絡みつく一対の蛇(4)絡みつく一対の蛇
ぽた、ぽたと汗が垂れるさまにふと我に帰る。夢中になりすぎていた自分に気が付いた。
金槌を脇に置き、額の汗を拭う。製作途中の仕切り棚を見下ろして、うまく行きそうなその仕上がりにひとり満たされる。
マレウス先輩から受領した屋敷は、ふたりで住むにはやや大きい、新しくはないが丁寧に作られたのがよく分かる建物だった。
「子供3人くらいまでならこの屋敷で事足りると思うが、手狭なようならいつでも言ってくれ」
リリア先輩は俺たちにそう言ってくれたが、ゲストルームも含め6部屋ある屋敷なので、実際にはもっと大人数でも住んでいけそうだ。
頑丈な門扉からは優美な前庭や噴水が続き、玄関にはエントランスホールもある。アジーム邸の壮大さには遠く及ばないが、俺から見れば個人宅の範疇を充分に越えたつくりになっている。
新居にはハウスキーピングのためのゴーストや妖精たち、さまざまな魔法石の使われた設備が整ってはいたが、住む人間は俺たち二人だけ。
実質、俺一人で管理できる範疇としては、ちょうどよい広さの邸宅だった。
この新居に住み着いてもう少しで二週間。
茨の国独特の、電化製品を使わない風習もあって、勝手のよい住まいにするにはもう少し時間と手間がかかりそうだ。
今作っている、この仕切り棚もそう。屋敷に出入りする商人に頼むより、俺がぱぱっと作ってしまった方がはるかに早く便利になる。上手く作れれば、使い勝手の悪い食器棚の収納量が倍になるだろう。
そう想像するだけでにんまりと笑えて来る。
そうやって手を動かすことが存外、俺は嫌いではなかった。
思えば、物心ついてからずっと忙しなく生きてきた。
幼少期からの従者業に加えて、勉学、部活、寮長となってからは寮や学校行事の運営など、常に何かに追われ、何かを頼まれ、やるべき事を抱えていた。
ここでの生活は、そんな暮らしとはまるで正反対だ。
やるべき事も、なすべきこともない。食器棚の使い勝手が悪いのならば、業者に頼んでしまったっていい。手慰みみたいに、純粋に自分だけのためにこなす雑事がここにはたくさんあって、俺は早くもそういう生活を気に入っていた。
本当に、今までの我慢はなんだったんだろう。
穏やかな時間にふと我に返るたび、そんなことを考えている。
考えれば考えるほど、この暮らしが俺たちにとっての正解なのだと思えてきて、そう気付くと次には決まって、自分でこの正解を引き出せなかった己の不甲斐なさに、苦々しい気分になった。
俺は優秀でなんでもそつなくこなせる人間だと、ずっと思っていた。
実際、急にこんな暮らしを強いられても、三食のおいしい食事と清潔な住居、快適な暮らしをカリムの分まで用意できる程度には優秀だ。
勉学や運動では常にだれの引けも取らない結果を出し続けてきたし、ナイトレイブン・カレッジに入学してから本格的に修めた魔法教育においても、軒並みるエリートたちと比肩して活躍を残してきた。
それでもこの二週間で、俺はその自己認識が誤りだったのではないかと疑い始めている。
本当に俺が優秀でなんでも出来る男であるのならば、カリムにあんな決断をさせるのではなく、俺がカリムを助けるべきだったんじゃないのか。
俺を信じろ、そう言って彼女を苦境から引きずり上げる、そういう豪胆さが俺には決定的になかった。
いつも、自分たちの悲劇を嘆くだけで、俺は何もしてこなかった。ここでの生活が正解だというのなら、あの学園で暮らす中で俺がこの手で周到に用意することだってできたはずだ。
遠謀深慮の精神、そんな言葉で言いくるめただけの、手先が器用なだけの、なにも決断できない男が俺なんじゃないだろうか。
この生活のすべてがそうだ。カリムの決断によってもたらされ、マレウス先輩の好意によって、今の俺は生かされている。
俺は、何もしていない。
その矮小さに委縮したくなる。
「ジャミル!」
かごいっぱいに切り花を入れたカリムが駆け寄ってきた。
「釘を扱っているから気をつけろよ」
「わ、」
急にそろりそろりと歩み寄る姿が子供じみていて、気持ちが和らぐ。
「花、摘んだんだ!これ、今夜のお風呂に入れていいか?」
