アップルパイ「アップルパイ、作ろ。」
仕事から帰ってきたなり、やけにぐったりとした様子のYouが呟いた。
「……アップルパイ?」
いつものように帰宅したYouに抱き着いて、彼女を労っていたドゥが不思議そうに首を傾げる。
「…とりあえず、カバン、降ろさせて…。」
そう言うと、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。
「えっ…、わぁ…You、大丈夫かい」
ドゥが慌てて彼女の身体を抱き寄せると、その拍子に、肩に掛けていた通勤カバンから林檎がひとつ転がり落ちる。
「……林檎?」
「んー…。」
Youはドゥの胸に顔を寄せ、むずがるようにぐりぐりと顔を擦り付ける。
「あー…、重かった。」
彼女は唸りながらカバンを降ろすと、乱暴に足で押しやった。
蹴飛ばされた衝撃で、ゴロゴロと林檎が玄関に散らばる。
「…わぁ、……沢山だねぇ?」
ドゥは素直に感心して、そこらに転がる林檎達を目で追った。
「んー…。」
「……、どうしたのこんなに。」
ドゥの何気ない一言に、Youは眉を怒らせて顔を上げた。
「ちょっと聞いてよ。」
彼の額に自分の額を押し付け、彼の襟元をぐっと手繰り寄せる。
彼女の仕草に内心ドキドキしながら、ドゥは平静を装って笑みを浮かべた。
「え、あっ…。うん、勿論…?」
「……うちの店長、Costcoマニアなんだけどね。」
"ほら、みんなお疲れ様安かったから買ってきた、差し入れだ"
"HAHAHA遠慮なんかするなよ、ひとり1箱はあるぜ"
"ん〜?割と傷んでるのもあるなぁ、急いで食えよ〜"
"ぅ〜っペッ、ペッ…なんだこの林檎は〜"
"…あ、料理用?……どうりでこんなに酸っぱいわけだなぁ…。"
「…という訳で、生で食べるには酸っぱ過ぎる、賞味期限もギリギリの林檎をひとり10個も持って帰って来たの。」
「……そっかぁ。」
「もー、あのバカ店長。…バス通勤の人間に林檎10個持たせるとか馬鹿じゃないの、本当に……。」
ぶつぶつと恨み言が止まらないYouは、ドゥの分厚い胸板に凭れ掛かりながら、その首筋に顔を埋める。
「ッ………You、く、くすぐったいよ…?」
「んー…。」
癒しを求めて甘える彼女を無下にも出来ず、かといってムラムラと湧き上がる欲望を抑え込む事も難しく。
Youの背中に回した腕をどうすればいいのか、ドゥはひとり慌てていた。
「…今日はもう寝る。」
言うが早いか、彼女はさっさと立ち上がる。
「えっ…、あ、…あぁ、うん。」
「もう疲れた。…眠い、肩痛い、腰痛い。」
床に散らばる林檎もそのままに、その上にジャケットや靴下をお構い無しに脱ぎ散らしながら、Youはベッドルームに歩き出した。
突然、Youが立ち止まる。
その背中を呆然と眺めていたドゥをちらりと振り返り、
「……一緒に、寝てくれないの?」
と寂しそうに呟いた。
普段の彼女から想像もつかない甘えた声に、彼の心臓が真正面からぶち抜かれる。
「あっ、あっ…寝る…すぐ行くからっ」
慌てて立ち上がるドゥに、まだ満足出来ないYouは首を大きく横に振った。
「……疲れた、もう動けない。………抱っこ。」
「」
流れていないはずの血液が、一瞬にして沸騰する錯覚。
顔を真っ赤にして、急いで彼女に駆け寄る。
「あっ♡…もっ、勿論…抱っこするね、いいかい?♡♡」
「ん。」
Youをそっと抱き締め、大切に横抱きにする。
「偉いね、You♡今日もお仕事頑張ったんだね?♡♡」
「……今日は特に。」
「もちろん…いつも偉いけど、今日は特に頑張ったんだね♡♡」
「んー…。」
「偉い、偉いね♡♡」
彼女のぶすくれた顔に何度もキスを贈りながら、ベッドルームにゆっくりと向かった。
「他に何か、僕にして欲しい事はあるかい?♡♡」
Youをベッドに優しくおろすと、ドゥはその場に跪いて彼女の顔を覗き込む。
すっかりお世話係モードのスイッチが入った彼は、ニコニコと上機嫌でYouのオーダーを待った。
「…服脱がせて。」
「よろこんで」
鼻歌交じりの上機嫌でワイシャツのボタンを外し、ブラのホックを優しく外す。
「Youは今日も可愛いね♡不機嫌な君もとっても可愛い♡」
優しく声を掛けながら、丁寧に服を脱がせていく。
