②○○に○○、夢女に○○して○○しまう男(ルーサー)きしり、薄手のブラウスが擦れて音を立てる。背中に回された大きな手と、顔に押し付けられた分厚い胸板。私はただ、モスグリーンのシャツから香る防虫剤の匂いを黙って肺に収めている。
「……どういうことだ」
ぽつり、ルーサーが言葉を漏らした。
数時間ぶりに聞いた彼の声は、随分と暗く沈んでいて。少なくとも今朝の挨拶より深く、冷たいフローリングを這い回るように低く掠れていた。
ルーサーはそれきり何も言わず、沈黙を貫いたまま私の背中を抱き締め続ける。壁掛け時計が、ポーン、ポーン、と朝の10時を告げた。
秒針の音を聞くだけの沈黙に飽きて、少しだけ上を向き「何のこと?」とルーサーに尋ねてみる。
「何の、こと……だって?」
溢れそうになる何かを必死で堪えながら、ルーサーはぎこちなく私を見下ろした。いつだって無表情な彼から注がれる視線は、えも言えぬ感情に満たされている。そしてその感情は、決して好ましいものではないのだと。黄ばんだ白目に滲む血管が、微かに痙攣を繰り返す瞳孔が、ミシミシと音を立てる口角が、私に教えてくれた。
「……まさか、誤魔化す気でいるのか?」
メキリ、決定的な音がルーサーの口元から響く。皮膚を裂いて現れた鋭い歯が、今にも私に噛み付こうと大きく開かれた。
「あの男に、笑いかけていただろうあの、見ず知らずの薄汚いドブネズミのような、あんな男にあまつさえ君は、『それじゃあ、明日も。ごきげんよう』と言っていたまさか私が、気付いていないとでも思ったのか?」
一気に捲し立てると、ルーサーは私の肩を鷲掴みにする。衝撃と痛みに思わず顔を顰めると、「目を逸らすな」と酷く乱暴に顎を掴まれた。
「お嬢さん、可愛いかわいいお嬢さん。君は、私だけのお嬢さんだ。君は、私だけのものであるはずだ。そうだろう?そんな君がどうして、私の許可なく、見ず知らずの男と言葉を交わしている?これは一体全体どういうことなんだい?なあ、愚かな私に教えてくれないか?」
ルーサーの長い指先が、私の顎を掴んで離さない。豪華な指輪で装飾された、いつだって優雅で自信に満ち溢れた彼の指は、今はふるふると小刻みに震えてしまっている。
多少動かし辛い唇で、正直に「彼はただの新聞配達員よ」と答えた。その返事に納得しないルーサーは、見事にセットされた髪を振り乱して、激しく首を横に振る。
「あいつの職業なんてどうでもいい、私はただ……」
言葉に詰まりながら、ルーサーは唇を震わせる。そんな彼が、かわいそうで、愛おしくて。
「君を逃がすことなんて、到底出来ない。君は、私の隣に居るべきなんだ。だから、だから私は」
剥き出しになった彼の歯列に、そっと指を当てる。
「たまたま、外に出たの」
彼の唇を人差し指で塞いだまま、私は静かに言葉を続けた。
「貴方が朝の紅茶を用意している間に、玄関のドアがノックされたわ。うっかりさんがカギを忘れていたみたいよ?新聞配達のあの人は、わざわざそれを教えてくれたの。私は朝刊を受け取って、簡単なお礼と挨拶をしたわ」
出来るだけ冷静に、平穏に。愛しいルーサーのささくれだった心を、むやみに傷つけてしまわないように。
「こんなことが無いように、ランダルにちゃんと言い聞かせなきゃね?夜中に遊びに出たのなら、戸締りはしっかり忘れずに、って。それから、ルーサー。心配させてごめんなさいね。貴方がどれだけ私を大切に思ってくれているのか、私ったら忘れてしまっていたみたい」
彼の唇から、そっと指を離す。何も言わないルーサーの、温度の無い手首に自分の指を絡めた。
「私は貴方のものよ、ルーサー。お喋りな私をどうか許してね。……それで、もし。どうしても私を許せないのなら」
女特有の薄くて脆い喉仏を、大きくて立派な親指に押し付ける。頸動脈全体をぴったり覆う手の平に、深呼吸をひとつ。
「どうぞ」
ルーサーに気道を差し出すように真上を見上げ、涙で赤く滲んだ四つの瞳に向かって、とびきりの笑顔を向けた。
「愛しているわ、ルーサー」
刹那、短く息を飲む音。うなじに伸びた指先が一瞬だけ、抵抗するようにピクリと震えた。
カチ、カチ、カチ、止まらない秒針聞きながら、私はただその時を待つ。
「……出来ないよ」
ふと、首から圧迫感が消えた。その代わり、背骨がぎしりと軋むほど強く、激しく、ルーサーの両腕に抱き寄せられる。
「あ、ああ……。ああ、すまない。私、私は……。こんな、こんな悍ましい。こんなことを君にさせてしまって。本当になんて、私はなんて酷いことを……」
酷く狼狽えて、ルーサーは虚ろな謝罪の言葉を繰り返す。ごしごしと擦り付けられるマルーンブラウンの毛先と、時折聞こえる嗚咽。彼の頬骨がぐりぐり押し付けられる度、私の顔を冷たい雫がしっとりと濡らした。
「ル―サー、」
「幻滅しただろう、私がいかにちっぽけで惨めな男か、君は気付いてしまっただろう?」
「ルーサー、」
「こんな私は嫌いかい?偉そうにしているだけで、君の心を分かろうともしない。独り善がりで情けない、こんな私を」
「ルーサー、」
「すまない、すまない……。だが、どうか、お願いだ……。私を、見捨てないでおくれ……」
「ルーサー、」
うわ言を繰り返す大きな背中に向かって、一生懸命手を伸ばす。強く締め上げられてしまっているせいで、ほとんど自由が利かない指先で、辛抱強く彼の背骨をなぞった。
「泣かないで、ルーサー」
「……私は、泣いてなんか」
「あらそう?それじゃあ、貴方のお顔を良く見せて」
ややあって、ルーサーはじわじわと腕の力を緩めていく。痺れる背中をぐっと逸らして、しっとり濡れた彼の頬に優しく触れた。4つの目から向けられる少し不安げな眼差しが愛しくて、眦に滲む涙を指先でそうっと払ってあげる。
「愛しているわ、ルーサー」
背伸びして、立派な首筋に両手を引っ掛ける。骨張ったうなじの感触を指先で味わいながら、俯いて影になった額に唇を押し付けた。
心配性で臆病でヤキモチ妬きな可愛い人、私だけのルーサー。大好きよ。