足元に差す、柔らかくて暖かな陽が、だんだんと色を濃くし、日の入りの時刻をロナルドに知らせた。先生の呼びかけに従って下駄箱に外履きを入れてから、水飲み場に集う園児たちの最後尾にロナルド自身も並み立つ。
地面をひたすらにスコップでほじくり返し、水を溜めてはまたほじるという泥遊びを延々と繰り返していたロナルドの手は人一倍汚れている。ぐ、と手を握ると、乾燥し始めた部分が関節にそってひび割れた。そこに指を這わせてやると、盛り上がった泥がたちまち崩れ落ちた。その様子が妙に癖になってしまい、夢中で塊を弄んでいると、右肩をトントンと叩かれた。びっくりして振り返ると、後ろに並んでいたお下げ髪の女の子が「前、あいてるよ?」と親切に教えてくれた。いつの間にか順番が回ってきていたらしい。
あわてて一歩前に詰めたロナルドは、スモッグの裾をなるべく汚れないよう摘んで捲し上げた。泥まみれの小さな手の平に軽く水を馴染ませ、蛇口の管にぶら下がる、青いネットの中に入った黄色の固形石鹸をくるくると手の平で優しく撫でた。誰かが強い力で握ったのだろうか、網目からところてんのように押し出された石鹸を人差し指の腹でこそげ落として、泡と一緒に溶かしていく。この幼稚園で教わった手洗いの歌を口ずさみながら満遍なく洗っていくと、ふわっと柑橘類の良い香りが鼻に抜けた。最後にぬめりが無くなるまで水で洗い流して、色とりどりのタオルハンカチが掛けられたフックスタンドの中から、自分のものを探し当てる。バナナの輪切り柄だ。
「皆さん、綺麗に洗えましたか?」
このクラスの担任であるフクマ先生の声に、自分の手がどれだけ上手に洗えたのかを競う即興の自慢大会が始まった。おれの方がすごい、いやわたしの方が、と先生の周りには園児たちが群がっている。
一人一人丁寧に褒めていく先生に、ロナルドもその仲間に入れてほしいと手を挙げた。しかし、ちょうど目線に自分の手が映ったところで思いとどまった。綺麗になったはずの爪の間に、茶色い土が僅かに挟まっているのが見えたのだ。
そういえば、兄ちゃんに爪切ってもらっていないなあ——ロナルドはいつもより伸びた爪先を見ながら思った。ここ最近、仕事で忙しなくしている兄に子供ながらに遠慮をしていたせいで頼む機会を逃していたのだ。お風呂上がりに少し柔らかくなった爪を、後ろに座る兄に体重を預けながら切ってもらうのがロナルドは好きだった。パチン、パチン、と小気味良い音にうとうとしていると、かっこよくて優しくて大好きな声で、もう眠いのか、布団で寝ないと風邪引くじゃろ、なんて言われて。でも、もっと一緒に喋りたくて、大丈夫だって頑張って耐えるけど、やっぱり眠ってしまうのが日常茶飯事だった。うん。そうだ。今日は絶対頼もう。あと少しでお迎えの時間だから、忘れる前に言おう。そう思いながら、ワイワイと楽しそうな皆に背を向けたロナルドは、まだ誰も手を付けていないおもちゃ箱に駆けていった。
*
どれくらい遊んでいたのだろうか。だいたいの子は既に保護者が迎えに来ていて、今も扉の前で先生にまたねを告げて帰って行く。そんなやり取りを横目に、ソフビ退治人フィギュアを握り締めながらロナルドはゆっくりと立ち上がった。園庭に出るためのガラス扉に掛けられた、ペールトーンのカーテンを徐に捲ってみると、空は吸い込まれそうなくらいに黒々としていて、いつも見ている景色が全く違う場所のように思えてくる。
「せんせーっ、来たよー!」
男の子の声に我に返り、ロナルドはカーテンを勢いよく閉めて、不気味な外界から目を逸らした。
すっかり日の暮れたこの時間から続々と登園してくる園児たちにこぞって共通しているのは、皆、吸血鬼であることだ。この幼稚園は二十四時間体制で運営されており、日中は人間やダンピールの子を、夜間は吸血鬼の子を預かることになっている。勿論、家庭の事情もあって夜間まで預けられる人間の子もいる。ロナルドも、夜遅くまで兄が迎えに来れないことが度々あった。
種族は違えど、同じ歳の子供である。ブロックを積み上げて怪獣を作ったり、アイロンビーズでアクセサリーを作ったり、所定の時間になれば体育館でレクリエーションをすることだってある。どれもこれも、安全を考慮して外遊びが禁止されていることを除いては、人間の子供とさして変わらない保育内容だ。
吸血鬼の友達だって、すぐにできるだろう。そんなロナルドの考えは、初めて兄の迎えが遅くなった翌日に粉々に打ち砕かれたのだ。
