うたかたの夢「何故ここにいるのですか?」
唐突に声を掛けられ、思わず、え、と声が出た。
――――つもりだったが、音にはなっていないらしく周囲はしんと静まりかえったままである。
「何故ここに、あなたがいるのですか?」
再度問い掛けられ、気付いた。
声は、背後からかけられているということに。
相手を確認しようと身を捩るが、出来ない。
そもそも、自分には背中がなかった。
背中どころか、手も足も見えない。
見えているつもりが、目もないことに気づいた。
見えないのに、存在は感じている。
あまりに不思議な感覚に、戸惑いを隠せなかった。
「あなたは、忘れてしまったはずなのに」
背後、というのか、後方から聞こえてくる声の主も戸惑っているようだった。
相手の言う『ここ』がどこなのか気になったが、まずは声が出せなければ問答も成立しない。
とにかく声を出そう、と意識した。
すると、唐突に唇の感覚が現れる。
「あなたのいう『ここ』とは、どこですか?」
「『ここ』は、『ここ』です。今、あなたがいるこの場所です」
「あなたにはこの場所が見えているのですか?」
「…?どういうことでしょう?」
「俺には見えない。ここがどこなのか、どんな場所なのか」
「…なるほど。そういうことですか」
声の主は合点がいったというように、そっと『俺』に触れた。
輪郭すら曖昧ではあるが、触れられた感覚があった。
言葉を発しながら、ああそうだ、俺は『俺』だったことを思い出す。
顔の輪郭を感じた。
「言葉と同じです。見ようとして、見てみて下さい」
俺は言われるまま、見ることを強く意識した。
「失ったものは、意識をしないと駄目なようです」
ああそうか、と俺は納得する。
俺はかつて、目を、瞳を失ったのだったと。
随分と長い時間、使うこともなくなっていたので忘れていた。
一体いつから俺はこの場所にこうしていたのだろうか。
瞼の存在を感じつつ、俺は瞼を開くことに意識を集中した。
目に光が飛び込んでくる。
「……明るい…眩しい…青い…」
眼前に広がっているのは、海のようであり、空のようでもあった。
足元を見ると、船のような何かに乗っている。
俺は、自分があぐらをかいて座っていることに気付いた。
船のようなそれは、水とも空気とも思える何かに浮かんでいる。
「ここは…一体……」
「あなたには、ここがそのように見えるのですね」
背後からの声にハッとして振り向くと、首、肩、背中の輪郭を感じた。
「………?」
「どうかなさいましたか?」
振り向いた先、確かに声はする。
存在も感じるのに、見えなかった。
触れてみようと、手を伸ばす。
己の手の輪郭がはっきりと見えた。
「……ない」
手を伸ばした先には、何もなかった。
確かにあるはずなのに、ない。
その上、俺の手は驚くほど小さく幼かった。
「……温かい?」
触れることが出来なかったはずなのに、手のひらに体温のようなものを感じる。
「今、触れております。感じることが出来たのですね」
良かった、と言う相手が何故か微笑んだように感じた。
姿は相変わらず見えない。
「……こんなに小さくては、触れることすら叶わないのか」
「いいえ、そんなことはないはずですよ」
「見えもしないのに、ですか?」
「まだ、心から見たいとは思えていないのかも知れませんね」
思っている、とは言い切れなかった。
説明できない感情が胸にある。
見ようと意識すると、その感情が引っ掛かって目を逸らしてしまうのを自分でも感じていた。
気付けば手のひらも、甲も温かい。
両手で包まれているのだと理解した。
「この船は、何処へ向かっているのですか?俺には進んでいるのか、留まっているのかも分からない」
「今はまだ、留まっているようです」
「このまま泊まったままなのでしょうか」
「それは私にも分かりません」
言われてハッとする。
会話の相手は『彼』なのだと。
気付いた途端、相手の指先の輪郭を感じた。
温度を感じるまま、手のひらを滑らせてみる。
触れる箇所から少しずつ、相手の輪郭が現れていった。
衣服が現れると、虚しい感情が胸を締めつけ始める。
相手の服装を見て、まるで喪服のようだと思った。
「俺は…あなたの着る服はこれしか知らない」
「私もそうです。私の知っているあなたの姿は、その服装しかなくて…」
相手がそうであるように、気がつけば自分の服装も見えていた。
紺地に、袖には金の三本線が縫い付けられた服を身に着けている。
先ほどまで幼く小さかったはずの手は、大きく分厚い手に変わっていた。
大人の、男の手だった。
