ガランにて「やったぜ おれたちが、解放軍が帝国軍をやぶった」
「……勝ったのか」
城塞の戦いを見守っていた青年の興奮を隠しきれないその声を受けて少年の口から発せられた静かな言葉に、マッシュは口の端だけで笑みを深めた。
解放軍、などとたいそうな名乗りをあげてはいるものの、実質各地の反乱組織をとりまとめゲリラ戦を展開するに留まっていた組織である。帝国の拠点の一つとはいえたかが関所を落とした程度の小さな戦果、だが解放組織にとってパンヌ・ヤクタの攻略に引き続くこの勝利はとてつもなく大きなものと映るだろう。
軍主として組織を率いての連勝を確信しながら、その声に喜色が見られないとは。少年の年齢ならば功名心に舞い上がっても不思議ではないというのに、なんともまあリーダーとして望ましい振る舞いではないか。
「…問題はここから、だな」
立案の際、奇襲だったら得意なんだが、とぼやいていたとは思えぬほど真っ当な指揮で複数の部隊をまとめ上げていた青年が、先ほどのいかにも勝利の興奮に酔ったような物言いから一転したひどく硬い表情を向けてくる。
「あいつらは勝利ってものに慣れてない。勢いだけで勝たせてくれるほど帝国はやわな相手じゃないぜ。…さて」
言葉を切り、挑むようにリーダーの少年を見据えるフリックの眼差しは声音に反してひどく静かだ。容赦のない低い声はその実的確に今後の懸念を指摘している。
「あのミルイヒ将軍相手に何の準備もなしに飛び込むほど、僕は馬鹿でも無謀でもない。ここで一旦軍を退く」
青年の挑発めいた物言いに対して憮然とした態度を隠す様子もなく、少年はきっぱりとそう言い切った。最後の結論を口にする際にマッシュの顔に視線を向けてきたのは愛嬌というべきか。その答えに対し深々とため息をついた青年に対して、わずかに顔をしかめるだけで済ませているあたり、シェントゥ・マクドールという少年は、帝国貴族の子弟としてはなかなか特異な精神性をしているのだが。果たして本人にその自覚があるのかどうか。
「異論があるのか」
「――大有りだ。今のおまえに連中を止められるだけのリーダーシップがあるとでも思ってるのか」
さすがに鼻白む気配を見せた少年に、青年はあきれたように肩を竦めさらに耳に痛い事実を突きつける。
「…っ、それは」
「収まらないだろ、あれは。見ろよ。ビクトールのやつめ、あいつまで無駄に士気を煽りやがる。ったく、あいつめ。どう収拾をつける気だよ」
敗戦をさとり戦意を喪失した帝国兵たちを我が物顔で拘束し着々と城塞を制圧していく兵たちにさらに檄を飛ばしていくビクトールの様子に胡乱な目を向けたフリックは一つ大きくかぶりを振り、それからまっすぐにマッシュを見据えた。
「まずは味方から、など、使い古された定石を申し上げるまでもないと判断してもよろしいですか?」
「撤退戦は、さんざん経験してるからな」
敵を騙すにはまず味方から。省略された定石に片眉だけを器用にあげて見せた青年に対して、言外の意を察した少年の喉が微かに鳴った。一瞬吹き上がりかけた少年の怒気は、しかし城塞の階段を駆け上ってくるパーンとグレミオの姿を認めた途端にきれいさっぱりと消失する。怒りの感情を消してのけた訳ではないだろう。自身の立場というものをよくわかっているその証左にマッシュは内心舌を巻く。あの娘は、オデッサは、まったくなんという人物を見いだしてのけたのだろう!
いつもと変わらぬ付き人の心配と勝利の勢いのまま主戦論を唱えるパーンに対して、少年もまた常と変わらぬ和らいだ、身内に見せる表情でその言葉をいなしている。
城塞に詰める解放軍の兵たちは、パーンとリーダーのやりとりを期待を込めて見守っている。リーダーの決意を、さらなる進撃を、決定的な勝利を我らに!
目交ぜはほんの一瞬。兵たちのその期待に応えようと少年が右手をあげたその瞬間を見計らい、マッシュは静かに制止の言葉を口にした。低く落ち着いたその声に、勝利に酔いしれたどよめきは水を打ったように静まりかえる。
相手の手の内がわからぬ状況で不用意に攻めるべきではない。文句のつけようのない正論は、だが勝利の熱狂に浮かされる大多数の兵たちに受け入れられようはずもない。偵察を出して様子を見る? そんな弱気でどうするのだ。オデッサ様の後継者ともあろうものが、まさかそんな提案など、真に受けてこの好機を逃すなど、そんな馬鹿馬鹿しいことなど認められる訳がない。
ガランの城塞の両端に集う群衆の視線が、城塞上に集中する。帝国を打ち倒す。勝利の酔いは、そんな奇跡のような願いさえ、すぐに手の届くかのように錯覚させる。逸る彼らへの対応を間違えれば、誕生したばかりの新生解放軍のもろい結束など、たちまちのうちに瓦解する。失望させるな、勝利を、栄光を与えろ、おまえたちはオデッサ様の後継者たり得るのか、その証拠を見せてみろ。リーダーの言葉を期待する短い、しかし恐るべき沈黙。少年は奥歯を噛みしめ、そして青年が一つ息を飲み込むと不敵に笑って一歩を踏み出す。
「いや! 敵は油断しているはず。ここは一気に攻めるべきだ! おい、みんなついて来い」
歓声が地を響もす。フリックの振り上げた抜き身の剣、オデッサの名を冠した刃が陽光をはじき返す。その声に応じるリーダーの、ことの成り行きへの憤怒を押さえ込む仮面の被りようときたら!
妹の作り上げた組織、それを託された少年の希有な有り様、そして妹の理念を最も理解するが故に何の見返りなど求めることもなく、汚名すら自ら被ってはばからぬ青年と。これらがそろえば、あるいはまさか。
イヤリングを手にした時に想起した、かつて夢見たものを思い起こす。彼らとともに帝国を打ち倒すことができるのであれば、理想の政治体制すらあるいは顕現させうることさえ出来るかもしれない。
約束された敗戦に向けて動き始めた軍を眺めながら、マッシュは密やかな興奮を覚えていた。