日頃より大変お世話になっております「藍川ー、ちょっと来てくれるか?」
「あ、ハイ……」
対面の上司がちょいちょいと手招きするので、メール画面を閉じて立ち上がる。
やけに神妙な顔をした上司のモニターを、一緒になって覗き込んだ。
なんてことはない一件のメール、「日頃より大変お世話になっております」から始まる、取引先からのテンプレメールだった。
確か、先月のクライアントだよな。別に納期も問題なかったし、簡単な作業だったから、変なミスも無いと思うけど……。
「ほら、ここ読め」
そう言って指差された部分には、世にも恐ろしいことが書いてあった。
『本プロジェクトでは、特に藍川鹿之助様にご尽力いただき、誠に感謝申し上げます。つきましては、日頃の御礼も兼ねて、ぜひご挨拶に伺いたく……』
サッと血の気が引く。なんだよこれ、名指しで感謝申し上げるとか。上司ならともかく、ペーペーの俺を?逆にコエーよ。なんだ、俺、なんかやらかしたのか……
「おー、すげーじゃん藍川、なんかやらかしたんか?」
いつの間にかやって来た同僚が、ニヤニヤ笑いながら俺を小突く。心当たりが無さ過ぎて、逆に何も言えない。
「いや……、心当たり、ない……です……」
「ふーん?まあ良いや、明日の昼来るらしいぞ。ま、気負わずよろしくなー」
「ハイ……」
ぽん、と軽く叩かれた肩が重い。すごすご席に戻って、メールの履歴を遡って確認する。
先月の取引先……、うん、うん……。そうだよな、別に変なことは何も言ってない。データのミスも無いし、上司にも報告してあるし、なにも変じゃない。
……じゃあ、ほんとにただのお礼?マジで?そんなことあり得るのか……?社外の人間が、菓子折り持って挨拶に来るって?俺なんかに?
手放しで「やったー、俺って超ラッキーじゃん」とか思える程、能天気な性格はしていない。
痛くなってきた腹を抱えて、スマホ片手にトイレの個室に引き籠った。
『エンジェルちゃん』
『助けて』
『声聞きたい、励まして欲しい』
脳直の泣き言をLINEに打ち込んで、深呼吸する。便所特有の湿っぽい臭いの中、両手に包んだスマホを額に当てて目を閉じた。
エンジェルちゃん、俺の恋人、守護天使。こんなことエンジェルちゃんに愚痴ったところで、きっと困らせちゃうだろうけど……。でも、俺には、彼女しかいないから。
深く息を吐いて、滲んだ涙をトイレットペーパーで拭う。大丈夫、夕方にはきっとエンジェルちゃんから返事が来る。それまでの辛抱だ。
鼻を啜って立ち上がった瞬間、スマホが振動した。
『大丈夫~?お話いつでも聞くよ』
ぐっとサムズアップしたウサギのスタンプに、引っ込んだ涙がポロリと零れる。
慌ててシャツで目元を拭う、アラサー男が職場で泣く訳にはいかないので必死で持ち堪えた。
『ありがとう』
『大丈夫?』
『ちょっとだけよくなった』
『つ元気』
『エンジェルちゃんの声聞きたい』
『お仕事終わったら、いっぱいお話ししようね』
投げキッスをするウサギのスタンプに、ハグするクマのスタンプを返す。
『ありがとう、がんばる』
既読が着いたのを確認して、ポケットにスマホを滑り込ませた。
その後は惰性で仕事を終わらせて、色々と深く考えないようにルーティンをこなした。残業する気分にもなれず、さっさと荷物をまとめる。上司の「明日よろしくな~」の声を背中に受けて、無心で帰宅した。
…
「ぬあぁあっ、エンジェルちゃ~ん、今日も疲れたよおっ」
『あはは、お疲れ様。よしよし、お仕事頑張ってえらいえらい♡』
スピーカー越しの甘い声に、目を閉じて深呼吸する。家まで我慢できず、電車を降りて即通話ボタンを押してしまった。
エンジェルちゃんの声を聴きながら歩く帰り道は、いつもよりほんの少し明るく感じた。
『……で、お昼のやつ、大丈夫?何かあったの?』
「あ~、……うん。大したことない、って思いたいけど。……呼び出し、くらっちゃって」
『え、マジ?なんかやっちゃった?』
「いや……、なんもやってない。……なんか、いきなり取引先からメール来てさ。俺のこと名指しで、お礼申し上げたいので直接お伺いします……とかなんとかメール来てさぁ……」
『……、へぇ~』
「いや、マジでなんで俺上司のメールに、名指しで俺の名前があってさぁもう、一日中気が気じゃなかったよ……」