「大きければいい……というものでもないな。小さかろうが、大きかろうが……」
これは人殺しの手だ。
その言葉が頭に浮かんだところで、ぴたりと手が止まってしまう。
目の前の存在に触れていることが急に恐ろしくなったのだ。
「大丈夫。怖くありません」
「そんなはずないだろう。俺は…俺のこの手は……」
「私は知っているから、大丈夫なのです」
「知っている…だと?何を…」
目の前の相手を見れば、きちんと正座をしているのが見える。
こんなにもあやふやで訳の分からない場所でまで、生真面目なやつだと呆れてしまった。
「足が痛くはないのですか?」
「はい。あなたからお借りしたブーツは脱いでおりますので」
「そうですか…もう履いてはいないのか……」
「はい、でも…きちんとここに仕舞っております」
言いながら、『彼』は自分の胸に両手を重ねて置いてみせる。
「大切なものはすべて、ここに仕舞っているのです」
「大切なもの……」
「ですから、大丈夫。私は知っています。あなたが生きたほんの一部ですが…それに後悔も…」
『彼』の胸元から上の輪郭が徐々に現れていく。
上品な微笑みを湛えた唇が見えた。
「あなたの手は、たくさんのものを奪いました。けれど、与えても下さった」
「与え…た?」
『彼』の言葉に困惑する。
奪いはしても、与えた覚えなどはない。
いつだって自分は、『彼』から奪ってばかりだった。
「それに、私もたくさんのものを奪いました。自ら手を汚さなくとも、結果的であっても…たくさん…奪った…」
スッと通った綺麗な鼻筋が現れる。
「けれど、私は後悔はしておりません」
「……後悔はないのですか?」
「ええ。私はよく考え、悩み、その上で選択致しました。その先で私の身に何が起ころうとそれは私の責任です。責任を負う覚悟もとうに出来ておりました」
『彼』の言葉が耳に痛かった。
あの若さであれほどの重責を負わされ、他人の命を背負い、また己の命を危険に晒してまで役目を全うしようとしたのに、理不尽に殺された。
それでもなお、この男はさらりと清々しい言葉を吐くのである。
「あなたはやはり…ご立派ですな。俺とは違う…」
「…いいえ、そんなことはありません」
謙遜かと思い、皮肉のひとつも言ってやろうかと顔を上げれば悲哀に満ちた瞳と視線がぶつかる。
深い憂いを帯びたその顔に、俺は何も言えなかった。
「私にも、後悔がひとつだけ」
若者らしく潤んだ大きな瞳が揺れる。
泣いているのかと思ったが、涙は流れていなかった。
「幼い頃からずっと、兄弟姉妹というものに憧れておりました。兄弟姉妹をもつ同級生たちから聞く話はどれも、ひとりっ子の私にとってはとても眩しく、また、羨ましかった」
『彼』は懐かしむような目をしながら、俺から視線を外す。
「兄とは、姉とはどんなに頼もしい存在なのだろう。弟とは、妹とはどんなにかわいい存在なのだろう。想像することしか出来ない私でしたが、存在しない彼らのことを考えると何やら嬉しい気持ちになることが出来ました」
ふと、目の前の俺に視線が戻された。
「とはいえ、やはり本物には敵いません」
穏やかに微笑みながらはにかむ彼を見て、胸の奥が疼く。
「私に、異母兄がいると知ったときの私といったら本当に浮かれてしまって…地面から常にふわふわと浮かんでいるような気持ちでした」
頬を紅潮させて嬉しそうに話す彼が、眩しかった。
本心からそう思っていたのだろう、この男は。
今となっては疑う余地もない。
しかしその眩しさはかつての俺にとっては目の毒だった。
「でも」
唐突に、『彼』が声を曇らせる。
先ほどまで溌剌としていた表情にも、影がさしていた。
「浮かれてばかりの私は、過ちを犯しました」
唇が強く噛み締められ、美しい形が歪んでしまう。
『彼』のひどく辛そうな表情を見るのは『あの日』以来だった。
「間違いに気づいたのは、戦場に行ってから…です。それまで私は思い至りもせず、ただただ純粋にあなたを『兄様』と呼んでおりました。ずっと。出会ってからずっと、です。私は兄弟が欲しかったから。けれど…あなたはそうではありませんよね。あなたは、きっと、望んではいなかった。私の『兄』になることを」
『彼』の顔が苦しそうに歪む。
「私の過ちは、あなたに私の『兄』を押しつけてしまったことです」
『彼』の言葉の意味が理解できず、俺は一瞬ポカンとしてしまった。
「私があなたを『兄様』と呼ぶたび、あなたにとって呪いになったのではないかと…そう思うのです。あなたは『兄』としての振る舞いを強いられたかもしれない。苦痛があったかもしれない。あなたが軍に入隊されたのは私の『兄』になるためではない。それなのに…」