抱えたかごを傾けて、中をカリムが見せてくれる。色とりどりのバラが香しい匂いを放ちながらひしめき合っていた。
「ちゃんと一本一本、虫がいないことを確認しろよ」
「やった!ちゃんと虫を追い払ってから入れるな!」
口角を上げて嬉しそうに笑うカリムを見て、ふと思い出す。
ひとつ、この国で為すべきことを、俺たちは課せられていた。
カリムと子を成すこと。
ずっと、このあどけない笑顔を見せる幼馴染と、不本意に身体を重ねることをしてきた。
カリムの身体を裂く切っ先みたいな自分のことを思い出すと、罪悪感に圧し潰されそうになる。カリムはきっと俺のことを許すだろう。ふつうの夫婦みたいに抱き合うことを、咎める者もこの国にはきっといない。
それでも俺は、この国に来てからずっとカリムに触れられずにいた。
いや、正確にはカリムに頼まれて、手を繋いで毎夜を過ごしている。
俺たちの家には当然のようにベッドが一つしか用意されていなかったから、必然的に共寝をするしかなかった。
はじめは別室で、俺が床に何か敷いて雑魚寝をしようとしたが、思いのほか心細そうなカリムに強く懇願されてしまって頷くしかなかったのだ。
いっしょに寝て、ずっと手をつないでいてほしいと。
毎晩繋がれるカリムの手の感触に、それだけで胸がいっぱいになる。
俺よりひと回り小さい手のひら、華奢なつくりの骨格は彼女が俺とは別の生き物、ひとりの女性なのだということを実感をもって俺に教える。
愛おしくて、幸せだ。カリムに許されて、カリムの隣で眠ることを認められている。それだけで十分なんじゃないかと、俺には過ぎた幸せなんじゃないかと思えてしまう。
生まれたときから近しいところにいたのが、俺だったから。
カリムが俺を愛しているのは明白だけれど、俺は本当はそれに足るような人間だろうか。
俺が何かを成し遂げられる人間であれば。俺が、幸福をもたらす人間であれば。
このぽっかりと空いたのどかな時間の中で、俺はもうずっと、そんなことを考え続けていた。
***
「どんな指輪が欲しいか、考えてくれ」
鉱山にマレウス先輩と行く日程が決まり、俺はカリムにそう告げた。
結婚式で交換したシンプルな金の指輪は、ずっと二人の左薬指に嵌まったままだ。カリムは煌びやかな装飾品が大好きだから、早く好みに合ったものを渡してやりたいとずっと思っていた。
「…ほんとうにジャミルが、指輪を?」
カリムはおっかなびっくりの表情で俺に尋ねてくる。挙式の際にマレウス先輩が説明してくれたことを一緒に聞いていたはずなのに、なにを驚いているのだろう。
「挙式のときにマレウス先輩も言っていただろう?俺の魔力で形成するから、そりゃあアジームにあるような立派なものが出来る保証はしないけど。石はなるべく大きいものを沢山持って帰るようにするから、それで何とかなりそうなデザインを考えておいてくれ」
「ジャミルの作る指輪…、どうしよう、うれしい…」
困惑を見せながらも、顔を上気させて喜びがとまらないさまがありありと伝わってくる。
それと、わずかな怯えも。
少しその気持ちが分かる気がする。成りゆきで夫婦になった俺たちが、お互いのことを考えながら共に指輪を作ることは、なんだか本物の夫婦になっていく儀式のようで思わずたじろいでしまう。
それでも、喜びをかみしめるようなカリムの表情を愛らしいと感じ、もっと喜ばせたいと思うこの感情を、今はもっと育てたい。
結婚という文化のない中で育ってきたカリムにとって、結婚式や誓いの指輪は物語の中の憧れだった。アジームの中にいた頃では日の目を見ることもないような指輪でも、俺の渡すもので喜んでくれることが素直にうれしい。
そうやって、ひとつずつカリムの隣にいる資格を、臆病な俺はきっと積んでいるのだ。
その日の夜も、俺とカリムは手を繋ぎあって寝ていた。
茨の国特有の雷雲が遠くで小さく唸りをあげ、風が梢を揺らす音が寝室の窓から聞こえる。
カリムは俺の左側に横たわって、俺の左手を両の手でひそかに弄んでいた。
薬指の指輪を弄るそのくすぐったさに、俺は浅い眠りからぼんやりと目覚めた。
