青い夏鼻歌を歌うドゥの背中に、ユウは眩しそうに目を細める。
潮風を浴びてうねる彼の長い黒髪が、青く澄んだ海空の中でひらひらと煽られている。
頬を伝う汗を手の甲で拭い、ユウは麦わら帽子を被り直した。
「ねぇ、ユウ見て魚がいるよ」
全身黒ずくめのドゥは、彼女より暑そうな格好をしているくせにやたら元気だ。
波止場のアスファルトにしゃがみこんで、笑顔で海中を指さす。
「気を付けないと、落っこちちゃうよ。」
そんな彼を窘めながら、ユウも海面を覗き込む。
ドゥと一緒に知らない種類の魚の背を視線で追いかけながら、錆び付いたボラードに腰を下ろす。
夏の日差しで温められたボラードが、ユウのショートパンツをジリジリと焦がしていく。
「…それにしても、日本は暑っついね。…ドゥ、平気?」
「何が〜?」
笑顔で首を傾げるドゥに、ユウはなんでもないと首を横に振る。
「…アイス食べたい。…昔駄菓子屋で買ってもらった、青い包みのソーダバーが良いな…。」
「ユウって、ソーダバーが好きだったの?」
「ううん、好きでも嫌いでも。」
汗ばむユウの首筋を、夏風が爽やかに吹き抜けた。
「………。昔、おばあちゃんに買ってもらったな…って。」
ブロロロ…、と古びたバス停留所に、1台のバスが止まる。
「あっ、着いた。…ドゥ、急いでアレ乗るよ」
麦わら帽子を押さえながら、ユウはバスに向かってパタパタと走り出す。
「わぁ、ま、待ってよぉ〜」
その後ろを慌てて着いてくるドゥの姿を確認してから、ユウは乗車券を2枚受け取る。
よく冷やされた空気に、短く息を吐いた。
日焼けたバスの経路図を確認しながら、「…変わってないな。」と呟くと、ガラガラの座席に腰かける。
追い付いたドゥが、ユウの隣に腰を下ろすと、タイミング良くドアが閉められる。
「…このまま、3つ目のバス停まで。…そこで降りて、花屋さんに寄るの。…そこから別のバスに乗り継いで、2つ目のバス停で下りるからね。」
「良く憶えてるね、ユウ。」
ユウから乗車券を1枚受け取ると、ドゥは感心したように唸る。
「…あはは、…まぁね。」
ユウは麦わら帽子を手に持つと、汗で湿る髪の毛に手櫛を入れる。
「…小さい頃は、よく行ってたからね。」
「お墓に?」
「うん。…日本だとね、毎年夏になるとお墓参りに行くの。」
「へぇ、そうなんだ」
不思議そうに目を丸くするドゥに、ユウは曖昧に笑った。
バスの進行方向を見守りながら、ゆっくり目を閉じる。
ひんやりとしたエアコンの風が心地好い。
バスの揺れに身を任せながら、ユウは昔の事を思い出していた。
墓参りの帰り道、優しい祖母の手に引かれながら駄菓子屋に寄ると、彼女はいつもユウにご褒美のアイスを買ってくれた。
青い包みのソーダバーにはクジが付いていて、いつも当たれと念じながら、1度も当たった事がなかった。
その度に祖母は、大袈裟に残念がってくれて。
(ユウちゃん、また今度買ってあげるからね。)
「……あっ、」
「ユウ?どうかした?」
思わず口を抑えたユウを、ドゥが心配そうに覗き込む。
「……ごめん、大丈夫…。」
(わたし、……おばあちゃんの声、もう忘れちゃったんだ。)
『――次は、○○…。次は、○○です…。』
「ドゥ、降りるよ。」
「う、うん。」
麦わら帽子を被ると、この日のために用意した日本円で2人分のバス代を支払った。
バスのステップを降りると、バスのロータリーを中心としたちょっとした商店街になっている。
「(ここも、昔と変わらないな…。)」
唯一、駄菓子屋だけは近代化の波に飲まれて、コンビニに変わっていたが、花屋も、定食屋も、ユウの記憶のままの場所にあった。