『でもさ、感謝なんでしょ?ありがたく頂戴いたしまーす、でいいんじゃない?』
「そうかもしんねぇけど……。名指しされたらビビるだろ、フツー……」
『まぁ、う~ん……そうだね……』
真剣に悩んでくれてる声色に、胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。
俺だって分かってる、考え過ぎだって。でも、そこに自力で辿り着くまでの気持ちを、今までは誰も受け止めてくれなくて。……自分でさえも。だからこうして、エンジェルちゃんが話を聞いてくれるというだけで、本当に救われた気持ちになれる。トイレに蹲って耐えるだけだった日常に、眩い光が差した気分だ。
『ん~、じゃあさ。明日頑張れたら、私がご褒美あげる』
「えっ……、マジ?」
『マジのマジ。飲みに行くでもいいし、クレープ奢りでもいいし……。あ、お寿司とか行っちゃう?回転寿司だけど』
明るいエンジェルちゃんの声に、ご褒美と聞いた瞬間エロいことを想像した自分をぶん殴りたくなった。誘惑するエンジェルちゃんの妄想を追い払って、曖昧なキモ笑いで返事を濁す。
「へへっ、ああ、うん……」
『ん~?反応イマイチ?』
「あ、いや違っ……ごめん、まだ本調子じゃないというか、何というか……」
『そっか~……。ねぇ、明日お仕事終わったら、一緒にラーメン食べに行かない?この前、かのすけくんが教えてくれたとこ。……ほら、つけ麺のさぁ』
「あ~、上野の?」
『そうそうで、一緒にラーメン食べて、週末何するか一緒に考えよ?』
「え……。週末、いいの?」
『もちろんご褒美、欲しいでしょ?』
「ほ、欲しいっ」
『あははっ……明日のお仕事、頑張れそう?』
「う、うんめちゃ元気出た……」
ついでに腹がぐぅと鳴る。さっきまでコーヒーしか受け付けなかったのに、現金な胃袋だな。
「腹減ってきた……」
『うんうん、晩ご飯ちゃんと食べてね?……じゃあまた明日、ばいばい』
「ば……、バイバイ……」
立ち止まって、通話終了の画面を眺める。通話時間18分、短いけれど満たされた気持ちになった。
ラーメン、明日の仕事終わったら、エンジェルちゃんとラーメン。その後、週末の予定を一緒に考える。
……よし、いける。
明日への不安をひとまず思考の隅に追いやって、とりあえず今は空腹を満たすためにコンビニに入ることにした。
…
翌朝、気合入れにモンエナをがぶ飲みして、会議室の準備をする。
座席ヨシ、照明ヨシ、空調ヨシ、お茶は先方が来てからでヨシ……。レジュメもパワポも用意しなくていい、名刺さえあればなんとかなるハズ。あとはどうにでもなーれの気持ちでテキパキ準備を済ませた。
大丈夫、大丈夫。……いいんだ、これで。上司も「まあ挨拶だし、あんま固くなるなよ~」って言ってたし。一時間あるかどうか、愛想笑いで乗り切ったら夜はエンジェルちゃんとラーメンだ。
コンコン、と会議室のドアがノックされる。同僚がひょっこり顔を出して「もうすぐっぽいぞ」とだけ言って、そのまま立ち去った。
名刺入れを握り締めて深呼吸、大丈夫、大丈夫……。出来る、社会人何年目だよ?へーきへーき、大したことじゃない。
ガチャ、と開いたドアに肩が跳ねる。俺の上司に先導されて、年配の男がにこやかに入って来た。
「藍川さん、こんにちは。お会いするのは初めてですね」
差し出された名刺に、ああこの人かと、少しだけ安心した。メールで何度もやりとりしてるし、電話したこともある。
「こちらこそ、日頃よりお世話になっております。改めまして、藍川です」
「本日はご挨拶とお礼を……。なんでも、ウチの部下がお世話になったそうで」
「あっいや、そんなこと……」
ないです。そう結ぶために、へらへら笑って顔を上げて、びっくりして言葉を失ってしまった。
「藍川様、お世話になっております」
柔らかい笑顔、ツヤツヤの唇、すべすべの柔らかそうな指先。
……間違いない、エンジェルちゃんだ。
お世話になっている先方の隣に、別の意味でいつも大変お世話になっておりますエンジェルちゃんが笑っている。
(え、スーツ?タイトスカート?は?どういうこと?コスプレ?今日ってもしかして、そういうプレイなのか?)