時折もぞ、と気配をさせながら、カリムは俺の指輪をくるくる回したり、輪に沿って指を這わせたりしている。他意はないその戯れに身体の奥底で欲の熾火が灯りそうになったその時。
カリムはそっと俺の手を持ち、頬を寄せてきた。
その指輪に音もなく口づけをくれたのを、わずかに薬指にふれたやわらかい感触で俺は知る。あどけないその仕草に俺の左手は神経を研ぎ澄まされていった。
そうして、俺の指は気付いてしまったのだ。
カリムの頬が濡れていることに。
泣いてる、そう気付いた途端、俺の脳は一気に覚醒した。
「…泣いているのか?」
寝起きの喉元に貼りついた声音で尋ねると、俺の目覚めを知ったカリムはびく、と身体を固まらせ、俺の手から離れようとした。逃げる頬に今度は俺から手を伸ばし、掌でそっと包み込む。
「どうした?」
「じゃみる…、起こしてごめんな、」
柔らかい頬を指先でやさしく撫でながら、その言葉の先を無言で促す。涙の跡がひやりと冷たい。カリムは観念したかのようにそっと瞳を伏せると、俺の手に自らの掌を重ねて、呟いた。
「私はいつだって、ジャミルを縛っている」
涙まじりのかすれた懺悔だった。
「ちいさい頃からずっとだ。従者だの【胤】だので振り回してきて、今度は指輪でジャミルのことを縛っちまう。…なぁ、ジャミル。私に縛られなくてもいいんだ。今だって、折角やりたいことがあってあの学校に入ったのに、すべて捨てさせて一緒にいてもらってる。私に付き合う義理なんてどこにもないんだよ」
「それで、泣いていたのか」
窓の外では風の唸る音が響く。夜の空気を掃き清めて辺りを一新させていくかのようだ。
「俺は今の暮らしを結構気に入っているよ。熱砂の国にいた頃の悩みが全部解決された気分だ。あの国で暮らすことの方が間違いだったんじゃないかって、最近では考えている。縛られてたっていうのなら…、それはたぶん、俺はあの国に縛られていたんじゃないか」
俺の言葉を聞きながら、カリムは懸命にそれを咀嚼している様子だった。無理もないだろう。
たぶん、カリムはアジームを裏切ると決めたとき、俺に嫌われて今生の別れすら覚悟していた。それが蓋を開けてみれば、のんきに夫婦生活を楽しんでいる。
カリムもカリムなりに、懸命に正解を探っていて、この暮らしの違和感に不安を感じていたのだろう。
昼間、指輪の話をした時の怯えを思い出す。カリムの怯えは、俺よりもずっと深いところにあって、いつでも手放す痛みに備えていた。
俺もカリムに尋ねてみたくなった。いつも俺のことを考え、幸福を願ってくれるカリムに。
「…カリムこそ、ずっと俺に縛られているんじゃないのか。アジームから出てやっと自由になったのに、また俺を選ぶのはなぜなのか、考えたことはあるか?」
カリムの眉間にはっきりと不安が浮かび上がる。不安を除くように頬をやさしく撫でながら、努めて柔らかい口調で続ける。
「世界にはたくさんの男がいる。俺より優秀で、俺に出来ないことをやってのけるような人間がいるかもしれない。俺みたいに、カリムの頑張りやマレウス先輩の厚意に依拠する人間じゃなくて、カリムを救い出す王子様みたいなやつがいるかもしれないんだぞ」
「そんなの、」
すかさず、悲痛な声音でカリムが切り返す。
「私のことを救い出せるのは、ジャミルだけだ」
俺の左手に頬ずりをしながら、融けるような紅い瞳が俺を見据えた。
「知ってるだろう?私のすべてを受け取ってほしいのはジャミルだけなんだ。アジームにはたくさんの人がいたけど、私はジャミルじゃなくちゃ駄目だったよ。私がどんな人間なのか、ジャミルだけには知ってほしい。それだけが、私を救ってくれるんだ」
「…俺が臆病で、なんの決断もできない人間でも?」
自分を卑下する声は思ったよりも情けなくシーツに落ちた。
不意にカリムはもぞ、と身体を動かして、腕を俺の頭に回した。ぐ、と顔が近づいて額がこつんとぶつかる。
「私が振り回すから、ジャミルはジャミルのままでいいんだよ。…ねぇ、ジャミル。私たちがここでこうしていられるのは、ジャミルのおかげだ。ジャミルがずっと努力してきたから。ナイトレイブン・カレッジに魂の資質を認められたから。あの学校で頑張ってきたから。それが、今この場所に繋がっているんだ」