勇気を振り絞って話し掛けたその子は、既に別の吸血鬼の子と友達であった。子供のコミュニュケーション能力は馬鹿にできないもので、嫌な顔ひとつせず、ごっこ遊びの仲間に入れてくれた。息を切らして迎えに来た兄に謝罪され、その子とは五分足らずでさよならを迎えてしまった。次の日、昨日より早く登園してきた同じ吸血鬼の子に、今日も兄が遅くなるかもしれないから一緒に遊びたいと伝えると、その子は昨日の様子から一変して、怪訝な顔で「は? お前、誰?」と言い放ったのだ。子供の忘却能力も馬鹿にできない。ロナルドの心は深く傷付いた。それ以来、吸血鬼の子には誰にも話し掛けることができずにいる。
辺りを見渡して、ロナルドは息を飲んだ。顔見知りの子が誰一人居ないではないか。途轍もない疎外感に苛まれたロナルドは、どうにかして気持ちを落ち着かせようと、おもちゃ置き場から離れた人のいないテーブルの隅っこの席に腰を下ろした。
「……兄ちゃん、まだかな」
ソフビ退治人フィギュアの腕を可動域ギリギリまで動かしながら、ロナルドはぽつりと呟いた。
「ロナルドくん」
「フクマ先生、どうしたの?」
「今、お兄さんからお電話がありまして、直接お話がしたいそうです」
フクマ先生はそう言うと、ロナルドに電話機の子機を差し出した。
「保留しているので、もう一度ここのボタンを押すと、お兄さんと話せますよ」
突然のサプライズに思わずロナルドの目が輝く。震える手で子機を受け取り、先生の言う通り保留のボタンを押してから、受話口に耳を押し当てた。
「……にいちゃん?」
*
テーブルに額を押し付けたまま早数分、ロナルドはただただ呆然としていた。
——すまんな、仕事が長引いてすぐ迎えに行けそうになくてな。できるだけ早く終わらせるから、良い子で待ってるんじゃぞ。
兄の声が何度も頭の中で反響する。できるだけって、どれくらいだ? もうじゅっぷんもたったのに、まだ待たなくちゃいけないのか? 周りの楽しげな声が聞こえる度にやるせない気持ちになり、ロナルドの目頭はじんわりと熱くなる。
「なぁ、吸血鬼退治人ごっこしようぜ」
「昨日の続き? どこまでやったか忘れちゃったよ」
悲しみに暮れ、涙がこぼれないようにひとり格闘しているロナルドの近くで、吸血鬼の男の子二人がフィギュアの詰められたおもちゃ箱をひっくり返し始めた。
「鬼の顔の吸血悪鬼と、筋肉ムキムキ退治人と、ニホンオッサンアシダチョウと……」
「あれ、ない!」
「ん? なにが?」
「退治人のフィギュア、あの、赤くてカッコいいやつがないよ!」
男の子は山のように積み重なったおもちゃを掻き分け、ひとつひとつ顔を見てはお目当てのフィギュアでないとわかると乱暴に箱の中に投げ入れていく。
「どっか落ちてんじゃないの」
「えーっ、だって昨日ちゃんとしまったよ?」
「あれだよ、お昼は人間の子が遊んでるから、その時になくしちゃったとか」
「いーや、絶対この部屋の中にあるはずだ!」
本棚の隙間やくずかご、おままごとの道具入れや椅子の下まで男の子たちはくまなく探したところで、はたと立ち止まった。視線はロナルドの手に握られたままのフィギュアに釘付けである。
「なあ、コイツが持ってた!」
男の子の声にロナルドはおずおずと顔を上げた。ぴんと尖った耳の先がひくひく動いている。まさか、一緒に遊ぼうってさそってくれるのか? 期待にロナルドの頬に朱が差す。
「使わねーなら返せよ」
「えっ」
「ひとりで何してんの? 遊ばねーなら片付けるって、先生いつも言ってるだろ」
そう言って、男の子はロナルドの手からフィギュアを無理矢理奪い取った。
「あっ!」
「なんだよ、文句でもあんのかよ」
「片付けねーやつが悪いんだかんな!」
男の子たちはフン、と鼻で笑うと、駆け足でその場から離れ、ロナルド抜きで楽しそうに遊び始めてしまった。
いつものロナルドなら、なにするんだ、それは俺のだぞ、ふざけるな、と、暴力に訴えてやり返せたはずなのだが、兄の件で心に深く傷を負っていたせいで、二重のショッキングな出来事に、ロナルドは口をあんぐりと開けたまま動かなくなってしまった。
表面張力でギリギリの所を保っていたが、ついに、ダムは決壊してしまった。
ぶわ、と涙が溢れ、頬を伝い、スモックにぽたぽたと染みを作っていく。悲しくて、悔しくて、寂しくて、どうしようもなくて、知らない子ばかりの中、大きい声で泣くことすら叶わない。
「あの、そこ、私のせきなんですけど」
「ワ゛ッ」