見蕩れてぽかんと口を開いていたら、取引先の人がにこにこ笑顔で続ける。
「いやね、たまたま彼女に藍川さんの事を喋ったら、個人的にお世話になったので、ご挨拶に同行するって聞かなくてねぇ」
「じゃあ一緒に来る?ってさそったのは、課長じゃないですか~」
「まあ、キミは内勤だからねぇ。いい機会だし」
エンジェルちゃんは笑顔で、課長さんの腕をぐいぐい小突く。課長さんは満更でもなさそうに、困った顔で笑っていた。
「……とにかく、改めて感謝申し上げたい。先月のプロジェクトだけでなく、部下もお世話になっていたとは……。改めて、今後ともよろしくお願いいたします」
「あっ、……っと、そんな。滅相もございません……。こちらこそ、どうぞよろしく」
深々と頭を下げる俺たちを、エンジェルちゃんは面白そうにニコニコ眺めている。なんだ、コイツ。やっぱりただ者じゃねぇよ……。
「さて、それでは早速、新事業のご相談を……」
若干引き気味の俺の脇から、上司がぬるりと現れる。さりげなく俺の一歩前に出て、先方との間に割って入られた。
「ああ、そうですね……。藍川、お前は彼女にうちのご案内をして差し上げろ」
「へ、あっ……お、俺?……あ、イヤ……私が、ですか?」
たじろぐ俺に、上司と先方がうんうん頷き合っている。
「ああ、それはありがたい。御社の見学をさせていただけるなんて、またとない機会です」
「まあ、そんなに目新しいものもありませんが」
「そんなそんな、御謙遜を……」
「ははは」
「ははは」
冷汗をかく俺を置き去りにして、上司たちは何が顔を見合わせて笑っている。
いつの間にか隣に来たエンジェルちゃんが、可愛い子ぶって小首を傾げた。
「よろしくお願いしますね、藍川様♡」
…
「どーいうつもりだよ、お前っ」
会議室を出て、周りに人がいないタイミングで立ち止まる。勤務時間中の休憩スペースはしんと静まり返っていて、昼時の喧騒が嘘みたいだ。
「ん~?なんのこと?」
「とぼけんなよッ……あ~、もう。何考えてるんだよマジで……」
「別に~なんにも。たまたま課長が、かのすけくんのこと知ってたみたいだったから。すっごくお世話になってて、ご挨拶するタイミングがあれば、是非ご同行したいです♡って媚売ってみただけ」
「……で、見事成功したと。ッカーこれだから女さんは……」
俺の悪態にピースサインを返すエンジェルちゃんに、呆れるというよりももはや尊敬の念すら覚える。マジで、なんなんだよコイツ。お手本通りの綺麗OLさんなのに、中身も顔もエンジェルちゃんそのままじゃないか。タイトスカートから覗くストッキングに包まれたふくらはぎに、思わず生唾を飲み込んだ。
「えへへ、サラリーマンかのすけくん♡……やっぱり、スーツ似合うね」
突然、カシャ、カシャ、と繰り返されたシャッター音に、慌てて顔を隠す。
「あっ、おいバカ勝手に撮んな」
「いいじゃん別に~、かのすけくんフォルダ潤わせてよ~」
「……ていうか、よその会社で勝手に写真撮るなよ。社外秘とか写ってたらどうすんだ」
思わず大きな声が出た。エンジェルちゃんは、一瞬ハッとした顔になって、そのまましおしおと項垂れてしまった。
「それもそっか。……ごめんなさい、気をつけます」
大人しくスマホを片付けたエンジェルちゃんに、なぜか罪悪感が顔を出す。
……あー、もう。ホント、こういうところだからな。100%エンジェルちゃんが悪いに決まってるのに、なんでか俺の方が悪いことした気分になる。居心地が悪くなって、ビルしか見えない窓の外に視線をやった。
「あー、まあ、うん。ここは休憩所だし、今は人居ないし」
「うん……」
「次から、気をつければいいと思うから」
「うん、ごめんね」
なんだよ、そんな顔するなよ。早く元気になってくれよ、ったく。めんどくせー女……。