手を繋ぐよりも近い体温を、思わずぎゅ、と抱きしめる。
俺が救われるのもまた、カリムだけなのだろう。細く柔らかいそのぬくもりに、洗われる自分を自覚した。
「ジャミル。私はいつでも、ジャミルの頑張りに相乗りさせてもらってる。ジャミルの努力に乗っからせて貰ってるだけじゃなくて、毎日のお世話までしてもらってる。ふつうの嫁さんを貰うよりもずっと手がかかってるってちゃんと分ってるんだ。それでも…、私もちゃんと自分で出来ることを増やしていくから……どうか、私を選んでくれないか」
いつだって、ごく自然に俺を隣に置いてくれる。その当たり前さをほんとうはずっと、有難く大切に思っていた。
ずっとずっと前から、俺だけを見てくれるカリムが俺の誇りだった。
どうしても手の届かない、俺の一番欲しいものが翻ってきりもみして、数奇な軌跡を辿って、俺の手の中に収まる。
俺は今それを掴む。
二度と手放すことはないだろう。
「カリム。愛しているよ。昔から、ずっと」
唇を飛び出た言葉は、案外なめらかな舌触りだった。
堰を切ったようにあふれる感情を、もっと表に出したい。もっと、伝えたかった。
「俺を縛りたいのなら、好きなだけ縛ればいい。捨ててしまった俺のいろんな可能性も、俺の分まで惜しめばいい。お前も、いろんなものを捨ててきただろう?あの国もあの家も、お前は愛していただろう?俺も、そのことを絶対に忘れない」
それでも、俺を選び取ってくれたことを心に刻んで、生きてゆく。
「ジャミル、じゃみる。私も…、愛してる。うれしい、ずっとこうして、伝えたかった…!」
ぽろぽろと泣きながら笑うその表情の器用さに、目線を合わせながら俺まで笑えてくる。
嬉しくて、幸せだ。やっと漕ぎ出せた俺たちに、ずっと近い互いの体温に、ぐっと気持ちが高揚する。
カリムを抱きしめる腕にぎゅ、と力を込めてそっと尋ねた。
「カリム。キスしていいか、」
「うん……、して。」
カリムは俺の頭に回していた腕を胸元まで滑らせると、少し照れたような顔ではにかんで頬を拭い、そっと両の眼を閉じた。
俺の唇を待つその表情に暫し見惚れる。
口づけられる感触を期待するその眉根も、形のよい山なりの唇も、すべて俺の掌中にあるのだという実感に感動を覚えた。
息をひそめて、その桃色に色づいた唇に、そっと唇をのせる。
誓いのキスとは違う、俺たちが選び取った人生の、これからたくさんする口づけのうちの、いちばん最初のキス。
やわらかい感触に脳髄まで陶然とする。
そのままスタンプするみたいに、ひとつふたつ、角度を変えてふにゅ、と押し当てた。
唇で受ける温かくて柔らかい質感に、みずみずしい感動が湧き上がる。
薄目でカリムの表情を伺うと、ぎゅうと目を瞑っていっぱいいっぱいになりながらも、懸命に俺の気配を追っているのが分った。
健気で、かわいい。
俺もカリムもキスなんてしたことがないけれど、こんな表情は俺だけが知ってればいい。枝分かれする人生の岐路のうち、いちばん稀有な幸福に至る道に俺は今、立っている。
これを俺は手放せない。そのためなら俺は、なんだってやってやる。
カリムの唇に感情が茹っていく。上唇の山なりの、くっきりとした縁を俺の唇でなぞる。その肉と粘膜の造形を触覚で味わう。
美味しい、もっと含みたい、そう思うともう本能は止められなかった。
「ふ…ぁ、」
もっと深く唇を交接させて、唇の裏の粘膜をねろねろと擦り合わせる。つるつると湿ったその感触にカリムの上体がふる、と小さく震えた。
もっと深く入りたい。口腔のなかのすべてを味わいたい。そう思ってしまうともう堪え切れなくて、カリムの唇の間へ舌をぬるりと差し入れる。
あたたかい唇裏の粘膜をれろ、となぞる。舌先で初めて味わう官能に背筋を震わせたその時。
「んッ!ンン…!」
俺の胸元を手で押しのけ、カリムが顔を逸らした。
「…なんだよ」
「ごめん、じゃみる…私、きもち良くなっちゃって…口開けちまってた」
心底すまなそうに上目遣いでカリムが見上げてくる。