「…懐かしいな。」
「懐かしい?」
「うん。……昔のまんま。」
一方の自分は、すっかり変わってしまった。
染めた金髪を隠す様に、ユウはそっと麦わら帽子を目深に被り直した。
「いらっしゃいませー。」
ユウと同年代か、少し年上の若い女性店員が愛想良く声をかける。
「…えっと、お供えの花が欲しくて。」
「お仏花ですね、かしこまりました」
テキパキと梱包する店員の手つきを眺めながら、ユウはふと、レジ横の線香とマッチに目をとめた。
「…あ、これ。線香…とマッチも、ください。」
「かしこまりました、こちらはお手提げにお入れしますね。」
白い紙で包まれた花束と、白い小さなビニール袋を手にユウは再びバス停に向かう。
「これ、デイジー?」
ドゥは花束の中を覗き込み、すんすんと鼻を鳴らしながら首を傾げる。
「う〜ん、…ちょっと違う、かな?…どっちかって言ったら、マムだと思うけど。…ごめん、詳しくないや。」
「ふぅん。」
瑞々しい菊をつつきながら、ドゥが不思議そうにユウを見る。
「ユウのおばあちゃんは、この花が好きだったの?」
「えぇっと…、どうだろう?多分違う、かな?」
「なのに、この花をプレゼントするの?」
どうやら、ドゥの疑問点はそこらしい。
「う〜ん…、難しい質問ね。」
「そうなの?」
「…日本ではね、死んだ人にこの花をお供えするの。」
「へぇ〜、そうなんだ。」
そんな会話をしていると、あっという間に次のバスが到着する。
今度は乗車券をひとりずつ受け取り、座席に並んで腰掛ける。
このバスには既に何人かの乗客がおり、彼らの手荷物を見るにユウ達と同じ目的でこのバスに乗ったらしい。
ドゥとユウの正面には、小さな女の子が、母親と思しき女性に何事か一生懸命話している。
「でねっクラスで、いちばん、じょうずにできたんだよ」
金色の紙で出来た小さな折り鶴を手に、女の子は笑う。
「良かったわねぇ、…きっと、パパも喜ぶわね。」
女の子の柔らかい髪を撫でながら、女性は穏やかに微笑む。
「うんパパ、てんごくからみてくれるかな」
「勿論よ。…ユウちゃんが、いい子でいたらね。」
どきり、とユウの胸が痛む。
「(…大丈夫、よくある名前。偶然、大丈夫…。)」
彼女は目を閉じると、ゆっくり深呼吸を繰り返す。
吸って、吐いて、…吸って、……吐いて。
『ユウ、いい子にしなさい。』
脳内をリフレインする母親の声に、ユウの息が止まる。
「…ぁ、」
あと1秒で、叫び出してしまうかもしれない。
そんな時、ユウの頬を熱い両手がそっと包んだ。
「ユウ、」
優しいドゥの声が、自分の名前を呼ぶ。
じわり、と唇に柔らかく触れる感触に、ユウはそっと目を開いた。
ドゥの顔がゆっくりと離れ、「…落ち着いた?」と優しく囁く。
ユウの眦をそっと拭う彼の指に、何事か言おうと口を開いたところで、小さな歓声が上がる。
「ママ…おねぇちゃんたち、ちゅーしてた」
「こ、こら」
はっと目が合うと、女性は申し訳無さそうに頭を下げた。
途端、ユウの顔もかっと赤くなる。
…ここは日本、バスでキスするカップルはかなり珍しいだろう。
『――次は、××…。次は、××です…。』
タイミング良く響くアナウンスに、ユウは勢いよく立ち上がる。
…あの親子も同じ場所に行くのだろうが、早く降りるに越したことはない。
「ドゥ、降りるよっ」
「…あ、…わ、分かったよ」
バタバタと慌ただしく小銭を払うと、ユウは早足でバスを降りる。
「…ねぇユウ、怒ったの?」
せかせかと歩くユウに、おずおずとドゥが声を掛ける。
ユウはそっと後ろを振り返る。
心配げな顔のドゥの後ろ遥か彼方に他の乗客達がいることを確認して、溜息をつく。
