未定「ったく、面倒くさいのう」
いつものよう着替えを終えてカンファに向かう途中、少し前に言い渡された実習指導医の役目が今日からだったと思い出した。
いつものらりくらりと避けてきたが、今回ばかりは逃げきれなかった。今日は午後から他の施設見学の予定らしいが、明日以降も朝イチのオペで導入だけ見せたら帰してしまおうと目論む。一日中ついて回れるなんて想像しただけで疲れるし、入局の確約もない相手に一生懸命教える気にもならない。学生だって早く解放される方が嬉しいだろう。お互いのため、うぃんうぃんだ。
そんなことを考えていたのだ。
このときまでは。
「今日から宜しくお願いします」
「……」
名札を囲む緑のラインは医学部生の証。それを首から下げた医務衣の集団の中で、ひとりキラキラと発光している子がいた。
頭の中にキューピットが自分の心臓を射抜く古い漫画のような図が浮かび、実際に胸は射抜かれたように痛くて仕方ない。直視するのは辛いほど眩しいのに、彼女を見た瞬間から勝手に見開かれた自分の目はそこから視線を外すことができなかった。
挨拶も返さず黙り込む自分に学生たちは皆戸惑いを見せているが、あまりの衝撃にこちらはそれどころではない。
艶々とした黒髪。丸い頭によく似合うさっぱりとしたショートカットは亡き妻を思い出させた。幼さの残る丸い頬にスッと通った鼻、形の良い唇。甘く垂れた目の左側には傷跡が走っているがそれが何とも色っぽい。
――信じられんほど、めちゃくちゃ、とんでもなく可愛いのじゃが……!!!――
着ているのは身体のラインなど強調しない作りになっている医務衣なのに、生地の下からしっかりと存在を主張する形の良い双丘。その谷間にぶら下がる名札が示す名は「水木」。
そうか、水木か。
正真正銘の一目惚れ。
今日、今、この瞬間、人生二度目の恋をした。
今回の指導医はなかなかに無愛想で、挨拶も無視して淡々とオリを始めた。学生を担当するのは初めてらしく、どうりで前評判がないわけだと思った。一見して全く医者に見えない奇抜な銀髪だし、めっちゃ背は高いし、変な話し方してるしで、以前も担当していたのだとしたら学生の間で絶対に話題になっているはずだ。「田中先生」か。名前は平凡なのに随分様子のおかしい人に当たってしまった。
「では水木、プロポフォールの麻酔作用の機序について説明してみよ」
「えっと、中枢神経のGABAA受容体に…」
そしてらさらに嫌なことに、症例や諸々の説明中に度々こちらに質問を投げてくるのだが、なぜだが毎回俺を名指ししてくる。質問自体は答えられないものではないが、こうあからさまに集中攻撃されると疲弊はする。まだ初日なのに目をつけられてしまったのか。班の皆も戸惑っているし、残り四日もあるというのに毎日これをされるのかと思うと憂鬱すぎる。せめて日によってターゲットを変えるタイプであってほしい。
「そうじゃ。では水木、先ほどの症例の中にも出てきたが」
「あれ、田中先生まだやってたの?学生さんたちにお昼休みあげた?この子たち午後からペインクリニックの見学だからそろそろ解散しないと」
「あ、ああ。そうじゃったの。……ではまた明日」
予定時間もとっくに過ぎていつまで続くのかと思っていた質問攻めも別の先生の登場で一旦止んだ。いい加減疲れていたので助かる。
班のメンバーと連れ立って職食に行けばもうピークは過ぎてだいぶ人ははけている。各々残っているものを注文しテーブルにつくと、この班で俺以外の唯一の女子である三田ちゃんが声を顰めて話かてきた。
「水木、大変だったね」
「ああ。なんでそこまで目付けられたんだろうな?俺、そんなに態度悪かったか?」
「いや、なんか、それもちょっと違うというか……」
目を泳がせた彼女は少し間を置いた後、気まずそうに言った。
「先生、指導中ずっと水木の顔と胸しか見てなかった」
「え……?」
襟までしっかりとあるケーシーを身につけた自分の体を見下ろす。まさか。
「んなわけ」
「いや、まじ!ってか気づかなかったの?マスク換気の練習の時だって、お前のときだけ後ろから手添えてたじゃん」
「一番最初だったからじゃねえの?あと、上手くできてなかったのもあるし」
「……お前ってほんと変な所ニブイというか、危機管理能力ない」
「失礼な」
特大のため息をつきながら呆れたように言われるが、そんなに勘が悪いつもりはない。そもそも相手は実習指導医だしそんなことを考えることの方がどうなんだ。
「とにかく、触られたりとかなんかあったらすぐいいなよ」