「虫歯とか風邪とか、うつるのに…、ごめん。口開けないように気を付けるな?」
「いや…、何を言っている?舌は俺が入れたんだが?こういう…キスのことを、まさか知らないのか?」
幼馴染の知られざる言動に動揺する。
今まであんなことをしてきて、いや、でも、まさか。
「こういうキス?分からないけど、衛生的に良くないんじゃないか?」
「…本とか、映画とかで、こういう深いキスを見たことないか、」
ううん、と少し唸りながら「コソ泥と姫様のお話でもそんなシーンなかったよな…?」などと小さく呟いている。馬鹿か、それは子供が見る映画だ。
カリムの偏った性知識にぞわぞわと嫌悪感がさざめくとともに、なんとなくバラバラのピースが嵌まっていくような合点を得ている自分もいた。
これは恐らく、意図的なアジームの性教育によるものだ。
次期当主に与える情報を選別することで「生娘みたいな経産婦」を意図的に創出する、あの儀式にはたぶんそういう目的があったのだ。
なんて残酷なんだろう。あのまま熱砂の国にいたとして、こんなカリムを待ち受けいた運命のことを思うとぞっとする。カリムとこうなれて良かったのだと、やっと俺はいちばん深く理解した。
「……舌を入れるのは、カリムは嫌なんだな?」
それでも今は、思考を切り替えてでも自分の欲に従いたくて、ついみっともなく食い下がった。
仕方がない、こんな気持ちの俺をどうにか受け入れてほしい。
カリムは目を瞬いて意外そうに問い返した。
「嫌っていうか…、ジャミルはやりたいのか?ジャミルがやりたいならいいんだけど…」
うがいしてきた方がいいかなぁ、などと興ざめるようなことをぼやいている。
間の抜けた雰囲気に俺はひとつ、ため息をついて肚をくくった。
「…茨の国にある、後輩の実家が歯科をやっている。そこの定期検診にかかれば、虫歯の心配はないんじゃないか」
必死すぎる。
が、もう覚悟するしかない。
カリムのペースに合わせていくことに。そのために俺がみっともない言動をしていても、見ているのは世間知らずなカリムしかいないのだから。
カリムはその程度で俺に幻滅なんてしないし、俺はカリムのすべてが欲しいのだから。
カリムは俺の返答を受けるとなるほど、と合点し、ふふっと小さく笑った。
「ジャミルがそこまで言うなら」
いいよ。
そう言って小さな口をくぱぁ、と俺に向けて開けた。
口腔の中の赤い歯肉と、白く並んだ小さい歯列。肉厚で少し短い舌と、てらてらと濡れた喉奥。
無防備に差し出されたその光景に、すべての憂慮が吹っ飛んで欲望が込み上げてくる。
おいしそう、ほしい、脳裏にその言葉が浮かぶと、身体は自然にカリムを抱き寄せて、その穴の中に舌を差し入れていた。
「んン~!…ん、…ぁ、」
いちばん味わってみたかった赤い舌に、迷うことなく舌を絡める。
表面と裏側の粘膜にすりすりと舌を這わせて、その形と質感を脳裏に刻み込んだ。肉厚でザラザラした部分と、つるつるの粘膜、少し甘い味、鼻腔を抜けるカリムの匂いに酔いしれ、陶然とする。背骨を駆け上がる欲望に脳がくらくらした。
そのまま、舌をずらして今度は一本一本の歯列を舌でなぞる。
象牙のような質感の歯と歯肉の境目をゆるりとなぞると、腕の中のカリムが分かりやすくぶるり、と震えた。
貰う反応に気分が良くなる。背中と二の腕を掌で撫でながら、そのまま舌で、歯の表側、裏側を満遍なく味わい、口腔内を犯した。
「ふ…、ン、ふぁ…」
くちゅくちゅと口腔から漏れ出る水音に紛れて、カリムの吐息のような声が聞こえる。
喉から鼻腔にかけて抜ける、官能の発声。
もっと聞きたい、五感で味わいたい。
すきなだけ全部、カリムを味わいたい。
舌だけでなく、唇の粘膜同士を擦り合わせて、緩急をつけた刺激を与える。上唇を挟み込み、軽く歯を立てるとンン、と声をあげてカリムが感応した。
はむ、はむ、と二つ三つ大きく唇同士を食ませて、一度唇を離し、カリムを見下ろす。
二人の唾液でてらてらと光る唇。
官能に濡れた紅い瞳。
初めての感触に上気させた頬。
ほぅ…、と小さく漏れた吐息すら、俺に溺れた息継ぎのようで、征服感に満たされた。