「…、全然怒ってないよ。ドゥは悪くない。…わたしのこと、助けてくれたんだよね?」
「…あ…、う、うん。…何か、ユウが泣いちゃいそうな気がして…。」
ユウは足を止め、ドゥの手をそっと取る。
「…正直、泣きそうだった。」
握ったままのビニール袋が、かさりと音を立てた。
「……、嫌なこと、思い出してたから。」
「ユウ…。」
「ごめん、わたしこそ。…ちょっと恥ずかしかっただけだよ、…キミは悪くないよ、ドゥ。」
さらさらと吹く夏風が、ふたりの髪を優しく撫でた。
「…行こ、……お墓、もうすぐ着くから。」
ドゥの手を優しく引くと、ユウは彼に背中を向けて歩き出す。
指に絡んだドゥの手が彼女の手首を登り、するりと腕に伸ばされる。
しっかりと腕を組むと、ドゥはユウに向かってへにゃりと笑った。
「…大好きだよ、ユウ。」
「…ありがとう。……わたしも大好き、ドゥ。」
ふたりの腕の間で、かさかさとビニール袋が小さく音を立てた。
…
少しだけ丘になったそこからは、昔と変わらず海が一望できる。
幼いながらにユウは、緑の芝と海の青のコントラストを気に入って、祖母と来た時はいつここから海を眺めていた。
祖母の唱える念仏の意味は分からなかったが、熱心に祈る祖母の横顔と、潮風の匂いは嫌いではなかった。
「…これが、ユウのおばあちゃん?」
「うん、そうだよ。」
グレーの御影石を指さすドゥに、ユウはこっくりと頷く。
ユウの返事を聞くと、その場で膝を着く。
両腕をいっぱいに広げて、墓石に腕を回した。
「はじめまして、ユウのおばあちゃん。…僕は、ドゥ。…あなたの、大切な家族の、…恋人です。」
ひんやりとした石に頬を押し付けると、彼は優しい口調で話しはじめた。
まるで生きた人間相手にするように、優しいハグを墓石に贈る。
「僕はね、今、とても幸せです。…あなたの、育ててくれた可愛いユウと一緒にいられるから。」
つるつるした表面を丁寧に撫でながら、ドゥはうっとりと目を細める。
「あなたに、会えたことを嬉しく思います。…ありがとう、ユウのおばあちゃん。」
すりすりと額を押し付けると、ドゥは立ち上がった。
「挨拶出来たよありがとう、ユウ」
「そっか、…良かった。」
ユウは穏やかに笑い返すと、手にした花束を持って前に出る。
古ぼけた花入れから枯れ草を取り除き、買ってきた仏花を活ける。
「…ドゥ、ちょっと手伝って。」
彼に手のひらで風よけを作らせて、マッチを擦って線香に火をつける。
ふわりと立ち上がる煙は、緩く潮風に流されて空に溶けていった。
「どうして、外でインセンスを焚くの?」
ほんのり漂うサンダルウッドの香りに、ドゥは不思議そう首を傾げた。
「日本の風習、…かなぁ。」
「ふぅん?」
線香も供え、ユウは目を閉じると両手を合わせた。
「(…おばあちゃん、)」
「(おばあちゃん、わたし、ユウよ。…久しぶり。)」
「(中々会いに来れなくてごめんね、…こっちも色々あってさ。)」
「(…さっきの、ドゥの事なんだけど。……。)」
「(…わたし、彼のことが好きなの。)」
「(応援、してね。)」
すっかり黙り込んだユウの周りを、ドゥは心配そうにうろうろする。
彼女はピクリとも動かず、両手を合わしたまま目を閉じている。
「……よし」
ぱちり、と目を開くと、ユウは立ち上がった。
「あ、…ユウ、大丈夫?」
「うん、大丈夫。…おばあちゃんと話してただけだよ。」
ユウの言葉に、ドゥは心底安心して胸を撫で下ろす。
「そっかぁ、良かった。…おばあちゃんはなんて?」
「ん〜?……ドゥの事、素敵な恋人だね、って褒めてくれたよ?」
「え、えっほ、本当に」