不意にかけられた声にびっくりして、ロナルドは椅子から転げ落ちそうになった。声のした方を向いてみると、そこにはこんもり積もった砂の山が鎮座していた。しばらくしてその山はうごうごと蠢いたあと、自分と同じ位の男の子の姿に戻った。
「もう、急におおきな声、ださないでください」
「えっ、えっ」
「そこ、私がいつもすわってるところなので、どいてください」
折り紙を持ったその子は、ロナルドを押しやると、何事もなかったかのようにそこに座った。ロナルドは仕方なく、その子の対面の席に座り直した。
「……はなみず」
「えっ」
「はなみず、でてます。かんだらどうですか」
尖った耳に赤い瞳をしたその子も、やはり吸血鬼なのだろう。青白い手で机の真ん中に置いてあったティッシュ箱をロナルドの前にスライドする。ロナルドはそれを受け取って言われた通りに鼻をかんだ。
変な奴だな。なんて名前なんだろう。そう思って、ロナルドは名札の名前を声に出して読んだ。
「ど、ら、るく……?」
「なんですか?」
「お、お前のなまえ」
「そうですよ、ろなるどくん」
「!」
机の下で、吸血鬼の男の子ドラルクの足が、ロナルドの足にトントンと当てられた。
ロナルドは意を決して話を続けた。
「……いつも何時にきてんの?」
「十九時くらい」
「おれいつも帰るのそれくらいだ」
「私は吸血鬼だから」
「朝はだめ?」
「うん、しんじゃう」
「しぬの」
「さっきみたいに、砂になるので」
「え、さっき、しんでたのか?」
「びっくりするとなります。あとは、痛いときとか、怖いときとか」
「でも生き返る?」
「さいせいのうりょく」
「さい……?」
「腕がとれて、砂になっても、くっつきます。これがさいせいのうりょく」
「スゲー!」
ロナルドの目にはいつの間にか光が取り戻されていた。この子と話すのは、とても楽しい。アルマジロの使い魔の話や、趣味で作るお菓子の話など、ドラルクの語り口にロナルドの興味は絶えなかった。
どれくらいの間喋っていたのだろう。時計を見るのも忘れて夢中になっていたロナルドの耳に、大好きな人の声が入ってきた。
「ロナルド、遅くなってすまんのー!」
「あ、兄ちゃん!」
ガタン、と勢いよく立ち上がり、膝の裏で椅子を蹴倒して、ロナルドは〝吸血鬼対策課の制服〟に身を包んだ兄、ヒヨシの胸に飛び込んだ。
「大人しくしとったか?」
「あのね、ずっとね、アイツと喋ってた! 吸血鬼のドラルク!」
「ほお、友達ができたんか」
「うん!」
「こんばんは、ロナルド君のお兄さん」
「こんばんは。うちのロナルドが世話になったな」
「ええ、さっきまで鼻たらしのぐずぐずに泣いていて、相手するのが大変でしたよ」
「ばっ、言うなよ!」
ロナルドはドラルクの告げ口に耳を赤くした。
フクマ先生とヒヨシが連絡事項など軽くやり取りをしている間、ロナルドとドラルクは手を振り合い、帰りの挨拶を交わしていた。
「また遊ぼうな!」
「はい、また」
こうしてロナルドはヒヨシに連れられ、帰宅となった。
*
「兄ちゃん、今日、爪切ってほしいんだ」
「爪?」
ロナルドはヒヨシに抱えられながら、すっかり暗くなった帰路を辿っていた。
「爪に砂が挟まっちゃって、それで、爪長いなって思って」
「そうか。じゃあ、風呂上がりにでも切ってやるか」
「うん!」
冷たい風が頬を撫でる。ふと、ヒヨシの白と青の制服の襟が視界に入り、ロナルドは眉をひそめた。
──兄ちゃんって、こんな服着てたっけ? もっと真っ赤で、ヒラヒラしていて、髪型も、もっと違っていたような……?
次の瞬間、ロナルドの意識は微睡みに包まれる。瞼が重い。目が、開かない。
「ロナルド?」
「すー…、すー……」
ロナルドはヒヨシの腕の中で、深い眠りに落ちた。
ヒヨシの向かった先は、新横浜警察署の仮眠室だった。ロナルドを起こさないように布団にそっと体を預け、掛け布団を胸元まで上げてやった。
「ふう、もう腰がバキバキじゃ……」
「お疲れ様です、隊長」
ヒヨシが振り向くと、そこには部下であるサギョウ、その後ろに同じく部下の半田の姿が見えた。
「退治人ロナルドの容態はどうですか?」
「特に異常なし、元気に五歳を謳歌しとった」
「馬鹿めロナルド、日頃の行いが祟ったんだな!」
「それは関係ないでしょ……」
サギョウはバインダーに挟まれた資料に目を通しながら、ツッコミを入れる。
資料には「作家編集者大量児童化事件」と記されていた。
(続きは執筆中!)