学問なき経験は経験なき学問に勝る
土方歳三は、決して寡黙な男などではない。
血の気が多い連中が集う隊内で、統制の為に敢えてそのように振舞う場面はあった。
鬼の副長、と呼ばれ恐れられた時代もある。
だが、常日頃から気難しい表情をしたまま過ごしていたのかというとそうではない。
基本的には話好きな、気のいい男であった。
しかし、そんな土方が今は完全に沈黙している。
何故か。
様子を見、考えているのだ。
土方をそうさせている原因は、目の前に座っている客である。
この客は15分ほど前に土方がオーナー兼バーテンダーを務める店を訪れ、強めの酒を注文した。
いつもは注文しない酒である。
内心首を捻りつつも注文のまま酒を提供すると、客はグラスを掴むなり一気に酒を呷った。
アルコール度数が決して低くはないその酒を更に追加注文し、また呷る。
酒を愉しんでいる様子は一切ない。
何かを飲み下そうと自棄酒を煽っているようだった。
少なくとも、土方にはそう見えている。
客は、土方の顔見知りの男だ。
顔見知り、といっても今生ではない。
前の生で、土方が網走監獄を脱走し金塊争奪戦に参加した際に関わった。
加えて何の因果か、前の生の記憶をお互い有している。
土方が今生で老年を迎えた頃、道楽で始めたこの店に男は客としてふらりと現れた。
それが数か月前の出来事だが、それからというもの男はちょくちょくこの店を訪れている。
土方は話好きな男だが、聞き上手でもあった。
年の功、ともいえるのだろうが、昔必要があって磨いた技術でもある。
相槌が絶妙で、間も巧みであり、返す言葉も面白い。
相手は気持ちよくなり、気付けば色んなことを話してしまうのだ。
聞き上手なうえに、見目麗しい白髪の紳士が接客してくれるとあって店はいつも賑わっている。
男女比は、4:6といったところだ。
例に漏れず、この男もほろ酔いになるといつも土方に自分の話をぶちまけていた。
そして気が済むと、さっさと家へと帰って行く。
男の話す内容はほぼ、彼の異母弟に関することだった。
土方から尋ねたことは一度もない。
ただ男が勝手に喋るものだから、今や男の家族構成から繊細な事情に至るまでかなり詳しくなってしまった。
(今生でも、)
素直になれない、厄介な性分なのだと土方は男のことを分析している。
前の生でも男はそういう性分であった。
三杯目の酒を一気に呷った辺りで、土方は漸く口を開いた。
「オガタ、おまえが初手から配分を見誤るなど珍しいこともあるものだな」
土方は『オガタ』と呼んだが、今生での男の姓は異なっている。
そんなことは承知の上で、敢えて土方は馴染みのある方の『オガタ』と呼んでいた。
「……俺がどう呑もうがおまえの知ったことじゃないだろうが」
「ああ、構わんとも。だが、客に急性アル中で倒れられては困るのでな」
土方の言葉に、オガタは言語化出来ぬ呻き声のようなものを上げ、カウンターテーブルにグラスを置いた。
「自棄酒を煽るには、俺の店の酒は業物過ぎるだろう」
「……だったら別の店に行く」
「やめておけ。安酒でどうにか出来る気分なのか?」
「うるせェな」
聞いて欲しくてわざわざこの店を訪れたのだろうに、と土方は心の中で苦笑する。
このオガタという男は全く変わらない。
前の生から、扱いにコツが必要な男だった。
土方はオガタの扱いを充分に心得ている。
それでも、一度死してなお変わらぬその性分には少々呆れていた。
ただそんなオガタも、前の生では見せることのなかった『男の顔』を時折垣間見せるようになっていた。
異母弟の話をする時はいつもその顔をする。
そして今まさに、オガタは『男の顔』をしていた。
なので、今回オガタが荒れている原因も『異母弟関連』ではないかと土方は推察している。
「勇作君と、何かあったか」
「……その名を口にするな」
当たりだな、と土方は常温の水が入ったグラスをテーブル上に置きながら言った。
グラスの水を忌々し気にじっと見つめて、オガタはぽつりと呟く。
「言い争い…を、した」
「口喧嘩か?珍しいな」
蚊の鳴くほど小さな声であったが、土方の耳は聞き逃さなかった。
今まで異母弟の話は何度となく聞いているが、喧嘩をしたという話は初めてである。
口も性格にも難ありであるオガタはともかく、話の中の『勇作』という青年は大変穏やかな好人物だった。
そのため、喧嘩に発展するなど珍しいと土方は思ったのである。
また、何が起こったのかについても強く興味を引かれていた。
「そうだ。珍しい…いつも笑って話を流してくれる。あいつは俺を愛しているからな。だというのに、珍しく…腹を立てていた」
「一体何をしたんだ?」
「何もしてない」