「あー、それからえっと、……。……スーツ、好きなの?」
「へ?……ああ、うん。結構好き」
「ふーん」
「……好きな人の働いてる姿って、なんかカッコいいじゃん?」
一瞬だけ、心臓がぎゅっとした。ちらっと横目に見たエンジェルちゃんは、ほっぺたを緩ませてうっとりした顔で俺を見つめている。
ちょっと恥ずかしそうに頬を染めて、はにかんだ唇に目が釘付けになった。
(……誰も居ない休憩所、すぐそばに給湯室も、カギのかかる倉庫もある。誰も居ない、誰も来ない)
(キス、したい)
「……え、エンジェル、ちゃん。……俺、」
「あ、電話だ。ちょっと待ってね」
エンジェルちゃんはあっさり告げると、ポケットから取り出したスマホを耳に宛がった。さっきまでのトロ顔はどこへやら、おくれ毛を耳に掛けると「はい、課長。お疲れ様です、」なんて……。やっぱりコイツ、サキュバスだ女はみんな女優って、こういうコト……
「……はい、藍川様と一緒ですよー。……、分かりました、戻ります」
「なんて?」
「お話し終わったから、帰るよーだって。会議室までお願いできますか?」
「……おう、」
思い返せば、今日はエンジェルちゃんに振り回された一日だったな。
不安の原因も、頑張ろうって思ったきっかけも、全部コイツのせいじゃねぇか。ホント、質の悪い……。
遂に職場まで浸食してきて、コイツ本当どういうつもりなんだよ。出会った時から、行動力が爆発してるヤツだとは思っていた。にしたって、こんな風に外堀を埋められるなんて……。
「あ、そうだかのすけくん、ちょっと待って」
悶々と考え込んで、勝手に進めていた足を止める。「どうしたんだよ、エンジェルちゃん」と返事しようとした唇を、ぷにっ、と柔らかく塞がれた。
は?
え、なんだこれ。
エンジェルちゃんの閉じたまつ毛が至近距離にあって、ふわっと甘いせっけんが香った。
「えへへ♡」
「……は?……え、ちょっ……お前、何して……」
「何って、キスだけど」
一気に顔が熱くなる。額にぶわっと吹き出した汗をシャツで拭って、びっくりした勢いのまま仰け反った。情けなく壁に張り付いた俺を、エンジェルちゃんは楽しげに指差して笑う。
「ば、バカっ誰かに見られたら……ここはっ、神聖な労働の場だぞ」
「え~?だれも居ないじゃん、それに休憩所なんでしょ?」
きょとんとした表情のエンジェルちゃんが、全く悪びれず首を傾げる。ホント、ああ言えばこう言う……。なんだよそれ、わざとらしいぶりっ子しやがって……。可愛いな、クソ……
「それに、さ。……思い出、できたでしょ?」
「はぁ?」
背伸びしたエンジェルちゃんが、おいでおいでと手招きする。もちろん逆らえずに、素直に一歩近づいた。
(……まあ、ここまでされて大人しく言うことを聞く俺も同類だよな)
「誰も居ない休憩所で、キスしちゃった♡って……」
「ひっ、」
「ここ来るたびに思い出しちゃうね♡みんながお仕事頑張ってる時間に、私とキスしちゃったね♡」
「は……、はぇ……♡」
あーもうダメ、ダメだ逆らえない。エンジェルちゃんに耳元で囁かれると、脳みそが全面降伏してしまう。今すぐ跪いて、許しを請いながらおねだりしたくなってしまう。
「ぇ、んじぇる……ちゃ……♡」
「あははっ、お顔トロトロだね~♡よしよし♡可愛いね、かのすけくんっ♡」
前髪をふわふわ撫でられて、本格的にスイッチが入ってしまいそうだ。腰が疼いて、下っ腹の奥が重くなる。このまま耳までしゃぶられて、口の中ぐちゅぐちゅ掻き回してもらえたら、どんなに幸せだろう……。
(エンジェルちゃん、可愛い……♡すき、好きっ……♡♡堪らない、もっといっぱい欲しいっ♡♡)
「でもダメー。ほら、早く帰ろ?」
「ぇ、えぇっ……そ、そんな」
