推す人生、推される人生 四月に田舎から上京して、ちょっと小慣れてきた頃。私は新しいパンプスを履いて、ドキドキしながら人でごった返す渋谷に繰り出した。気になるカフェがあったからだ。渋谷の人混みをお祭りかと思った、なんて言う人がよくいるけど、地元のお祭りなんかよりずっと人が多くて、ちょっと気持ち悪いくらいだ。
こんなにごった返しているのは、きっとアレのせいもあるだろう。人気アイドルのソロデビューを記念したどデカい広告。それを目当てにやって来ただろう女性ファンたちは、ぬいぐるみやらアクリルスタンドやら、それぞれ推しグッズを掲げてバシャバシャと写真に収めている。推し活ってやつだ。皆凄く楽しそうで、そういう対象がいない私はちょっと羨ましくも思った。
「すみませ〜ん」
周りの空気に浮かれて、ワクワクソワソワしつつ歩いていたら、突然真横から声を掛けられた。人が多すぎて一瞬自分だとは思わなかったけれど、しっかりと目が合った。いや、無理矢理合わされたという感じが近いかもしれない。
「え……っと?」
「こんにちは〜」
話しかけてきたのは私と同い年か、少し上くらい。二十代半ばを過ぎた辺りの男の人だった。十人中十人が第一印象はと聞かれて「チャラそう」と答えるような、そんな容姿の。だから返事をしてすぐ、しまったと思った。こういうのは無視が一番だと聞くけれど、いざその時になると頭が真っ白になってしまう。このまま素通りしようか、でも着いてきたら?私は初めてのことに混乱していた。そんなの知らないとばかりに、その男は話を続けてくる。
「お仕事、探してないですか?」
「えっ?」
意外な話の切り口に私は呆気に取られた。お仕事?学生と思われたんだろうか。
「えっと…探してないです…」
「学生さん?あ、新社会人かな?もうちょっと贅沢したいなーとか思わない?東京って地元より物価高いでしょ?」
ペラペラペラペラ……薄ら笑いを浮かべた口が延々と回るから、気圧されて固まってしまった。それを興味がある、と捉えられたのかそのままグンと距離を詰められた。周りの人間は誰も助けてはくれなくて、私はただただ怯えていた。
「で、俺はスカウト?的な?そんなことをやってる人間で、」
「あの、そういうのあんまり…興味なくて」
「あっ、みんな最初はそうだから〜」
彼が出してきたのはキャバクラかなにか、とにかく夜のお店の名刺だった。到底自分には出来ない仕事だと思ったし、今の職場は副業禁止だ。そう言って断ったのに、しつこく勧めてくる。走って逃げようかとも思ったけど、このとき私の足は靴擦れを起こしていた。こんなときに限って新しいパンプスを履いてきた自分を呪う。万事休す。そんな、絶望の淵に立たされていたとき。不意にポン、と肩を叩かれた。
「なにしてんの、こんなとこで」
その声に振り向けば、またもや、知らない男の人が立っていた。眩しいくらいの金髪頭に深くキャップを被り、薄暗いサングラスの向こうの猫目が私を真っ直ぐ射抜いている。そのあまりの眼力に思わず目を逸らしてしまった。しかし彼は、その強い目とは裏腹に快活な笑顔を向けてくる。
「いや〜偶然だなぁ〜」
「えっと…」
彼の身につけているものはどれも高級そう。なのに足元はフラッと出掛けてきた風のサンダルで、言っちゃ悪いがちょっと輩っぽい。正直スカウトを名乗る男の人より、こっちのお兄さんのが数倍怖く思えた。怪しい薬とか持ってそう。
「すんません、この子ツレなんです。怖がってるし、やめたげて」
「ね?」と柔らかな口調で言い、ごく自然に私とスカウトマンの間に体を割り込ませてきた。怖そうな人だと思ったけれど、それは顔がとんでもなく整っているせいでもあると、このとき気付く。そんな顔に至近距離で見つめられたら、誰だってたじろいてしまうだろう。それはスカウトマンも例外ではないらしかった。
「そっか〜じゃあ、引き止めてごめんね〜」
最後までヘラヘラと笑って、スカウトマンは次のターゲットを探しに行った。次はどうか、自力で逃げられる女の子でありますように。心の中で手を合わせる。そしてすぐ、金髪のお兄さんに向き直った。
「ありがとうございました!本当に、助かりました」
「いやいや〜大したことはしてないんで。あ、そうだコレ。よかったら使ってください」
「え……」
その手には黒い絆創膏が。絆創膏、なのに黒…?不思議な見た目をしたそれをまじまじと見つめてしまった。
「アハ、それあのアイドルのグッズなんすよ〜。ロゴがプリントされてんの」
「あ、あ〜…なるほど」
彼は例のドデカ看板を指差し笑った。今はこういうグッズも出てるのか。というか、この人もファンなんだ。あ、もしかして彼女さんの影響とかかも。だけどどうして、これを私に?