『彼』の言葉に驚きを隠せない。
てっきり、俺などを『兄』として慕ってしまったことを後悔しているのだと、そう言われるのだと思っていた。
(なのにこいつは、)
この期に及んでまだ己を責めている。
俺の行動が、態度が、仕打ちが、自分に原因があるためだと思っているとは。
「……とんだ大馬鹿野郎ですよ、俺の異母弟殿は」
「え、」
驚いて目を丸くする『弟』の顔を見て、らしくもなく笑いが込み上げる。
「あなたは……そんな顔でしたね、勇作殿」
頬に触れ、真っすぐに見つめれば、はっとした表情をして目を逸らした。
顔を真っ赤に染めてはいるが、手を振り払ったりはしない。
それをいいことに、俺は無遠慮に耳たぶや顎に触れる。
更には帽子をずらして、形のいい坊主頭を両手で撫でまわした。
「似ているところはあるのか…分からんな。俺には何もかもが違うように見える」
「どうでしょう…私にも分かりません」
困ったように眉尻を下げているのに、抵抗はしない。
あの頃はこういう初心な態度が鼻についたが、今では気分がいいとさえ思えた。
「……確かに、規律が乱れますという俺の言葉に耳を貸して下さらない時には随分と辟易したもんですが」
「……申し訳ありません…本当に嬉しかったものですから……それに、あなたと可能な限りたくさん、共にいようと決めていたので」
「ほう…それは何故ですか?」
「お互い、いつ死んでしまうかも分からない命だからです。特に私は、前線に出ることは決まっておりましたので…」
言いながら勇作は複雑そうな表情で微笑んでみせる。
「たくさんお話いたしました。あなたはあまりご自分のことを話して下さいませんでしたが、私の話に耳を傾けて下さいました」
「俺はそもそも、口数が多くない方ですので」
「ふふ…話すのがお好きでないのは何となく察しておりました。申し訳ありません」
「しかも取り留めのない、毒にも薬にもならないような話題ばかりだったでしょう」
「それでも、覚えていて下さった。…ですよね?」
勇作がそう言った途端、彼の足元に黄金色の絨毯が広がった。
そこで俺は初めて、勇作が湖岸のようなところに座っていることに気付く。
「私がお話した、私の好きなものや大切なもの。他愛のない天気の話を」
よく見れば絨毯ではない。
鮮やかな黄色い花が密集して咲いていた。
散ってしまったのか、花弁が波の間にゆらゆらと揺れている。
(あの花は、)
何という名前だったか。
「そちらは、あなたの大切なものですね」
勇作の目線の先を見れば、俺の足元にいつの間にか相棒が横たわっていた。
「銃の腕がいいと評判のあなたは、私の憧れで、誇りでした」
「俺には…これしかなかった。欲しいものはこれさえあれば手に入ると…そう思って腕を磨いていたから」
「手に入ったものもあったでしょう?」
「…かもしれない」
足元の銃を手のひらで撫でる。
「だが、本当に欲しいものは手に入れることが出来なかった」
この銃で奪ったものは、遂に俺の手に入ることはなかった。
それどころか、永遠に失ってしまったのだから。
「あなたも俺も死んだはずです。であればここは…地獄ですか?」
「地獄などではありませんよ」
(そうか、)
俺はともかく、勇作が地獄にいるはずはない。
「では一体…」
「ここは、あなたの夢の中…のような場所です」
「……馬鹿な。これほど」
これほど美しいのに、と。
心底驚いた。
生前の俺の見る夢は、悪夢ばかりだった。
生きているうちに、これほど美しい景色を見たことがあっただろうか。
「美しいですね」
「…ああ、本当に…」
ふと、勇作がそばにいるからだろうか、とそんなことを思った。
「あなたがここにいるということは、あなたが私を…後悔を忘れないで下さったということです」
勇作を見ると、いつの間にかブーツを履いて立ち上がっている。
履いているのは、俺がかつて貸し与えたものだった。
「思い出して下さって、ありがとうございます」
ゆっくりと、船が動き出す。
「……勇作殿、俺はあなたが俺を呼ぶ『それ』自体…嫌ではなかった」
「……え、」
「ただ少し、気後れした。どう反応をすればいいのか分からなかった」
湖岸のような場所から、船が離れていく。
俺だけを乗せて、静かに、しかし確実に。
「おまえに愛された証ともいえる『それ』は、俺にとって大切なものだ」
勇作が遠のいていく。
俺に愛をくれた、たった一人の弟が。
