④夢女の方が○○している話(ニョン) 麗らかな午後の日差しを浴びながら、ニョンはひとりテレビを眺めていた。画面の中で、異国の言葉を操るニュースキャスターが、知らない地方のどこかで起こった未曽有の大災害を延々と解説している。聞き慣れた英語でも、故郷のロシア語でもない謎の言語を聞き流しながら、逃げ惑う緑の肌をした人々の悲鳴をBGMに手にした缶ビールをぼんやり口に運んだ。
一体どれだけの時間が過ぎたのだろう。森をさまよってこの屋敷に流れ着き、家主であるマスター・ルーサーの言葉に従っていたら。いつの間にかニョンは、ルーサーの人間ペットになってしまった。
帰り道も本当の名前も忘れ、新しく与えられた「ニョン」という名前に耳が慣れた頃。この家から逃げようとしていた事すら忘れた自分が、彼は酷く恐ろしくなってしまった。
昼間から酒を煽り、肺いっぱいに煙を吸い込んで、ソファでテレビを見ながら過ごす毎日。もちろん、咎める人はどこにも居ない。成人男性である彼を、まるで犬か猫のように扱う家主に愛でられながら、彼は漫然とした日々を消化していた。
「Meow」
聞こえた声に、ふっと意識が持ち上がる。気が付けば、ルーサーのお気に入りである彼女が、ソファの隣にちょこんと座り込んでいた。
俄かに信じがたい事実だが、彼女が頭に乗せている猫耳カチューシャはぴくぴくと動き、デニムのパンツから伸びた尻尾はゆらゆら揺れている。
アイボリー家の主人であるルーサーの言葉を借りるのならば、彼女はキャットマン(もしくはキャットウーマン?)という種族なのだという。ニョンと同じくルーサーのペットである彼女は、いわゆる先住ペットに当たる人物なのだ。
「どうかしました?」
ニョンの問い掛けに欠伸を返すと、彼女は無言で彼の膝に頭を預ける。ソファに寝そべり、そのまま目蓋をうとうとさせる彼女を見下ろしながら、ニョンは静かにため息を零した。
「……よくもまあ、素性の知れない男に甘えられますね」
「うにゃ?」
「私は男で、貴女は女性です。猫の耳と尻尾を付けていたって、心まで猫になってしまった訳ではないでしょう?」
若干嫌味を含んだニョンの言葉に、彼女はぐぐっと伸びをする。強調される胸元を見ないよう、気を使って目を逸らす彼にお構いなしで、彼女はひと声「Meow♡」と甘く鳴いた。ぱち、ぱちと緩やかに繰り返される瞬きと、きゅっと縦に引き絞られた細長い瞳孔。ニョンには分からない原理で揺れる猫耳に、彼は再び深くため息をついた。
まるで本物の猫のように振る舞う彼女に対する違和感は、ルーサーを「ご主人様」と呼ぶこと以上に居心地が悪い。どうみても立派な成人女性である彼女が、絨毯に背中を擦り付け、食事のテーブルに平気な顔をして飛び乗る。人間としての自尊心を忘れた彼女の仕草ひとつひとつが、ニョンの目にはあまりにも残酷に映った。
「ニョン、頭を撫でて」
「どうして私が、」
「だって、撫でて欲しいから」
「……猫じゃあるまいし」
「猫だもん」
ニョンの太ももに無遠慮に後頭部を押し付け、八重歯というより牙に近い犬歯をチラつかせながら彼女は笑う。
「私は猫、ルーサー様のペット。可愛いかわいい猫のお嬢さん。だからほら、いっぱい撫でて」
「……貴女は、人間だ」
「違うわ、ニョン。ほら見て、こんなに可愛い耳までついてる」
彼女の言葉に合わせて、無邪気にぴこぴこと揺れる猫耳。簡素なカチューシャに付けられた分厚いフェルトのパーツの癖に、まるで血が通う身体の一部だと言わんばかりに自由に動く。無邪気に揺れるその耳に、ニョンは苦々しく顔を歪めた。彼女が無邪気に振る舞うほど、ニョンの心に重くどす黒い気分がのしかかる。空虚な幸福に身を任せる彼女に、自分の未来が重なる気がして。それが苦痛で、堪らなかった。
「ニョン、貴方もすぐに理解出来るわ。ルーサー様に愛でられ、彼の飼い猫になる喜びが、どんなに素晴らしいか」
「私は、人間です」
「今はね」
「……」
「大丈夫、焦らなくていいの」
人間離れした、長く鋭い爪先。鋭利な先端で彼の柔肌を傷付けないよう、お嬢さんはゆっくり優しく手を伸ばす。その指を、ニョンは拒めなかった。柔らかい指の腹でぷにぷにとニョンの頬を揉みながら、彼女はにこりと微笑む。
「貴方もきっと、猫になる」
「……」
「かつて私がそうだったように。嫌なことを全部忘れて、ルーサー様に愛される喜びで満たされて。そうして、幸せな飼い猫になる」
「私は、」
言葉の続きは、彼女の唇に塞がれてしまった。咄嗟の出来事に反応も出来ぬまま、ニョンは呆然と目を見開くことしか出来ない。ざらり、人間とは明らかに違う感触の舌が、唇の表面を掠めた。
「大丈夫、何も怖くないの。貴方はただ受け入れて、愛してもらえばいい」
「……後悔、してないんですか?」
「まさか」
コロコロ笑いながら、彼女はニョンの首筋に手首を引っ掛ける。
「私、とっても幸せよ」
心底幸せそうに、うっとり微笑む彼女の瞳。そのつぶらで大きな瞳の中に、ニョンは自分の顔が映り込んでいることに気が付いた。今にも吐きそうな酷い顔の自分とは裏腹に、お嬢さんは呑気にクスクス笑みを零す。
「だからね、ニョン。貴方も一緒に、幸せになりましょう?」
青ざめたニョンの頬に、猫ひげが描かれた柔らかい頬を擦り付けながら彼女は囁く。
「早く本当の家族になろうね、ニョン。愛してるわ」
ニョンは、何も言えなかった。
浴びせられる愛情も、救えない彼女も、出口のないこの家も、全てが嫌いで。目に映る全てが気持ち悪くて、ニョンは目を閉じる。残酷な現実から目を逸らし、そばにある温もりを抱き締めて、ゴロゴロと聞こえる優しい喉の音に耳を傾けた。