褒美「腕を上げたな、利三…お前と共に在れること、心強く思う。」
今日の試練での言葉、利三は心の中で繰り返し噛み締めていた。
いつからだろうか、利三は己は既に今が限界なのでは…幾度と無く自問自答して来た。
その度に否と答えたとてそれを証明する術がなく、常に己への不満が付き纏っていた。
この様な状態では光秀の家臣として、まして右腕として名乗るなど烏滸がましい。
そんな思いに漸く終止符を打ったのだ。
「はぁ…」
深く呼吸を吐き出し、再度光秀の言葉を噛み締める、それは己で掛けてしまった呪縛から解き放つ言葉でもあった。
家臣としての誇らしさ嬉しさの中に、安堵の気持ちも入り混じる。
明智光秀の家臣、斎藤利三の中にはもう一人大きな存在がいた。
「父上…」
利三の父、利賢は斎藤家家臣として立派に役目を果たしていた。
幼き頃から道三に仕える父親の背中を見てた利三は今でも誇りに思っている。
「これで少しは…父上に近づけただろうか」
胸に手を当てて父を思う。
今では顔よりも大きな背中を鮮明に思い出す。
「褒めて…頂けるだろうか。」
利三はきゅっと胸の前で拳を作りゆっくり目を閉じた。
◆◆◆◆◆
光秀は先の試練での高揚がまだ静まらないのか床に入っても眠ることができなかった。
利三と刃を交えたのは稲葉城の時以来、あの頃とは見違えるくらいの成長に少々感傷的になっているのかもしれない。
心の底から嬉しかった、体を起こして掌を見つめる。
「本当に頼もしくなったな…」
利三から受けた衝撃で未だ掌が痺れている。
光秀は休むことを諦め夜風を求めて自室を出ると、少し先の廊下で人影を捉えた。
「…」
用心し気配を殺して確認すれば胸を押さえている利三ではないか。
「どうしたっ利三、どこか痛むのか?」
光秀は慌てて声かけ素早く走り寄った。
月明かりの影で利三の顔は見えないが目を閉じて俯いていたようだ。
「俺の部屋の方が近い、すぐに横になれ、医者を呼ぶか?」
「っいえ、そっあっお待ちくだっとのっ」
珍しく取り乱している光秀は利三の言葉など耳に入っていないようだ。
そのまま勢いよく利三を抱き上げて自室に連れ込み、今まで自分が横になっていた布団に利三を寝かせた。
手際よく襟元を緩めて胸、鳩尾、腹の状態を確認しながら手を当て、触診のため軽く押し込む。
「どこが痛む、腹か?」
このままだと本当に医者を呼ばれかねない勢いに利三は光秀の袖を引っ張り
「ど、どこも怪我などしておりませぬっ殿。」
流石の利三も慌てて光秀を勢いを抑え込んだ。
「…え…そ…うか。何もないのならよかった…本当に我慢などしていないか?」
自分の早とちりを理解した光秀はそれでも利三の顔を覗き込む。
ここで初めて利三と目を合わせたことに気がついた。
「はい、心配無用です。利三は頑丈に出来ておりますので」
「…ふふっ」
利三の軽口に一瞬光秀は動きを止め、漸く二人は静かに笑い胸を撫で下ろした。
「まだ休まれておられなかったのですか?」
襟元を直しながら体を起こし、利三は問う。
「それはお前だって同じだろう、何をしていたんだ?こんな夜更けに。」
光秀は腰を浮かした利三を当然のように膝に乗せようと腰に腕を回した。
「っ殿っ…」
「そろそろ見回りが来る頃だな、騒ぐと聞かれるぞ?」
光秀の腕の中に違和感なく収まる利三は眉間に皺を作りながら見上げていた。
それが照れ隠しだということは既に見抜いてる、光秀はその眉間に唇を寄せた。
「あぁ、そうだ…褒美をやらないとだな。」
「褒美…?」
「家臣の活躍に褒美をやるのは主君として当たり前だ。何か欲しい物はないのか?」
「いえ…特には…それに活躍という程のことでも…」
考える素振りもなく答える、察してはいたがそれは主君として物悲しい。