「あっは♡……大袈裟だなぁ、かのすけくんはたった一回、ちゅっ♡ってしただけなのに……♡」
とっても意地悪な笑顔で、ワイシャツの第二ボタンをカリッ♡と引っ掛かれる。触ってもらえない乳首が疼いて、変な声が出た。
「だって、課長が待ってるから。かのすけくんだって、この後お仕事あるでしょ?上司さん、きっと待ってるよ?」
「う……、うぅ……」
ごもっともだ、何も間違っていない。
つくづく情けない男だ、俺は。神聖な職場だのなんだの、自分で言ったくせに。今はもう、エンジェルちゃんにキスして欲しくて堪らない。
頭を撫でて欲しい、身体に触れて欲しい。いつもみたいに、じゅるじゅる下品な音を立ててキスしたい。目頭が熱くなって、エンジェルちゃんの顔が少しぼやけた。
「かのすけくん、泣いちゃうの?」
「な、泣く、わけ、……ないだろ……」
眼鏡をずらして、目元を拭う。苦し紛れに顔を逸らして、鼻を啜った。
「お仕事終わったら、一緒にラーメン行こうね?」
「……うん、」
「残り半日、お仕事頑張ろうね?」
「うん」
「ん偉いね、かのすけくん♡」
花が咲くみたいに笑ったエンジェルちゃんに、釣られてへらっと笑い返す。……やっぱり可愛いなチクショー。
汗ばんだ頭皮をガリガリ掻いて、気分を入れ替えようと深呼吸した。綺麗なOLさんに戻ったエンジェルちゃんは、相変わらずニコニコ笑って俺の後ろをついてくる。
…
「課長、お待たせしましたー」
「おお、おかえり。藍川さん、ご迷惑をおかけしました」
「いや全然。ははは……」
(ご迷惑なんてもんじゃないですよ、マジで。御社はどういう教育を部下にされてんですか、ええ?押しかけサキュバスなんて、堪ったもんじゃないですよこちとら)
「では、本日はこの辺で。今後ともよろしくお願いいたします……」
「いえいえ、こちらこそ……」
課長さんに倣って深々と頭を下げるエンジェルちゃんは、優秀な部下の皮を綺麗に被っていて心底呆れてしまった。ふたりの背中をぼーっと見送った後、上司が俺の肩を軽く叩く。
「お疲れさんいや、中々良い話が出来たよ。これも、藍川が頑張ったおかげだな」
「はは、いや別に。そんな大したことしてないっすよー」
「にしても、部下の女の子。可愛かったよな~」
「……は?」
(「てか、俺の彼女ですが?何か?ひとの女に色目使ってんじゃねぇよヴァーカ」)
喉のところまで込み上げたセリフを飲み込んで、軽く咳払いする。40代既婚子持ちの上司は、俺の視線には気付かずにひとり喋り始めた。
「顔も良いけど、笑顔がいいよな……向こうの課長さんもデレデレしちゃってさぁ、可愛がってんだろうなぁ~。あー、あと10……いや、15若ければなぁなんて、ははは」
愛想笑い以下の乾いた声で笑い返して、何気無くスマホを取り出す。マナーモードで気付かなかったけど、メッセージが一件届いていた。
『ラーメンの後、ホテル行く?』
その一文だけで、一瞬で脳みそが熱くなる。背中にじわじわ汗が滲んで、心臓がドッ、ドッ、と音を立てた。
急に耳が遠くなって、上司の声がやたら遠くから聞こえる。
「……なぁ、藍川。お前もそう思うだろ?」
「はは、そッスね」
すんません、全然聞いてませんでした。心の中で謝って、速攻で返事を打ち込んだ。
『いきたいです』
「……ん?どうした、藍川」
「い、いや……。何でもない、です……はは……」
既読がついたのを確認して、スマホをポケットに戻す。
昨日今日と、全然仕事が片付いていない。エンジェルちゃんのせいで、集中出来なかったんだから仕方ない。
だから、だから……。今夜は、エンジェルちゃんにいっぱい甘やかしてもらわなきゃ、割に合わない。
自分を納得させる詭弁に、ひとり頷いて。不思議そうな顔の上司を置いて、さっさと会議室を後にした。
ああ、夜が待ち遠しい……