「靴擦れ、痛そうだから」
「えぇっ!どうしてそれ…!」
「あ、やっぱり靴擦れしてた?勘だったんだけど…あの男の人と喋ってるとき足気にしてたから、もしやと思って」
あ〜〜!怪しい薬持ってるとか思ってごめんなさい!お兄さんのご厚意を有難く受け取って、深々と頭を下げる。感謝と謝罪の意味を込めて。
「そんな大袈裟な」
「いえ、本当に助かります…!」
「そっか、よかった」
体を起こしながら、お兄さんを見上げる。そこで私は、あれ?と思った。凄く綺麗なこの顔を、私は知っている。会ったことはないけど、どこかで。
「あの、私あなたのことどこかで見た気が……」
「え?そう?う〜ん…色んな俳優さんに似てるってよく言われたりするからな〜」
「あ、そうなんですね…」
あまり腑には落ちないけれど、本人がそう言うんだからそうなんだろう。変なことを聞いてしまったな。恥ずかしくなって曖昧に笑った。
「あ、やべ。俺そろそろ仕事行かなきゃなんで…じゃ、お気をつけて」
「はい。色々とありがとうございました」
お兄さんはニコッと再び笑顔を見せると、スマホを耳に当てて足早に雑踏の中へと消えていった。「坂本さんスミマセン!」と電話口の誰かに謝る姿は、さっきまでの堂々とした格好いい彼とは別人のようで、ちょっと可愛らしく思った。あっちが彼の素なのかもしれない。
この広い東京で、もう会うことはないだろうな。でも私は一生、彼のことを忘れない。そう確信していた。
その日の夜。お風呂から上がった私は、生放送の音楽番組『オトステーション』をBGMにのんびりとリラックスタイムを過ごしていた。SNSを見たり、漫画を読んだり。するとテレビから一際大きな歓声が上がる。何事だと画面に目を向ければ、昼間渋谷で見た広告のアイドルだった。
『本日ソロデビュー曲を初披露!勢羽真冬さん、一言!』
『がんばりまーす』
軽く胸元で拳を作って、ふわっと柔らかく微笑む。たったそれだけなのに、ファンの人たちは失神するんじゃないかってくらいに叫んでいた。六文字で人を沸かせるなんて。恐るべし、人気アイドル。
その後番組はお馴染みのBGMと共にCMへ。SNSのトレンド欄は『オトステ』『マフユ』『真冬ちゃん』等々、軒並みこの番組関連のワードが連なっていた。『勢羽真冬』という名前は、芸能に疎い私でも知っている。たしか少し前に深夜帯のドラマで人気に火がついて、最近は映画やドラマに引っ張りだこな子だ。すごいなぁ、まだ若いのに…なんて思いながら興味もないCMを流し見する。
『今日もお疲れ様!ビール冷えてるよ!カンパイ!』
ゴクゴクと上下する喉仏が映されプハ〜と美味しそうに息を吐く。そんなありがちな演出だけど、私はそのCMに出演している俳優さんの顔を見てハッとした。
昼間助けてくれた人!!
