こうして穏やかに酒を酌み交わすようになったのはいつからだったろうか。もはや数百年は前になる波乱の日々を思い起こし、ふと郷愁に駆られたように目を細める。
「叔父様……? どうされましたか?」
「ん? ああいや、懐かしいと思ってな」
手にした杯をくるりと回し、葡萄色をした液体にそっと口をつける。
瞼の裏に広がるのは贖罪の記憶。これ以上ないほどの幸せな時を根こそぎ摘み取られ、この身体を形作る砂のひとつひとつまでもを憎悪と悲愴で満たしていた哀れな過去のことだ。
「あの頃はこうやってお前と晩酌するだなんて思わなかったからな」
「そうですね。俺も……まだ夢を見ているようです」
「大袈裟」
からからと笑い、上機嫌のまま飲み干す。するとすかさず甥の手が次を勧めてくるので、遠慮なく差し出し杯が満たされるのを待った。とろとろと注がれる液体に視線を落とし、争うことなく流れる時間にただただ身を委ねる。
「……お前はよく頑張ったよ。こんなひねくれ者の半神に付き纏って、とうとうここまで来ちまったんだから」
「強情で意地っ張りな叔父様についていくのは本当に骨が折れました」
「よく言うぜ。そんなどうしようもねえヤツを好き好んで世話してたのは誰だって?」
「もちろん俺ですよ。そこは否定しません」
そう言って微笑むと、ホルスは手酌で葡萄酒を注ぎ、対面の席へと腰掛けた。杯に口をつけ、嚥下するたびに上下する喉仏にくっと口角を持ち上げる。
よくもまあここまで育ったものだ。初めて誘ったときは一、二杯飲むだけで意識を飛ばしていたくせに。
「嫌にならなかったのか? 何度も殴られて、暴言まで吐かれて。途中で見放したってよかったんだぜ?」
口当たりが良く酒精もそこまで強くない果実酒を、それでも飲み込むたびに肌を赤くしていた様を、今でもよく覚えている。
図体ばかりが成長したあの頃のホルスとの晩酌は、それはもう酷いものだった。
ぽんやりと一点を見つめたかと思えば倒れるように突っ伏して、そのまま眠ってしまう日だってあった。若造らしい酒の弱さに声を上げて笑い、仕方なく寝台に横たえてやったことだってある。
だというのに、今や目の前の男はうっすらと頬を染めるばかりで意識を飛ばしたりなどしない。精悍な顔付きをだらしなく緩めるような飲み方もしなければ、呂律の回らない口で「叔父様」と呼ぶこともなくなった。その成長ぶりが喜ばしくて少しだけ寂しいのは、口には出せないセトの本音のひとつでもあるのだが。
「しませんよ、そんなこと。大切な叔父様をこの手でお守りできるのですから、多少の仕打ちなど苦ではありません。むしろ……」
不意に途切れた言葉に顔を上げる。わざわざ区切るほどのことを言うのだろうと脳内で流していた映像を止めて向き合うが、返ってきたのは悪戯っ子のようににまりと細まる瞳だった。
「むしろ、信頼を得ると同時に失ったものに対して、若干の物足りなさを感じますね」
「は? ……ふっ、ぷっははははッ! おっまえなんだそれ! っくく……暴力と暴言が恋しいなんて、おかしな趣味してやがる!」
「そうですか? でも叔父様だって俺のお節介が恋しくなりましたよね?」
まるで「あの頃はよかった」とでも言うようにしみじみと紡がれた内容にけらけらと声を上げて笑えば、その直後、反撃のように返された言葉にセトは思わず動きを止めた。視線の先にある確信を得た表情にゆるゆると口を閉じ、動揺を見せぬようあえて深いため息をついてから自慢げに微笑む甥っ子をじっとりと睨み付ける。
「バカ言ってんじゃねえよ。んな暇ねえくらい世話焼いてくるくせに」
呆れた様子で突き付ければ、ホルスはへにょりと目尻を下げて照れ臭そうに笑った。
歳月を経れば誰しもが変化する。それは悠久の時を生きる神も同じことだ。
暴虐の限りを尽くしていたセトは贖罪によって心を入れ替え更生したし、叔父様叔父様とセトに付き纏っていたホルスはこの国を治める最高神として見事に成長した。
平和を取り戻したエジプトは再び神々の御座す国として活気付き、マァトの掲げる命の天秤もついに均整を保つようになったのだ。
それは誰がどう見ても間違いようのない現実であり、そしてまた、内部の者からすればほんの少しだけ美化された事実でもあった。
だってセトは変わらず口が悪かったし、相手を選びはするものの物理的な攻撃だってやめた覚えはなかった。それはホルスも同じことだ。彼は最高神という唯一のポジションにつきながらも隙あらばセトの世話を焼いていたし、セトだってホルスが世話を焼くことを止めなかった。それどころか、口では「鬱陶しい」と言いつつも一日でも側にいない日があれば調子が狂ってしまい、その結果自らちょっかいをかけに行くほどになっていた。