「何もされていないのに腹を立てるような人間なのか、おまえの弟は」
土方の言葉に、『オガタ』はまた言語化不能な呻き声を上げる。
「……あいつが俺を無視するから」
「無視…?」
「そうだ。俺が居るのにずっと携帯で誰かと話していた。俺が名を呼んでも視線も寄越さずに…ッ」
勢いよくそこまで話すと、オガタはグラスの水を一気に呷った。
「……あいつが誰と仲が良かろうがあいつの勝手だ。だが、俺と居る時は俺を…俺だけを見るべきだろう」
「話していたというのは……通話か?」
「通話じゃない」
「文字を打っていたのか」
「そうだ」
「そのくらい許容してやったらどうだ。何か急ぎの返信が必要だったかも知れんだろう」
「知らん。会話の相手を罵ってやったらあいつは俺と口を聞かなくなったからな」
土方は密かに『勇作』に同情する。
『勇作』とは同居中だと聞いているし、オガタの話から察するに家にいる殆どの時間を彼らは共に過ごしているのだろう。
恐らく『勇作』が携帯に集中したのもそれほど長い時間ではないはずである。
それなのに、友人を罵倒されたのだから。
(勇作君が腹を立てるのも当然だろうな)
内心呆れつつも、土方はオガタに話の続きを促した。
「…で、おまえはその後どうしたんだ?」
「どうもしない」
「勇作君は?」
「あいつは…それからずっと俺と口を聞かない」
「惚れた相手にそれをされると堪えるだろう?」
「勇作が?」
「おまえが、だ」
静かに言うと、土方はヴァンショーを注いだカップをテーブルに置く。
「………頼んでない」
「サービスだ。こいつを飲んで、少し落ち着け」
「俺は冷静だ」
「冷静な奴はあんな無茶な呑み方をしない」
血気盛んな若者を数多く相手にし、人生経験も豊富な土方にとってオガタの反抗的な態度は全く問題にはならなかった。
どんなに噛みつかれようが憎まれ口を叩かれようが、凪いだ湖面のような土方の心を揺らすことはない。
しかし次の瞬間、オガタが吐き捨てた言葉に思いがけず土方の心が揺らいだ。
「……終わりだ。俺は捨てられる」
土方はぎょっとして、オガタを見る。
オガタの話を聞く限りでは、今回の出来事は親しい者たちの間でよくある喧嘩の一幕に過ぎない。
だから特別深刻な話として受け止めていなかった。
「何故そうなる」
「あいつは柔和に見えてその実相当な頑固者だ。きっとあいつは折れない」
「だったらおまえが謝ったらいいんじゃないのか」
「俺が謝る必要がどこにある。俺は悪くない。俺をほったらかしにしたあいつが悪い」
「本当に捨てられたとしても、か?」
土方の言葉に、オガタの顔色が明らかに変わる。
普段表情の変化が極端に乏しい男であるため、土方は内心密かに驚いていた。
「……よくねえよ、ふざけるな」
「そう思うなら、勇作君本人と話をすればいいだろう」
「何故俺から……」
「…彼を失っても貫き通すべき意地だと、おまえがそう思うのなら何もせず放置するがいいさ」
深刻ぶってはいるが、土方の本心は別のところにある。
オガタからの情報を信じるとすれば、『勇作』が何の話し合いもなしにオガタを捨てるなど極端な行動に出るとは思えなかった。
(話し合いを持ちかけるとすれば、勇作君の方からだろうな)
そう高を括った上で、土方はこの状況を存分に楽しんでいる。
「………どうすればいい」
珍しく思いつめたような表情で、オガタが絞り出すように言った。
土方も前の生では兄弟が多くいたので、こういう場面は懐かしい。
何とも不思議な感覚になり、思わず口元が緩んだ。
「仲直りをしてはどうだ」
「………前の生では、こんな風に喧嘩をしたこともない」
「なるほど。仲直りも初めてか」
「そうだ。どうやるのか分からない」
「何が不快だったのか、どうして欲しかったのか。おまえの気持ちを勇作君にきちんと伝えればいい」
土方の言葉に、オガタが眉を顰める。
「何だそれは。また喧嘩になるんじゃないのか」
「不平不満だけを前面に押し出せばそうなるだろうな。それが嫌なら最大限、可愛げのある態度で伝えることだ」
「可愛げ……?」
「少なくともおまえは、勇作君とこの先も共に在りたいのだろう?だったらその想いも織り交ぜ話をしたらいい」
「………それで本当に可愛げとやらは出るんだな?」
「おまえが上手くやれさえすれば、な」
「………」
納得したのかしないのか、眉を顰めたままオガタは席を立った。
それからふらふらとトイレの方向へ歩いて行く。
無事トイレのドアが閉まるのを確認してから、土方はテーブル上のグラスに視線を落とした。
空になったグラスに水を注ごうと手を伸ばしたところで、机上で何かが音を立てる。
(オガタの携帯か。不用心な奴だな…ん?)