語気を強めて言う同期の迫力に押されてそれ以上は言い返すことができずに頷いた。
翌日からの実習も同じように俺だけが質問攻めにあったが、同期が言うような視線は感じなかった、と思う。やたら目が合った気はするが何度もすぐに逸らされたので、やはり単純に目を付けられているというか、嫌われているだけだろう。あんなこと言うから変に意識してしまったじゃないか。
昨日以上に気疲れしつつやっと実習が終わり、更衣室で脱いだケーシーのポケットの中身を出していると、メモ帳がないことに気づいた。しまった。レポートもやらねばいけないし、何より実習内容のメモを忘れてそのままにしていたら印象が悪すぎる。今でさえめちゃくちゃやり辛いのにこれ以上指導医に嫌われてしまうのは避けたい。
「悪い、先行ってて。忘れ物した」
ひとり急いで廊下を戻っていれば、向こうからここ二日間がめちゃくちゃ疲れる日となった元凶が歩いてきた。こちらを見て呼びかけてくる。近寄れば今まさに取りに行こうとしていたメモ帳を渡された。一番見つかりたくない人物に見つかってしまったのだ。
「ほれ、お主のじゃろう」
「っ!すみませんでした!ありがとうございます」
「よう勉強しておるな。関心したわ」
焦って頭を下げれば、ぶっきらぼうに言い放たれた。嫌味、だろうか。
「……それは京言葉的なやつですか?」
聞き流せなくてつい言ってしまった。忘れ物は完全に自分の非だが、それ以外に難癖を付けられていると思うと我慢できなかったのだ。二日間、理由もわからず目を付けられて集中攻撃されて限界がきていた。
「なんでそうなるんじゃ。実習中もずっと褒めておるではないか」
失礼承知で放った俺の言葉に、先生は驚いたように元々大きな目をさらに見開いた。きょとんと、これまでの無愛想で冷たい印象とは違う幼い表情を作られて逆に怯む。ん?今まで褒められてたか?
「……え?」
「え?」
「すみません、……この二日間全然褒められてる気はしてなかったです」
「な、なんじゃって?」
「……嫌われて、目をつけられてると思ってました」
「はあー!?」
先生はグシャグシャと髪を掻きながら、その場にしゃがみ込んでしまった。腕の中に顔を伏せてしまって、表情は見えない。
「あ、あの先生?うわっ!」
急にどうしたのかと恐る恐る同じようにしゃがみこんで手を伸ばすと、勢いよく顔を上げた先生に思い切りその手を掴まれた。
「の、のう、水木よ、ワシはお主を嫌ってなどおらん」
「あ、そう、でしたか」
「本当によう勉強してきてると思っておったし」
「ありがとう、ございます」
掴まれた手は痛いほど力が込められているし、普段青白い先生の顔にはどんどんと赤みが差していく。学生相手にそんなに必死に言い募らなくてもいいのに。別に意地悪されてたとしても大学に言ったりしないし。「大丈夫です、気にしてないです」と言おうと口を開いたときだった。
「そ、れに、お主のことを、その、可愛いと、思うておっての」
……。ん?んんん?なんて?
「……え?」
「あの、その、ワシと良かったら、しょ、食事でもどうかの?」
「はあ……?」
突然のことでパニックになる中、耳が背後でバサバサと何が落ちる音を拾う。振り返るとこうなることを予想してくれていた同期、三田ちゃんがそこにいた。能面のような顔で俺の向かいにしゃがむ先生を見下ろして、こう宣言したのだった。
「ハラスメントです、先生。学生課に報告させていただきます」
あの後、足元に落ちた荷物を拾い上げた三田ちゃんは、先生と俺を即座に引き離した後、そのまま俺を連れて学生課に直行した。その場ですぐに大問題となり、学生課の課長と学部長が謝りにきた。お偉いたちに「実習担当ももちろん外すし、金輪際接触しないようにするから大事にしないでほしい」(意訳)と頼み込まれて、別に触られたりしたわけじゃないし(手は掴まれたが)、指導医じゃなくなるならいいかと了承した。ずっと付き添ってくれていた三田ちゃんは、もっと怒った方がいいと言ってくれたけど、あまりに大事にしたり、厳罰を望んだりして逆恨みされても嫌なのでこのままにすることにした。先生自体はあまりそういったタイプには見えないけれど。あの必死な感じを思い出しながら言えば、「危機管理能力がない!」とまた目を吊り上げた彼女に怒られた。
他県に住む母にも連絡がいっていたようで、学生課を出てすぐに電話がかかってきた。心配をかけてしまって申し訳ない。寮に戻れば今回のことを噂する声を聞くわ、ハラスメント対策の一斉メールは来るわでトラブルの渦中にいる人物はこうも気まずいのだなと知った。三田ちゃんから聞いたようで、彼氏からも電話がかかってきたけど、あまりに疲れていて二、三言話して「大丈夫だから」とすぐ切った。