間違いない。声がそのままだし、あの眩しすぎるほどの金髪だってそう。なにより目が。あの猫みたいな大きな目!!そっか、見覚えがあったのはCMかテレビで見かけたことがあったから。
「うそ…本当に芸能人じゃん…」
調べてみると、彼は坂本カンパニー所属の俳優朝倉シンだということが分かった。芸歴はそこそこ長く、なんとあの勢羽真冬との共演経験もある。意外な繋がりだ。そして今夏から始まるドラマでは主演を務めるみたい。絶対に観なくちゃ。
「まじか〜…」
絆創膏、使っちゃったよ…。朝倉シンから貰った貴重な絆創膏、惜しいことをした。そういえばあれは勢羽真冬のグッズだと言っていた。そりゃ共演していたんだから、持っててもおかしくないか。もしかしてまだ交流があるのかも。それをちゃんと持ち歩いて、しかも見ず知らずの人間にくれるなんて。私が朝倉シンのことを好きになるのは必然だった。
それから夜通し、彼について調べまくった。そして辿り着いたのは『朝倉シン公式ファンクラブ』。迷う余地はない。えいや!と月額三〇〇円(安い!)を払い、会員番号を手にする。今日、私の推し活人生が幕を開けた。
◯
「ただいま」
玄関に揃えて置かれたサンダルは俺が何回も言った功績だ。俺の「ただいま」の声に、大きな声が返ってくる。
「おかえり!お邪魔してまーす!」
リビングのソファーで寛いでいたのは、恋人のシンくん。俺もシンくんもそこそこ有名人だから、付き合ってるってのは二人だけの秘密。時々こうしてお互いの家を行き来してイチャついてる。
「観てくれてた?」
「あぁオトステ?観てたぜ!かっこよかった!あ、あとこれ、今日渋谷行って広告撮ってきた」
「まじかよ〜バレてないだろうな」
「多分大丈夫」
シンくんが見せてきたのは、渋谷に設置された俺の広告とのツーショット写真。でかすぎてシンくんは半分くらい見切れてるけど。一応変装はしてるとはいえ、この人はこうやって軽率に人混みに出没するから心配になる。
「やっぱお前がたくさんの人に応援してもらってるって思うとさ…俺嬉しくて…今日も歓声すごかったしなぁ…!」
「え、なに急に。年取って涙腺緩くなった?」
「うわ、生意気な奴」
そう言うシンくんの目はちょっと潤んでいた。シンくんは俺より俺のファンを大事に思っている。応援してもらえるって当たり前じゃないんだぞ!って、たまに説教されるし。どうでもいい人からそう言われたら聞き流していたかもしれない。でもシンくんは別。恋人としてはバカだなぁって思う時もあるけど、芸能界の後輩としての俺は朝倉シンという役者を尊敬している。言わないけどな〜。
「でもな〜凄いよ真冬は。人前に出るの苦手なのにソロも頑張って……偉い!!ヨ〜シヨシヨシ!」
「うわ!だるっ!うざっ!」
上機嫌で俺を撫で回すシンくんの手つきは、一見乱暴だけど優しくて温かい。アイドルを頑張ろうと思えるのは、こうやってシンくんにたくさん褒めてもらいたいから、だったりする。
「な〜シンくん明日オフでしょ?」
「久々にな。真冬は明日夕方からだっけ。それまで二人でゆっくり過ごそうぜ」
二人でゆっくり。その言葉に俺の胸は高鳴る。
思えば、こうして恋人同士の時間を過ごすのは本当に久しぶりだ。シンくんは少し前まで舞台をやっていて、それの稽古で多忙を極めてた。さらに主演ドラマが控えているから、そのセリフだって覚えなくちゃいけない。シンくんってセリフ覚えるのまじおせ〜んだ。おっさんだからか?俺は俺でずーっとソロ曲の振り練習、ボイトレ、振り練習、ボイトレ……。あ〜〜まじ死ぬかと思った。テレビや雑誌で顔は見るのに、会えない、触れない。寂しくて悲しかった。だから、ねぇ分かるでしょシンくん。少し顔を斜めにしたら、俺の望み通りに唇同士が触れる。シンくんって俺の考えてること全部分かってるみたい。唇が離れるのが惜しいけど、これからもっとすごいことするもんね。
「風呂、一緒に入ろ」
「俺泡風呂したい」
「シンくんガキだな〜」
「楽し〜だろ!」
仕事の疲れとか、初めてのソロ仕事の緊張とかが解れていく。ソロとかまじ無理って思ったけど、頑張って良かった。そう俺頑張ったんだよ、たくさん。だからシンくん癒して!俺がシンくん癒すからさ。