真っ赤に染めた頬を両手で挟み身悶えするドゥに、ユウはクスクスと笑う。
菊の花と線香の香りを乗せた風が、ふたりの間をふわりと通り過ぎた。
「……帰ろっか、バスの時間もあるし。」
ユウが手を伸ばすと、ドゥは嬉しそうにその手を取る。
「うんまた来ようね」
「また?」
「そうだよ…元気なユウの姿を、おばあちゃんに見せてあげなきゃ」
「…そうだね。……ねぇ、また一緒に、ここに来てくれる?」
「当たり前じゃないか僕は、ユウがいる所ならどこだって着いて行くよ」
「…っふふ、そうだったね。」
ぎゅっと、固く手を握り合いながら、ふたりはバス停への道を下って行った。
…
港までのバスを待つ間、コンビニで時間を潰す事にしたユウとドゥ。
久しぶりに日本語の漫画に目を通していたユウの裾を、ドゥが軽く引く。
「ねぇユウ?」
ドゥは一生懸命アイスケースを覗き込んでいる。
「ん〜?」
「ユウが言ってた、ソーダバーってこれ?」
ドゥが指さす青い包みは、ユウの記憶の中のそのもので、あの時と変わらない少年のパッケージに、ユウは思わず頬を緩める。
「あ〜そう、それ懐かし〜これさ、中にクジがついててね、当たるともう一本貰えるんだよ。」
「へぇ〜、面白そうだね」
「せっかくだし、バスが来るまでこれ食べて待ってよっか。」
「賛成」
手を挙げて笑うドゥに、ユウはアイスケースから、ソーダバーを2本掴むとレジに通した。
ソーダバーのフィルムを剥いで、ジャクリ、とふたり同時に口に運ぶ。
ジャリジャリした歯触りと爽やかなソーダ味に、胸いっぱいに懐かしさが込み上げてくる。
不意に、鼻の奥が懐かしさでツンとした。
慌てて目頭を押さえる刹那、
ボリン、
とよく分からない音が隣から聞こえてきた。
「ねぇユウ、どこにクジが付いてるの?」
アイスの棒をボリボリと噛み砕きながら、ドゥは不思議そうにパッケージを眺めていた。
暫くきょとんとした後、ユウは身を捩って笑い出す。
「…、あははっ…ドゥ、…アイスの棒は食べちゃダメ。…そこに当たりが書いてあるんだよ。」
「えぇっそうだったの」
涙が滲む目元を押さえながら、ユウは可笑しそうに笑う。
ドゥも困った顔をしたものの、彼女の笑顔に釣られて笑った。
「…あ〜、もう。…っふふ。…キミといると、本当に飽きないなぁ。」
放置したせいで少し緩くなったソーダバーにかぶりつきながら、ユウはクスクスと笑う。
その振動で、溶けかけたアイスが棒を滑り、どちゃり、と落下した。
「あ、」
「あ。……ねぇ、ユウ。それ、何か書いてあるよ。」
「え?」
ユウは口元からアイスの棒を離すと、眼前に翳す。
"1本当り"が刻印されたそれに、ユウは目を丸くした。
「なんて書いてあるの?」
「……当たった。」
「…へ?」
「当たった…すごい、今まで1本も当たったこと無かったのに。」
呆然とするユウと対照的に、ドゥは拍手をして喜ぶ。
「すごいじゃないか、ユウ…きっと、君のおばあちゃんが当ててくれたんだよ。」
「そ、そうかなぁ?」
「そうに決まってるよ…ユウがいい子だから、きっとご褒美だね」
屈託のないドゥの笑顔に、ユウの胸がぎゅっ、と締め付けられる。
「…ご褒美、か。」
「うん…良かったねぇ、ユウ早速、貰ってくる?」
「…ううん、いいや。」
ユウはアイスの棒をもう一度眺めてから、ハンカチで包んでバッグにそっとしまいこんだ。
「…また今度、日本に来た時に。…それまで取っとく。」
「そっか」
「…その時は、ドゥも一緒ね?」
「」
満面の笑みのドゥが、「ユウ〜ッ♡」と叫んで、彼女を抱き締める。
周囲の注目を集めながら、少し恥ずかしそうに、それでも心底幸せそうにユウは笑った。