手を伸ばそうと必死にもがくが、足はぴくりとも動かなかった。
まるで根が生えたように船にはりついていて、浮かせることすら出来ない。
(ふざけるな…ッ)
やっと気づけた。
やっと気づくことが出来たのに。
長い時間をかけてやっと向き合うことが出来たというのに、また失うのか。
絶望的な気持ちになり、視線を足元に落としそうになる。
「兄様ぁーっ!」
暗雲を散らすほど明るい声に、弾かれるように顔を上げた。
「たくさんお話をしましょうー!兄様のこと、たくさん教えてください!」
勇作が笑っている。
まるで幼子のように、兄を慕う弟の、屈託のない表情で。
俺に向かって、笑顔で手を振っていた。
「勇作…」
「兄様の好きなもの、嫌いなもの、なんでもいい…!あなたのことを…っ」
「ああ」
「またお逢い出来たら…その時は…」
勇作の声がぐっと詰まる。
泣いているのかも知れない。
涙を拭ってやりたいのに、こんなに離れてしまってはそれももう叶わない。
「その手を、私に向かって伸ばして下さい」
「…ッ必ずそうする。精一杯、おまえに手を伸ばす。今度は俺からおまえに…」
「きっとですよ」
もう顔も見えないくらいに離れているのに、不思議と声だけははっきりと聞こえる。
お互いに、相手に声が届くようにと思い合っているからなのだろう。
先ほどまで青く美しかった景色が、急にぼやけて真っ暗になる。
「どうぞお先に。お気をつけていってらっしゃいませ、兄様」
勇作の声だけが、鮮やかに脳内に響いた。
「ゆうさく」
「百之助!!」
気付くと俺は、母の腕の中にいた。
かつての母ではない。
今生で、俺を産み育ててくれたひとである。
俺は現在、7つになったばかりの子どもだった。
この日俺は母と共に、母の実家のそばにある神社に遊びに来ていた。
境内で催される春の祭りに参加するためである。
祭りの出店のひとつに射的を見つけた俺が「やってみたい」と言ったので、母は代金を支払い、そばで様子を見ていたのだそうだ。
ところが引き金に指をかけた途端、俺はふっと意識を失ったらしい。
母は慌てて駆け寄り声をかけた。
しかし、どれだけ声をかけようが目を覚まさなかったので、救急車を呼ぼうとした。
その直後、俺が目を覚ましたのだという。
ほんの数分の出来事だったと、母は俺に話してくれた。
祭りの夜から数日間、俺は高熱を出し寝込むことになる。
かつての俺の記憶が、幼い脳みそに一気に注がれたのだから当然だろう。
だが、今生の俺の脳はよくやった。
数日後に熱が下がった頃には、今生と前の生の記憶がちょうどいい塩梅に混ざり合って『俺』と成っていた。
身体の調子を取り戻した俺は、早速今生で勇作を探した。
因みに現在の俺に『弟』はいない。
あの日、勇作と話した記憶も、夢か現か幻か。
それすら俺には分からなかった。
ただの都合のいい夢なのかもしれない。
冷静に考えれば、勇作が俺の想いを知るはずがないのだから。
ただ、探さずにはいられなかった。
どうしても、もう一度逢いたい。
顔が見たい。
声が聞きたい。
またあの屈託のない笑顔を、俺に向けて欲しかった。
大人の記憶や感情はあっても、現代において俺はただの子どもである。
現代の知識については年相応。
若しくは、年齢よりは少し詳しい程度だった。
勇作を探すには、手掛かりが無さ過ぎる。
まだ生まれていない可能性だって大いにあった。
これから先、生まれてくるのかどうかの保証もどこにもないのだから。
焦る気持ちとは裏腹に、時間だけが経過していく。
(あるいは、)
これもまた俺に課せられた罰なのかも知れない。
(だとすれば、てきめんだな)
勇作のいない世界は、今の俺にとって絶望でしかないからだ。
どれほど家族に愛され、どんなに平和な世であっても、それに何の意味があるというのか。
勇作がいない。
それだけで何もかもが、無意味で無価値なものに思える。
勇作だけが、俺にこの世での意味と価値を与えてくれるのだから。
(あいつが欠けた世界で、俺に幸福などあるものか)
だから、諦めるわけにいかない。
会わなければ。
必ず会って、確かめなければならない。
あの虚ろな、己の存在すらあやふやな世界で感じた温もりの正体を。
あれは俺だけのものだ。
あの温もりは。あの感情は。
確かに触れた。確かに存在した。
今度は手放さない。
絶対に失敗しない。
忘れたりしない。
「だからもう一度、その声で俺を呼んでくれ…」
今夜もまた、俺はひとり瞼を閉じる。
夜が明ければ。
明日になれば、勇作に必ず会えるのだと、それだけを信じて。
続