看過しかけた携帯の画面には、先ほど話題に上がっていた人物の名が表示されていた。
しばらく鳴り続けた後一旦着信は止んだが、間を置かず直ぐに鳴り始める。
鳴り続ける携帯の画面を見つめながら、土方はほんの一瞬思案した。
(さて、面白いのは…)
オガタの携帯を手に取ると、画面に指先を滑らせる。
着信の相手は、土方が想像した通りの好青年だった。
「勇作…さん?」
カウンター席に行儀よく座る青年の姿を見るなり、オガタが明らかに動揺した。
複雑な表情をした後、平静を装いつつ『勇作』のひとつ隣の席に座る。
その様子を横目で確認し、土方は密かに笑った。
「何故あなたがここに……」
「兄様にお話したいことがありましたので」
勇作の言葉に、オガタの肩がピクリと揺れたのを土方は見逃さない。
先ほどまで吐いていた悪態はすっかり鳴りを潜め、借りてきた猫のように大人しい。
恐らく勇作の出方を伺っているのだろうが、土方にはその様子が可笑しくて仕方がなかった。
「兄様」
「…はい」
珍しくオガタが緊張している。
勇作が別れ話を突きつけるのではないかと身構えているのだろう。
しかし、恐らくそうはならない。
店に入って来た時の、勇作の様子を土方は知っている。
心の底からオガタを心配し青褪め慌てながらも、礼儀正しく土方に感謝を伝えてきた。
物腰が柔らかく、思いやりに溢れた青年に見える。
オガタが素直になれさえすれば、仲直りはそう難しいことではないと思えた。
「お迎えに上がりました。帰りましょう、兄様」
人の好さが滲み出るような、穏やかで優しい声である。
オガタの緊張が解けていくのが、カウンター越しの土方にも伝わった。
(どちらが兄なんだか。なあ、オガタよ)
グラスを磨きつつオガタの出方を伺っていると、ゆっくりと、勇作に顔を向ける。
「……勇作さん」
「はい、兄様」
「あなたの友人を口汚く罵ったのは…やり過ぎだった。謝ります」
「……とても悲しかったです」
「はい……」
「でも私も、兄様を避けてしまいました。子どもじみた行動だったと反省しています」
「………俺も、悲しかったです」
「……っはい」
どうやら話は上手くまとまったらしい。
そこまで話を聞くと、土方はカウンターからそっと視線を外した。
これ以上二人の会話を聞くのは野暮というものである。
土方が二人の席から離れた直後、オガタの手が勇作の手の指を意味深に絡め取ったのが目の端に映った。
(随分と惚れ込んでいるじゃないか)
少なくとも、周りが見えなくなるほどには。
(警戒心の塊のようだったあのオガタがなあ)
自分が見ていることも完全に忘れ、眼前の恋人との駆け引きに集中していた。
前の生のオガタからは想像もつかない姿である。
(長く生きれば面白いことがあるものだ)
再び緩みそうになる口元をさり気なく指先で隠し、土方は表情を引き締めた。
続