つまりセトは、それだけホルスに絆されているのだ。
隣にいることを許し、肌に触れることを許し、世話をすることを許し、特別な時間を過ごすことさえも許した。甥の好意を邪険に扱っていたあの頃とは大違いだ。
贖罪の旅の中で与えられた優しさはいつしかセトの心を開き、数百年経った今では何よりもかけがえのないものとなっている。だからまあなんというか、先ほどのように呆れてみせるのは強情なセトが返せる精一杯のポーズであり、ホルスもそれを見抜いているからこそただただ笑みを返すばかりなのである。
そして酔いの席でのこういった話題もまた初めて交わすものではなく、つまるところはこれから始まる長い夜への架け橋となる戯れの一環に過ぎないのだった。
「……叔父様、そろそろよろしいですか?」
再び席を立ったホルスがセトの元へゆっくりと歩んでいく。今度は杯を置いたまま、すぐ隣に立っては色素の薄い肩へと手を乗せ、親指の腹で一度だけついと撫でてみせる。するとくふりと笑ったセトが、流れるような動作でホルスの手に己のものを乗せた。数え切れないほど交わした酒の席での合図は簡潔で、だからこそ明確で情欲を誘う。
「はッ、おかしな聞き方しやがって。まだ飲みたい気分だと言ったらどうするつもりだ?」
「でしたら攫わせていただきます」
「あ? っうお、てめッ! ふっはははは! おいこら、降ろせって、んむ!」
ほんの少しの風を操作してセトの身体と彼が持つ杯を浮かせたホルスは、素早く腕を差し込み抱き上げると、有無を言わさぬままその口を塞いでみせた。飲み込まれた言葉は声になることなく喉へと戻り、やがて切なげな吐息と共に小さな水音が聞こえ始める。
セトの厚い唇をふにゅりと割り開き、熱い舌先が入り込んでくる。抱かれたままの口付けは決して安定しなくて、けれど全く嫌な気はしない。何しろセトにとって今やホルスは気を許した恋人なのだ。例え男神らしく逞しい腕に抱かれようとも構わないし、むしろ好意の表れだと素直に受け入れることができる。
「ん、ホルス……もういい」
酒精と口付けによって少しばかり蕩けた思考を寄せ集め、できる限りの言葉で先をねだる。するとことさら丁寧に寝台へと横たえられて、その余裕ぶりにゆったりと目元を緩める。
慣れたそよ風と共に素顔が晒されるのも、こちらの冠の下へと当然とばかりに潜り込んでくるのも。誰にも許さない特別を与えていることに、こいつは気付いているのだろうか。
そんな僅かばかりの図々しさと、それ以上に感じた心地良さ。そして、こんなにも大きな図体をした甥が甘えたように鼻先を寄せる愛しさに思わず口元を綻ばせたセトは、「がっつくんじゃねーぞ」と声をかけながらも自ら邪魔なものを砂へと変えていった。
・・・
「久しぶりに飲み比べでもしてみるか?」
それは、何の気なしに発した言葉から始まった。
毎夜のように開催されている晩酌が数時間ほど経ち、互いにほろ酔い加減になってきた頃、おもむろにセトはそんなことを口にしたのだ。
ちゃぷりと揺れた葡萄色の液体と、僅かに驚き見開かれた空色の瞳。聞き返されないうちにと誘うような笑みを向けてやれば、予想外だと言わんばかりの表情はすぐさま歓喜へと変化していった。
「いいですね、そうしましょう! ええと、……そうですね、ではこれから献上された品をありったけ持ってきますので、叔父様もご自身が所有しているものを用意しておいてくださいますか?」
「ははっ、話がはえーな! いいぜ、上等なヤツを用意しといてやるよ」
上機嫌に言葉を返せば、ぱっと表情を明るくしたホルスはすぐさまセトに触れるだけの口付けを贈り、「では行ってきます。少々お待ちください」とだけ言い残して窓辺から飛び去った。そのあまりの素早さに半ば呆けてしまう。
まさかあんなに喜んでもらえるとは。自分から提案しておいてなんだが、この食いつきの良さは予想していなかった。ふうと息を吐き、先ほど向けられた笑顔を思い出してはゆったりと眉尻を下げる。
それならこちらもとびきりのものを用意してやろう。
勝負をふっかけた手前、負ける気などさらさらないのだと。ニイと笑んだセトはまだ中身の残った杯を一気に飲み干すと、神殿内に造られた宝物庫へと向かうため閨を後にした。
