スイート・デート・エスコート 1デンジは学校で荷物を整理していた。
置き勉はもちろんしているが、何故かすぐカバンがパンパンになるのだ。
ガサゴソ出し入れしていたその拍子に、ポロリと家の鍵が落ちた。ボロボロのキーホルダーのついた、デンジの家の鍵である。
「デンジ君、そのキーホルダーって、大事なやつ?」
横から吉田が声をかけてきた。別に呼んでもいないのに、隣に座ってきたのだ。
勝手に話しかけてきているだけなので無視しても構わないが、このキーホルダーが大事なことは、否定したくなかった。
「ぁー…まぁ、これは大事。"思い出"だから」
デンジはボロボロのキーホルダーを見ながら、その"思い出"を思い返していた。
♦︎♢♦︎
その時、デンジはアキと恋人になったばかりであった。
一週間ほど前のことである。
あのアキが、突然告白して来たのだ。
デンジは心底びっくりしながらも、"まあ、アキならいっかあ"と思って告白をオーケーした。
そう。何故か軽くオーケーしてしまったのである。
デンジは特に、アキに恋愛感情なんか持っていないはずなのに。相手は、まあ顔は綺麗だとはいえ、正真正銘の野郎であるのにだ。
しかし付き合い始めても、アキの態度はそれほど変わらなかった。
一度だけ、パワーがいない時に隣に座っていたら、そっと手を握ってきただけである。大きな手が不意に自分の手を覆ってきたので、デンジは大層びっくりし、随分とドキドキしてしまった。
それ以来、デンジはずっとそわそわしているというのに……アキからの接触は、何もなかった。デンジはなんだか、拍子抜けしてしまっていた。
――なんか、意識してる俺の方が馬鹿みたいじゃね?向こうから告白してきたくせによぉ……。
そんな風にデンジがいじけ始めた頃に、初めて『お誘い』があったのだ。
「すいぞくかんって何じゃ!?サカナが食べ放題なのか!?!?」
夕食の後、アキとパワーとの3人で、いつも通りテレビを眺めていた時である。パワーが突然、元気な大声で叫んだ。
その時テレビでは、『最新!デートスポット特集』というコーナーをやっており、水族館の映像が映っていたのだ。
「あ?俺わかんねー!!行ったことねーもん。魚があんなにいるんだしよー、多分食えるんじゃねーのぉ?」
デンジは適当に答えた。デンジにとってみれば、この世界のほとんどが行ったことのない場所だ。もちろん水族館だって。動物園だって知らない。そりゃ名前くらいは知っているけれど、実際に行ったことがないのだから、少しのイメージも湧かなかった。
「……。水族館は、魚を食うところじゃねえ。魚を見るための場所だ」
座って本を読んでいたアキが、答えながら少し顔を起こす。一瞬その青い瞳と目が合ったので、デンジはドキリとした。
「見るだけ!?何じゃそれは!!意味がわからん!!」
「つーかお前、そんなに魚好きじゃねーだろ」
「マグロは好きじゃ!!!」
「ゼータクすぎんだろ!」
そんないつも通りの、何てことのない会話が続く。デンジは勿論、水族館の話はそれで終わったものと思っていた。
しかしデンジが、風呂を浴びてさあ眠ろうと部屋に行く時、アキがそっと呼び止めてきたのだ。
何かと思えば、アキは少し逡巡した後に白磁の目元を少しだけ赤く染めて、伺うように言ってきた。
「……行ったことねえんなら、行くか。水族館」
デンジは、その茜色の目をまん丸にした。
「…………えっ」
アキの顔に少し不安の影が差したので、デンジは慌てて答えた。
「行く。行く行く!すげ〜行く!!」
するとアキの顔は、あからさまにほっとしたものに変わった。
「じゃあ、土曜日でいいか?」
「お〜〜、いいぜ!」
デンジはつとめて、いつも通りに振る舞った。待ち合わせなどについて、いくつかのことをアキと話し合う。
そうして話を終えた後、自分の部屋のドアをバタンと閉めてから――デンジはものすごい勢いで、両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。
――これって……デートじゃね……!?!?
心臓がばくばく大音響を放っている。アキ相手なのにこんなに緊張する意味が、デンジには自分でもわからなかった。
それから、土曜日までの三日間。
デンジは普段より数割増しでそわそわしてしまい、眠りがとても浅かった。
――何着てったらいいんだ?何か俺、準備することあんのか?わかんねぇ……!!