「でも、君にはやっぱり笑顔が似合うよ♡…あぁ、ハニー?どうしたら君は、ご機嫌になってくれるのかな?」
デニムを器用に抜き取りながら、彼女の脛にキスを落とした。
「教えて?…僕のお姫様♡♡」
「……明日、一緒にスーパーに行く。」
「うんうん♡♡」
「その後、一緒にアップルパイを作って、一緒に食べる。」
「うんうん、素敵なアイデアだね♡♡」
「…あと、ちょっと良い紅茶も買う。」
「最高だね今から楽しみだよ♡♡」
両手を胸の前で組んで、大袈裟に感嘆のため息を零すドゥに、Youの表情が少し和らいだ。
「……ありがとう、ドゥ。」
「こちらこそ、ありがとう♡さて、明日に備えて今日はもう寝よう?」
「一緒に?」
「もちろんさ…さぁ、ハニー。…もっと僕の傍に来て、君の身体をちゃんと抱き締めさせてね。」
「ん。」
両腕を広げたドゥの胸元に身体を滑り込ませると、Youはいつもよりもかなり早く寝息を立て始めた。
「…すごく疲れてたんだね、You…。本当に、お疲れ様。」
彼女の髪を優しく手櫛で梳ると、彼は静かに囁いた。
腕替わりの髪の毛を伸ばし、リビングとベッドサイドの照明を落とすと、そっとYouのつむじに口付ける。
「おやすみハニー、…また明日ね。」
…
「やるわよ。」
翌朝、すっかりいつも通りに戻ったYouは、スーパーの戦利品と林檎の山を目の前にキッチンで腕まくりをした。
「僕も手伝うね、何をしようか?」
いそいそと彼女のエプロンのリボンを締め、ドゥは彼女の指示を待つ。
「まず、林檎。…全部洗って、全部皮を剥いて。」
「わかったよ」
ゴム手袋を装着する彼の横で、Youはスマホを操作する。
"パイシートで簡単アップルパイ"のレシピに目を滑らせ、オーブンを温めた。
「…良し。…余熱が終わる前に、フィリングを作りましょう。」
そう言って、ドゥが洗い終わった林檎を受け取り、片っ端から芯抜き器でくり抜いていく。
この日の為に買った林檎の専用芯抜き器は、普段のYouなら絶対に買わない類の商品だったが、今日は違った。
ストレスの発散という名目で、FORTNUM & MASON の茶葉を買ったし、ÉCHIRÉのバターも買った。
これらは全て、Youの"ちょっとした自分へのご褒美"なのだ。
穴の空いた林檎達をまな板に並べながら、レシピを確認する。
「バター、シナモン、ナツメグ、砂糖…。」
声に出してフィリングの材料を大鍋に投入し、隣のドゥの様子を確認する。
Youも最近知った事だが、彼は存外包丁の扱いが上手かった。
フルーツナイフを左手に、右手で器用に林檎を回す。
するすると脱げる様に皮が落ち、丸裸の林檎をまな板に乗せる。
鼻歌交じりに林檎を剥く、彼の手つきに暫し見蕩れていると、ドゥが笑って彼女の顔を覗き込んだ。
「どうかしたの、ダーリン?」
「……妙に器用よね、あなた。」
「へへ…、本当に?…嬉しいなぁ〜。」
ルンルンと腰まで振り始めた彼に、Youも笑いながら林檎をざくざくと角切りにする。
小ぶりな林檎とはいえ、10個もある。
機械的な作業を繰り返す中で、Youがボソリと呟いた。
「……昨日、ごめんね。」
「ん〜?何の話?」
とぼけている訳ではないドゥが、真剣に首を傾げる。
「…八つ当たり、したから。」
包丁を扱う手元を注視したまま、彼女が呟いた。
「八つ当たり?昨日?君が?」
いよいよ本気で分からないといった調子で、彼は最後の皮剥きを終える。
どっさりと抱えた林檎の皮をゴミ箱に放り込むと、Youの顔を覗き込んだ。
「…服脱がせて、とか、歩けない、とか…。」
ぽつり、ぽつり、と口を開く彼女の頬がじわりと赤らみ、林檎を切る手が止まる。
「あ〜…へへ、そんな事かぁ。」
ドゥはYouの手が包丁を抜き取ると、そっとまな板に乗せた。
「全然、あんなの八つ当たりなんかじゃないよ、ダーリン?」
「…。」
黙りこくる彼女を後ろから抱き締め、つむじに何度もキスを落とした。
「とっても可愛いワガママだったよ?…僕を頼ってくれて、ありがとう♡」
「……本気?」
「もちろん…君に関して、僕はいつだって本気さ?」
頬擦りするドゥの温もりに、Youの目頭がじわりと熱くなる。
「君はもっと、僕に頼って、うんと甘えてくれていいんだからね?」
「…。」
「なんてったって、…君は僕の大事な恋人なんだから」
「…。」