そんなこんなでもろもろの用意がされた小一時間後、セトの閨にはものの見事にふにゃふにゃのぐでぐでと化したホルスがいたのだった。対面でふらふらと頭を揺らしては「んへへ」と笑う男をじっとりと睨み付ける。
「お前なあ……『是非叔父様に楽しんでいただきたいと思いまして』って言ったのはなんだったんだよ……」
「んん? んふふ、おじさま、おいしいれすかぁ?」
「美味いって言ってんだろ。何度目だそれ」
「へへ、うれしいれす。おいしいの、もってきたんで」
「それも聞いた。もらったその日に一口だけ飲んだってな」
「あぇ? ……えへへ、そう、そうれす。おじさま、おれのことたくさんしってますね。ふふ、うれしいれす」
「そりゃ本人から何度も聞かされてっからなァ……」
にへにへとだらしなく頬を緩め、一目見てわかるほど朱に染まった肌を晒す。人数分の杯と手酌用の水差しを置いただけの机に両手で頬杖をついたホルスは、冠を作り上げることも忘れたのか素顔のままでセトと向き合っていた。
最初はよかったのだ。抱えるほどの大きな水瓶を持ってきたホルスを出迎え、そして迎え撃つように用意しておいたいくつもの瓶を見せつけ、これだけあれば今夜は十分楽しめそうだと二人で腰を落ち着けた。
そうして「まずは俺からでいいな」とセトが用意したものを一杯分ずつ注いでは飲み干し、では次はお前だとホルスが用意したものを注いでは飲み干す。
そうして貯蔵庫からこっそりとくすねてきたつまみを口にしながら互いが用意した酒を交互に味わい、飽きのこない肴と芳醇な香りに包まれながら充実した夜を過ごせるはずだった。それが一体どうしてこうなった。機嫌が良さそうなホルスを眺めながらセトは考える。
特別酒精が強いものを選んだわけじゃない。そりゃあ普段とは違う種類を見繕っていたとはいえ、それだって昨晩飲んだものとさほど変わらないはずだ。となれば原因は自分ではない。だとしたら。
まだまだ余裕のある身体にホルスが持ってきた酒を流し込み、今の状態ならあるいはと表情を作ってから口を開く。
「にしても、よくもこんな上等な酒をたらふく隠してたもんだな。俺が誘わなかったら一人で飲むつもりだったのか?」
空になった杯を手酌で満たしつつ問い掛けるが、ホルスはうつらうつらと頭を揺らし、その瞼をとろりと落としかけていた。ここ数十年はとんと見なくなった無防備な姿に思わず頬を緩めかけ、いやいやこれではいけないと気を引き締め直す。
まだホルスに眠られては困る。せめてこの原因が判明するまでは、起きていてもらわねば。
杯を手にしたまま砂を使い、対面にいる男の頬を撫でる。間もなくすると、んぅ、と漏れた声といささか据わった空色の瞳が現れたので、セトは漸く「ホルス」と声をかけた。
「これ、一人で飲むつもりだったのか?」
手にしていた杯を掲げながらそう尋ねる。どうせもう大して理解できていないだろうと簡潔に言葉をまとめれば、ぱちぱちと数度瞬いた甥はなんとか理解したらしくへにょりと目尻を下げてみせた。
「ちがいます、よぉ……おれは、おじひゃまにのんで、ほしくって……」
「そうだな、それは聞いてる。美味い酒が飲めて俺もいい気分だ」
「んへへ」
「でもなホルス、俺は飲み比べだって言ったんだ。覚えてるか? 腹が膨れるほど飲んだわけじゃねえのに、お前だけそんなべろべろになりやがって。一体どういうことなのか、叔父様にもわかるように教えてくれよ」
気持ちよさそうに笑うホルスの頭を砂で作り上げた手で優しく撫でながら、理解が追いつくようにとわざとゆっくりと喋る。するとホルスはぱちりと大きく瞬き、そうしてやはりふにゃふにゃと頬を緩めて笑ってみせるのだった。
「おかしな~こと? いうんれすね……」
「おかしなこと?」
「んふふ、そうれす……だぁってこれは、かみへのささげもの、で……ふあ……はんしんの、おれ、にぁ……すこひ、つょ、……んぅ…………」
「……マジかよ……」
おいおいちょっと待て、聞いてないぞそんなこと。杯を覗き込み、中に残った液体をぐっと飲み干す。
──確かに。確かにセトが暴虐の限りを尽くしていた頃の献上品は、最高神への貢ぎ物として相応しいものばかりだった。
だってセトは暴君だったのだ。例えほんの少しでも出来が悪ければ品を運んできた民の命を奪って恐怖を煽り、「次があると思うな」と要求した。そうすればいつだって最上級のものを得られるとわかっていたからだ。
暴力と恐怖による圧倒的統治。それこそが悪神セトが敷いた王政であり、誰しもが従わなければいけない絶対的なルールだった。
