに将軍の口から問がこぼれた。
「……中身をすり替えられたと知ったら、やはり持ち主にとって容器の価値は変わるでしょうか」
口に出してからハッと顔をあげると、裟羅が少し驚きながら自分を見ている。将軍は自身の失態に気づいた。
「……なんでもありません。もう下がってください」
愚問だ。価値は変わるに決まっている。
何か言う前に裟羅を下がらせる。ひとりになった執務室で、将軍はため息をついた。
今の自分がおかしいことはわかっていた。
◆人形の夢
夕刻の天守閣では、裟羅が将軍の夕食に相伴していた。
あれから数日が過ぎたが、将軍は裟羅に言えないままだった。
数日間、何かを言いかけては止めるのを繰り返す将軍の様子を心配して、裟羅はこの夕食の席を用意したのだ。
「この酒は悩みに効くと、昔友人が教えてくれたのです」
裟羅は少しいたずらっぽく笑いながら、将軍に酒を注ぐ。
将軍が酒を嗜むようになったのも、この百年の間の変化だった。
『新しい永遠は変化も受け入れる……一見不要な嗜好品も、むしろ変数として受け入れるべきではないか』
いつだったか、そう狐にそそのかされ、今ではこうして裟羅と酌み交わすのもお馴染みになった。
将軍が酒を注ぎ返してやると、裟羅は嬉しそうに目を細めた。なんだかんだいける口なのだ。
将軍は杯を傾けながら裟羅を眺めた。
長く形の良い指、灯りに照らされ輝く睫毛と瞳、杯に口づける薄い唇、酒を飲むたび微かに鳴ってうごく喉――将軍にとって、いつまでだって眺めていられる光景だった。
百年の時間は九条裟羅をより強くし、同時にほんの少し柔らかくしなやかにした……少なくとも、『憧れの将軍様』を案じて、酒に誘うくらいには。
注がれた酒は辛口で、専ら甘口を好む影の食膳には一度も出されたことがない。この数十年間、裟羅と二人の夕餉の時だけ、何も言わずに出されるものだった。
将軍が影とは違う存在だと、裟羅は薄々気づいてるのだ。
不思議なことではない。影と将軍は性格の違いを隠してこなかった。かつて眞と影の存在が一部の民に気づかれていたように、裟羅だって、詳細は分からずとも気づいておかしくない。それだけの時間、共に過ごしてきたのだ。
将軍は九条裟羅をよく知っている。
反逆者である九条孝行の養子となり、幼い頃から雷電将軍に忠義と祈りを捧げてきた者。その敬愛に満ちた眼差しを、将軍はずっと受けて来た。
将軍と影が別の存在だと気づいても、裟羅の忠誠は変わらなかった。知らないふりをしながら、裟羅はずっと自分の側にいた。
裟羅が眷属になれば、敬虔な信徒の祈りと眼差しが、誰にも利用されず本来の相手に届くことになる。それは善いことのはずだ。
しかし、すべてを影に返す時を、将軍は引き伸ばし続けていた。
――この瞬間を留め、ひたすら引き伸ばす。これではまるで百年前の影ではないか。
この夢がもうすぐ終わるのはわかっている。
けれどもう少しだけ酔っていたくて、将軍は注がれる酒を味わった。
◆舎利容器の中身
裟羅に話を切り出せないまま日々は過ぎていった。
常にない将軍の様子を心配した影は、一心浄土に将軍を呼び出した。
「将軍、大丈夫ですか? 問題があるなら対処しますが……」
「問題はありません。九条裟羅には私から伝えます」
何か言いたげな影を振り切り、将軍は戻っていった。
結局自分は影の協力者に過ぎない。裟羅は影の信徒だ。自分の正体が明らかになっても、雷神への忠義は変わらない。
自分と裟羅の、曖昧な知らないふりの時間が終わるだけ。裟羅の眼差しを本当に失うだけ。
そう、なにも問題はないのだ。
◇ ◇ ◇
この日、天守閣の執務室に九条裟羅が訪ねてきた。その手には例の詐欺事件で押収した舎利容器がある。例の法案について、詐欺の実物を見せながら法が想定するケースについて説明しにきたのだ。
ちょうどよい。この話が終わったら裟羅に伝えよう。
裟羅が資料を用意する間、将軍は机の上の舎利容器を観察した。騙すために作られたとはいえ精巧で美しく、尊いものを仕舞うのに相応しい造りと言えた。この器自体に、美術品としての価値があるだろう。けれど祈るものにとって重要なのは、中に仕舞われた尊いものなのだ。
容器を見つめたままの将軍に、裟羅が話しかけた。
「……以前、仰っていましたね。中身がすり替えられた容器に価値があるのか、と」
将軍自身も信じられないが、僅かに、けれど確かに、将軍は動揺した。
裟羅は続ける。
「もし中身が信じるものと違っていても、信じていた間の祈りに変わりはありません」
しかしそれは影への祈りだ。将軍の心に苦みが広がる。
「そして、これは私の考えですが……祈る間、人は守られてるのだと思います。鳴神様への祈りは、人間の中で育つ私をずっと守ってくれました……もし孤独に負けていたら、私は養父にもっと酷く利用されたでしょう――ですから、容器に祈った者も」
机の上の容器を、裟羅は両手で包むように触れた。
「『今さら、中身がなんだっていい。これも自分を守ってくれた尊いものだ』……そう考えると、私は思います」
それは欺瞞だ。その詐欺にはれっきとした被害者がいる。
けれど、裟羅の言葉、柔らかな声、容器を包む指先、愛おしそうな表情――この瞬間全てが自分のものだと、将軍にはわかっていた。
間違える訳がない。それだけの時間、九条裟羅と共にいたのだ。
気がつくと、将軍は立ち上がり裟羅を抱きしめていた。
「しょ、将軍様!?」
戸惑う裟羅の肩に顔を埋め、将軍は目を閉じた。
「わかりません。何故か、この行動に足るほどの衝動が湧きました」
そのまま抱きしめていると、裟羅の腕が空を彷徨い、おずおずと腰に軽く添えられた。更に強烈な感情が将軍の体内を駆け巡る。これ以上衝動のまま振る舞わぬよう、将軍は腕に力を込め目をきつく閉じた。腕の中の裟羅の体が熱くなっていくのを感じながら、将軍は深く息を吸い込んだ。
裟羅の肩に額を押し付け、とうとう将軍は白状した。
「九条裟羅。貴女に会わせたい者がいます……それに、話さねばならないことが」
「はい。どこであろうと私は着いて参ります」
将軍の背中に、裟羅の腕が回される。
将軍が裟羅の顔を見つめると、微笑む金色の瞳の奥に自分が映っている。
――今この時、この眼差しは私のものなのだ。
空間が裂け、一心浄土への扉が開く。
最も忠実な信徒の手をとり、将軍は進んで行った。