その表情に内心ほくそ笑む。乗り気じゃなかったくせに、好かったみたいだな。
「じゃみる…、これ、気持ちい…」
とろんとした顔のまま、回らない舌でカリムが語りかけてくる。
「私、キスすきだ……ねぇ、もっと……」
すり寄るカリムが俺の頬に指を添える。
その美しい顔が、羽ばたきのようにまつ毛を伏せて俺に近寄ってくる。
許されていることが、求められていることがこんなにもうれしい。
与えられた口づけに本能のままに小さな後頭部を掻き寄せて、より深いキスで応えた。
***
「どれ、綺麗にできておるかの~」
指輪の入っていた特殊なジュエリーボックスに材料を入れ、手順に則り魔力を通す。
デザインの細部まで造作できるかは術者のイマジネーションと力量の差によるところが大きい。
そうやって細心の注意を払って制作し、ついに俺たちの指輪が完成した。
「指輪のお披露目にまで立ち会えるとは幸運だったな」
「カリムは宝飾品が好きだったからの~!一体どんな指輪になったのやら」
採掘を手伝ってくれたマレウス先輩とリリア先輩は、そのまま指輪の製作まで見守ってくださった。俺たちの結婚の仲人であり、魔術においても抜きん出た実力者である二人に助言を頂けるのは、正直大変ありがたい。
ドキドキしながら箱の中を四人で覗き込む。
中には、シンプルな金環が一対、鎮座していた。
ぱっと見マレウス先輩に貰ったものと似たようなデザインだが、失敗ではない。細幅になった指輪が捩じれていることに内心、成功を確信する。
「…おや、カリムにしては随分シンプルだな、」
「そうなんです。カリムがこのデザインを提案してきたとき、俺も正直驚いて」
ベルベッドに乗った指輪をそっと指で摘まみ上げる。その指輪の裏側を皆に示すと、三人が息を飲む気配が伝わった。
「よかった、成功だ。カリム」
「本当だ。こんなに細かく、よくできている」
指輪を覗きこんだカリムが、ほぅ、と小さく息を吐きながら綻ぶように笑った。
その笑顔に、俺も気持ちが和らいでいく。
指輪は、一見捩じれたシンプルな金環だ。
けれども、裏側には緻密な蛇が彫り込まれてあった。
採掘した金属を割金にした白金の、紅いルビーの眼をもった蛇が、一枚一枚の鱗をうねらせて輪になっている。
外見からはまったく見えないその意匠を提案されたとき、俺も初めは度肝を抜かれた。
ゴテゴテした装飾が大好きで、宝石は大きくて多ければ多いほどいいと思っているようなカリムが、こんな大人しい指輪でいいのか、と。
「この蛇は、ジャミルなんだ」
自分の指輪を取り上げ、蛇を眺めたカリムが皆に意匠を説明する。
「いつも私の薬指に付けて、どこにでも連れていける。裏側にいれば、何者にも傷つけられない」
「ほう!そんな趣向があるとは!やはり結婚はいいのう~愛の力にこちらまで若返るようじゃ!」
賞賛と冷やかしを受けたカリムが、頬をほのかに赤くさせて照れながら笑っている。賑やかな空気にじんわりと心が温まって、幸せが溢れてくる。
「カリム。指輪つけてやる」
そう声をかけると、少しびっくりしたような顔でこちらを見遣ったカリムが、とてもうれしそうに指輪を渡してくれた。
しなやかな左手を持ち上げて、白い蛇をその薬指にそっと通す。
指輪が俺だと言ってくれて、率直に嬉しかった。
俺を大切に思っていてくれていた今までの想いが、形になるみたいで。
これからも変わらないその愛を、誓ってくれるかのようで。
「私も、ジャミルのを付けさせてくれ」
その提案に指輪と左手を差し出して、慎重に指輪を嵌めてくれるカリムを見遣る。
カリムの指輪が俺だというのなら、俺の指に嵌まる蛇は、カリムだ。
紅い眼を持った白蛇、それはカリムそのものだろう?
俺の指に絡みついて離れない。
俺も、決して離さない。
黄金の心をもった、俺の心臓とつながる指に棲む白い蛇。永遠の愛を誓う生き物。
ピタリと嵌まる指輪に、賛辞と祝福の言葉と拍手が飛ぶ。笑い声の沸きおこるそのなかで、俺とカリムは顔を見合わせて笑う。
これから先にきっとどんな困難があっても、互いの指に潜む一対の蛇のことを想起するたびに、力をもらえるような、そんな気がした。