とまあ、そんなこんなでバタついたものの、なんとか今日の実習は予定通り行えた。約束通り指導医は変わっていて、昨日までの二日間がいかにやりづらいものだったかを思い知った。だいぶストレスだったな、あの集中攻撃……。いや、でも先生自身は好意を表現?しようとしていたのか?改めて考えると笑えてくる。下手くそすぎるだろ。そんなことを思いながら、明日のプレゼン準備のために来ていた図書館を後にする。
構内の街灯の下を歩く人はまばらだ。もう20時を回っているしどこで夕飯を食べて帰ろうかと考えていると、ヌッと白い手が伸びてきて腕を掴まれた。完全にデジャブである。
「水木!」
「田中先生……」
簡単に接触してきてますけど、どうなっているんですか病院側の対応は。
「昨日はすまなかったの」
「あの、おれ、じゃない、私には接触禁止では?」
「そうじゃ」
「……じゃあここを誰かに見られるとまずいのでは?」
なんでそんなに平然としてるんですか?なんだかこっちが焦ってくる。完全に先生が悪いのだが、これで先生が処罰とかを受けても夢見が悪いのですが。
「そうじゃの。でもお主に一言謝りたかったんじゃ。怖い思いさせてすまなかったのう」
言いながら先生はズビっと鼻を啜る。よく見ると、目は腫れぼったいし、白目の部分も充血している。
「泣いてたんですか?」
そう聞くと、ボロボロと大きな目から涙が溢れてきた。
「お主に、もう会えないと思ったらかなしゅうて。すまん」
大の大人の、それも自分よりずっと年上の涙。しかも自分に会えないからと泣いている。どうしていいのかわからず、とりあえずそっとハンドタオルを差し出せば、先生は少し驚いた後、素直にそれを受け取り涙を拭いた。そして、どさくさに紛れてなんか匂いも嗅いでいる気がする。
「嫌な思いさせてしまったのに、お主は優しいのう」
「いえ、別に……」
「妻を亡くしてからはお主が初めての恋じゃったからどうして良いのかわからくてな。言い訳にもならんが」
先生、奥さん亡くしてるのか……。そして、俺のことも本気だったのか。胸がキュンと締め付けられる。この感情は同情なのか、なんなのか。答えがわからぬままに気がつけば俺の口は勝手にこう言っていた。
「先生、お付き合いは無理ですけど、先輩後輩としてでしたらぜひお食事ご一緒させてください」
先生は目からハンドタオルを離して真ん丸の目でこちらを見つめてくる。
「よ、よいのか……?」
「はい。ぜひ」
俺の脳内三田ちゃんは怒り狂っているが、それを無視して先生に笑いかければ、ビシャビシャの泣き虫はあっという間ににっこにこになった。指導医をしているときはあんなに無愛想だったのに、こんな顔もするんだな。ほんとに子どもみたいだ。
「それはいつにする!?今からでも良いが!?」
「は?今から?」
「なんじゃ?明日の準備が終わったとらんならワシが手伝うぞ」
「いや、それは終わってるけど」
「なら今からでもいいじゃろう。水木は何が好きなんじゃ?」
あのしおらしい態度はどこへやらで随分とグイグイくるが、昨日みたいな恐怖感はないので良いとしよう。「良くない!」と騒ぐ三田ちゃんには一時脳内から出ていってもらった。
「うーん、日本酒かなあ」
「日本酒じゃな!いい店が近くにある!行こう!」
「おい!じゃない、あの、このまま二人で構内歩くのはまずくないですか?後近くの店も」
昨日の今日で教授たちに鉢合わせしたらやばいだろう。言外にそう伝えれば、キョロキョロと辺りを見渡した先生はニヤリと笑っていった。
「大丈夫じゃ。こんなに暗ければ見間違いで通るじゃろう。店にもあらかじめ電話しておくからの」
そう言って俺の手を取って歩き出した。
「こら!……じゃない。先生、手を繋ぐのはちょっと」
さっき先輩後輩としてって言ったばかりだろう。それにこっちは彼氏もいるし、俺は手を繋ぐところからが浮気派の人間だ。不誠実な人間になるのを避けるべく、繋がれた手を解いて距離を取ろうとしたが、「だめかのう」と先生が寂しそうに眉を下げて言うのにまた胸が締め付けられて。気がついたら俺の方からしっかりと手を繋ぎ直してしまっていた。そしてそのまま二人で構内を歩いていく。花の幻覚が見えてきそうなほどご機嫌の先生の隣を歩くのは、意外にもとても気楽で愉快で。
先ほど追い出した脳内三田ちゃんは肩を怒らせて俺の元から去って行き、二度と戻らなかった。