「もう少し考えろ、防具などはどうだ、新しく新調するといい。」
「いえ、今のもので十分ですし、予備もまだ新しいままです。」
「…槍はどうだ、ずいぶん使い込んでいるだろう?腕の良い鍛冶屋に造らせよう。」
「天魔反戈もありますし、先日頂いた天翔闇鳥も控えてありますので無用でございます。」
「ん…」
光秀は色々と思いを巡らせるが良い褒美が見つからない。
「酒はどうだ…?俺には分からないが美味い酒なら…」
「酒なら利家殿に度々付き合わされているので…」
「そうか…」
利三には色々と苦労をかけている、今回の件でも利三が思い悩んでいることには気がついていた。
見守ることしかできなかったが…
「家臣としてお前は成長しているのに俺は主君としてお前に何もできないのだな…」
歯痒い思いで利三の髪に触れる、湯浴みをしたばかりなのだろうか、まだ渇ききっていない髪は冷たくなっていた。
「利三…本当に何もないのか?」
静かに髪を撫でた。
利三は光秀の腕に収まりながら黙って見上げている。
そも視線はどこか遠くを見ているようだ。
「利三?」
不意に利三は触れていた光秀の手を両手で包むように触れ視線を移した。
「ん?」
「…」
利三はただその大きな手を自分の頭に乗せたのだった。
◆◆◆◆◆
「利三、よくやった」
無口な父親が珍しく褒めてくれた、大きな手で頭を撫でて。
遠い昔のことだが忘れたことなどなかった。
光秀の手は比べてしまえば綺麗すぎる手だったが、それでもあの頃の父親の手と同じくらいだろうか。
「利三?」
もっと父上は無骨な手だったな…そんなことを思いながら利三は無意識に光秀の手を取り────
これくらいの重さだっただろうか、大きさもこれくらいだっただろうか。
あの頃とは自分の頭の大きさは違うものの、幼少時に感じた父親の手を思い出す。
その手が利三の頭を撫で始めて漸く懐かしさから我に返った。
「あっ殿っ」
慌ててその手を剥がそうとするよりも強く抱きしめられてしまう。
「いいぞ、存分に今夜は甘やかしてやるぞ?」
くすくすと笑いながら頬擦りされる、大きな体で抱きしめられてしまえば抵抗する術はなく。
もちろん鼻から抵抗など皆無で。
暫く思い悩んでいたことも解消された利三は今夜だけ…と自分に言い訳をして
「…」
茹だるくらい首まで真っ赤になりながら
「殿…」
ゆっくりと光秀の背中に腕を回した。
◆◆◆◆◆
虫の声さえ眠る時刻、それでも光秀は眠るとこができなかった。
しかし利三の方は今日は流石に床から抜け出す力もなかったのか、光秀の腕の中で静かに寝息を立てていた。
なかなか見ることのできない寝顔を眺めながらまた頭を撫でてやる。
半年ぐらい前からだったか…利三が不安そうに後ろにつく様になったのは。
不安…この言葉は的確ではないな…と光秀は苦笑いをした。
額にかかった前髪を指先で掬い耳にかけてやる。
利三が思い悩んでいる間、光秀も何が出来るのか気にかけていたが、結局は見守ると言う手段しかできなかったことを歯痒く思っていた。
『いい家臣を持ったな、光秀』
信長の言葉を思い出す。
何よりも嬉しい言葉だ。利三が誰かに認められるのは自分のことより嬉しい。
「今日はよくやったな、利三」
起こさないよう囁くと少しだけ微笑むように利三の唇がうっすらと開いた。
「父上…」
「っ…」
思わず利三の顔を覗きむが目を覚ますことはないようだ。
これは手強い敵が現れた…光秀は困ったように笑みを浮かべた。
「そうか…」
これからはたくさん褒めてやる。
お父上には勝てないだろう、それでも構わない。
お前の心が安らぐなら。
これが俺からの褒美だ。
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