けれどホルスは違う。真っ向から悪神に挑み見事にその地位を勝ち取ってみせた彼は、いわば民にとっての救世主だ。それゆえに、ホルスへの献上品はそれはもう素晴らしい質のものばかりが集められた。何しろそれこそが民からの信頼の証であり、感謝の気持ちを込めた最高の贈り物だからである。
だからこそここでひとつの齟齬が生じた。ホルスを慕うエジプトの民たちは、彼が未だに半神であることを知らなかったのである。
それはひとえに神々の頂点に立つ者が半神であるはずがないという狂信じみた思い込みと、果たして全ての生みの親である太陽神が許すのだろうかという懸念を打ち消すための苦肉の策だった。
数百年前、最高神の座を賭けた勝負に見事勝利してみせたホルスは、それまで全くの無名だったその名をエジプト中に轟かせた。誰も彼もが皆失いかけていた希望を胸に抱き、これからのエジプトが在りし日の活気を取り戻すだろうことを予感していた。
けれど、ホルスは神には成れなかった。いや、成らなかった、といったほうが正しい。
なぜならホルスはセトが好きだった。好きという言葉だけでは全然全くこれっぽっちも足りないくらいに憧れ、慕い、愛していた。だから、神には成らなかった。
神として成長すれば、半神であった頃の記憶は全て消える。ただそれだけの理由が、ホルスを成神へと踏み切らせずにいたのだ。
幼少から抱いていた想いを。セトを慕うこの心を。懐にこそ入れずとも共に過ごした日々の充足や、隣に並び立ち必死に支えた贖罪の記憶を。
それら様々な心残りが胸を満たした結果、ホルスは成神することを拒み、民に対して大きな大きな嘘をついた。そうして得たものが今のこの平穏なのだから、それこそ嘘も方便というものなのだろう。
全く、あの痩せこけたこどもがよくやったものだ。杯を傾け、中身がないことを思い出して砂を操作する。ゆっくりと喉を潤したのは、紛れもなく最高級の葡萄酒だ。神にとっては極上の、そして、半神であるホルスにとっては半ば毒ともとらえかねないほどの逸品。
香りがとても深く、口に含んだ際の軽いとろみのままに喉へと滑り落としてしまうもの。口内にとどめておけないほどに身体が欲し、味わう間もなくゆったりと嚥下するそれを、どうして一人で楽しまなくてはならないというのだろう。
「飲み比べだって言ったじゃねえかよ。なんだってこんなもん選んだんだか」
物音ひとつしない閨の中、誰に聞かせることなく口を尖らせる。けれど理由なんてものはとっくのとうに明白だった。だってホルスは「叔父様に楽しんでいただきたいのです」と言ったのだ。
ただただ美味い酒を飲んで気持ちよくなってほしい。その思いに嘘偽りがないと理解しているからこそ、セトはホルスの好意を受け止めた。だというのにこの甥といったら。
まさかこいつ、俺のことを美味い酒が飲めればいい男だと思ってるんじゃないだろうな? 毎晩のように晩酌の相手をさせられているくせに? こんなにもちょっかいをかけるのはお前だけなのだと、言葉どころか全身で表しているっていうのに?
──考えてたら腹が立ってきた。しっかりと眉間に皺を作ったセトは、おもむろに立ち上がるとホルスの逞しい肩にべちんと手を置き、遠慮を捨てたように大きく大きく揺さぶり始めた。
「おいこら、何休んでんだてめえ。俺は一人で飲む気なんかねえぞからな!」
突っ伏していた身体が崩れるほどぐわんぐわんと左右に揺らしてやれば、さすがの酔っ払いも起きるというもので。ううんと唸ったホルスは気怠そうに身を起こすと、瞼の開き切らないぼんやりとした顔をセトへと向けてみせた。
「ん、ぇう、すいま、ひぇ……んぅ……」
「おン前なあ……っ、いいか? このまま寝たら俺の不戦勝……つまりはお前の負けだ。それぐらいわかってんだろうな?」
「ぅ、ん、あぃ……」
「寝んな! 返事しろ!」
「……い……」
「い!?」
「ん~……いい、ぇひゅ……おじひゃま、かって、くらひゃ………………んぅ…………」
「……は?」
その言葉を最後に、ホルスは再び夢の世界へと旅立っていった。すうすうと穏やかな寝息が聞こえ始め、両腕を枕にするようにしてだらしない顔を晒してみせる。
あ~なるほど。わかったわかった。そういうことをするんだなお前は。
飲み比べという酒の席での戯れを。それでも、セトからしたらかけがえのない存在とのひとときを。いくら身体に合わないからといって一方的に打ち切るだなんて、そんなことをこの元暴君が許すはずもない。
「──いいだろう。ここからは勝者の時間だ」