何せデンジは、デートなんてほとんどしたことがない。人生で唯一のそういう経験は、マキマと映画を見に行ったくらいだ。水族館だって初めてであるが、そもそもデンジにとって、世界は初めてのものばかりで溢れかえっている。
どうしたら良いのか決めかねるうち、あっという間に土曜日がやってきてしまった。
デンジは待ち合わせ場所に向かいながら、自分の格好を確認していた。
あんまり気合いを入れすぎて空回るのも恥ずかしかったし、悩んだ挙句、結局普段よく着ている私服にした。
シンプルな白シャツ、ベージュのセーターに、ジーンズとスニーカー。季節は冬であり寒いので、上からカーキのモッズコートを羽織った。
何を隠そう……全部、アキに買ってもらった服である。
だってデンジには、服を買う習慣なんてなかったのだ。着替えなんて要らないし、ボロボロになっても構わない。着られさえすれば、何度でも洗って使えば良いと思っていた。
なんたってデンジは、ゴミ箱を漁って見つけた服を毎日着続けるような、そんな生活を長らく送ってきたのだから。
アキは、そんなデンジを見かねて何度か苦言を呈してきた。「もったいね〜し」と言って突っぱねていると、定期的に服屋に強制連行されるようになった。勿論、これは恋人になる前の話である。
しっかり者のアキは、必ずきちんと試着をしてから服を購入するタイプであった。そのため、デンジも毎回それに付き合わされた。アキが数着服を真剣に見繕って、着てみるように促して来るのである。そんなところまで、アキは真面目だった。
デンジは誰かに服を選んでもらったことなんかなかったので、少しくすぐったかった。結局特に文句も言わず、黙ってそれに従った。アキが良いと言ったものをデンジが買うこともあれば、買ってもらえることもあった。いや……結局大部分は、アキが買ってくれていたと思う。デンジが購入を迷うと、「じゃあ俺が払う」とさっさとレジに持って行ってしまうのだ。
デンジはアキが「似合う」と言えば、それを疑うことはなかった。試着して褒められた服は、そのままデンジのお気に入りになった。女にモテるアキが選んだ服を着ていれば、俺もモテるかも、という下心もあった。
デンジはそんな経緯のある自分の服装を眺めて、急激に不安になった。アキに買ってもらった服じゃなくて、自分で選んでちゃんとおしゃれをした方が良かったのではないかと。でも、デンジには服を選ぶセンスなんてない。
待ち合わせ場所まで歩くうちに、デンジは悶々と考え続けた。
――つ〜か何で、待ち合わせなんだ?家から一緒に出れば良くね?
――そもそも俺は、何でこんなに緊張してんだよ。相手はアキなんだぞ。毎日一緒にいんじゃねーか。
――そうだ!相手はあのアキだ。どうせ、いつも通りだろ。スーパーに買い物に行くのと変わんねえ。だって、付き合っても俺たち全然変わんねーし。パワーも、アキのことを「ボクネンジン」って言ってたしな!!
デンジはだんだん、開き直ってきた。アキが『デンジとのデート』に気合いを入れて来るイメージが、全く湧かなかったのである。
そう考えると、自分ばかり緊張するのも馬鹿らしくなり、ポケットに手を突っ込んでダラダラと待ち合わせ場所まで歩いた。
しかし、待ち合わせ場所の駅の噴水前に近づいて――デンジは、呆気に取られることになる。
そこには、もうアキが待っていた。
アキはハイネックの黒いセーターに、同色のジャケットを合わせていた。そしてその上から、千鳥格子柄のトラッドなコートを羽織っていた。下は黒のスキニージーンズに、ごつめのマウンテンブーツ。普段、全然見たことのない服装だ。しかもアキはその宵闇の髪を、さらりと肩に下ろしていた。
文庫本を片手に、噴水前に佇んでいるアキは――あまりにも、絵になりすぎていた。
駅前の喧騒の中で、そのオーラは完全に浮いている。
「きゃ!あの人めっちゃ格好良くない?」
「ほんとだぁ!!やばい〜!!」
「待ち合わせ中かな?声かけてみる?」
「無理でしょ、どうせ彼女待ちだって」
黄色い悲鳴が、デンジの耳にまで届いて来る。行き交う女性陣の視線を、アキが掻っ攫っているのがわかった。
――え。やばいやばい。え、俺今からアレとデートすんの?
デンジがそう、怖気付いた瞬間である。アキがパッと顔を上げ、「デンジ!」と嬉しそうな声を出した。
狼狽えるうちに、アキはその長い足であっという間にデンジの元に辿り着く。
そしてあろうことか、なんと。
ぎゅっ。
アキはデンジの手を取り、指を絡めて握り込んだ。
いわゆる"恋人繋ぎ"である。
「おぉア!?」
キャーッと周囲から小さな悲鳴が漏れる中、デンジは素っ頓狂な声を上げた。頬が一気に熱を帯びる。だってこんな事態、全く想定していなかった。
アキは小さく笑って、話し始めた。
「早く着きすぎて、待ちくたびれた」
「お……おぁー。そうなんだあ……」
デンジはもう、処理落ちしていた。ふわふわとした頭のまま、なんとか受け答えしている状態だ。
しかし、アキは容赦なくデンジに顔を近づけて、熱を帯びた声で囁いた。
「楽しみだった……すごく」
――誰だよ、これ。
デンジは愕然とした。
何が『相手はあのアキ』だ。全然ちげーじゃねーか!誰だよそんなこと言ったの。……俺だよ!!
デンジの脳内は、もはや混乱状態を極めていた。何も答えない自分に気を悪くするでもなく、アキは至極楽しそうにその様子を眺めている。その表情すら、普段とはまるで違った。
何というか……あれだ。甘い、のだ。
――お、俺……これからどうなんの……!?
待ち合わせ場所で、既にデンジはいっぱいいっぱいだった。
林檎のように真っ赤に染まった顔を、ただ俯かせることしか、できなかったのである。