「そうでしょ、ダーリン?」
Youが口を開こうとしたところで、タイミング良くオーブンの余熱が終わる。
気の抜けた通知音に、ふたりして肩をビクつかせた。
「…ふふ、」
「…へへ」
お互い顔を見合わせて、クスクスと笑い出す。
「ほら、急ぎましょう。オーブンが冷えちゃう。」
薄く涙が滲んだ目尻を擦り、Youは包丁を手にした。
「そうだね…僕は、次に何をしようか?」
「ええと、パーチメントペーパーの上にパイシートを乗せて、フォークで穴を開けて。」
ドゥに指示を出すと、彼女は急いで林檎を切りながら、コンロに火を付けた。
「林檎は半煮えで大丈夫、…スパイスと砂糖を混ぜるのがメインだから…。」
残りの角切りを全て大鍋に流し込み、木べらで掻き混ぜる。
「You、出来たよ」
いっそ気味悪いほど等間隔に穴が空いたパイ生地を、ドゥが得意げに見せびらかす。
「Nice、…残ったもう一枚は細切りにしておいて。」
「わかったよ」
溶けたバターと砂糖で、照りがついた林檎を「よし、」と確認して火を止める。
広げられたパイシートの四隅を摘んで土手を作り、大量のフィリングを乗せた。
ドゥが細切りにした生地を受け取り、丁寧に格子模様に並べていく。
パイ生地に対して随分と中央がこんもりしているが、上手いことアップルパイの形になってきた。
「最後、溶き卵を塗ったら完成ね。」
早速ボウルを用意したドゥに「ありがと、」と述べて、玉子をひとつ割り入れる。
黄身を丁寧に潰してから、アップルパイ全体に塗りたくった。
「さて、後は30分待つだけ…お疲れ様、ドゥ。」
「へへ、お疲れ様。」
ケトルに水を入れて、コンロに火を付ける。
「今のうちに、紅茶を用意しましょ?」
ドゥはYouの背中に近付くと、奮発して買った高級紅茶のパッケージを、Youの指先からするりと抜き取った。
「僕がやる」
ドゥはそう言って、彼女のエプロンのリボンを外す。
「あ…、そう?」
「うん…Youはゆっくり休んでて、…まだ疲れてるでしょ?」
Youの後れ毛を耳にかけながら、彼女の頬を指の背でなぞった。
「…気を使わせちゃった?」
「ううん…僕が、そうしたいの。」
ね?と可愛らしく首を傾げ、ドゥはYouの頬にキスを贈る。
「……ん、じゃあそうする。」
彼女はそう言って、ドゥの背中にピッタリとくっついた。
「へぁ………You、ど、どうしたの?」
「…だって、ドゥに頼って、うんと甘えていいって言った。」
「た、…確かに言ったけど。」
「…今日はずっと、私の傍にいてくれなきゃヤダ。」
「」
「アップルパイも切り分けて、紅茶も淹れて、私の好きな映画をふたりで見るの。……分かった?」
「も、勿論だよ」
「後、お風呂も一緒に入るの。」
「そっ……それは…。」
動揺するドゥの腰に回した腕に、ぎゅう、とありったけ力を込める。
「うっ……、うう…。」
「分かった?」
「……。」
「…ダメ?」
「〜ッ……だ、ダメじゃ、ない、…よ?」
「ん」
満足したYouは、笑いながらドゥの背中に額を擦り付け、彼を解放した。
「ソファで待ってる。…早く来てね、ダーリン?」
「あっ………分かったよ、ハニー…。」
くすくす笑ってリビングに戻る彼女の背中に、ドゥは小さく肩を竦めた。
「もう……、本当に敵わないなぁ…♡」
困った様に、…それでも嬉しそうに呟くと、彼は紅茶のパッケージからティーバッグをふたつ取り出す。
ほのかに香る茶葉と、オーブンから漂う香ばしい香り。
「……Picture me upon your knee♪」
Tea for Twoを口ずさみながら、彼は最愛の恋人とのティータイムの支度に取り掛かった。
一方でYouも、ソファにゆったりと背中を預けながら、ドゥの歌声に耳を傾ける。
「Just me for you, and you for me alone…、ふふっ。」
歌詞の続きをひとり呟き、リモコンを手にした。
そうだ、…特別にロマンチックな映画が良い。
YouはNetflixから、ふたりのお気に入りである"美女と野獣"を選び、再生ボタンを押した。
ドゥの歌声のアップルパイの香りを楽しみながら、Youはうっとりと目を細め、画面を見つめる。
うとうと目蓋を揺らしながら、次に目を開いた時に広がる光景を想像し、彼女は暫し微睡みに浸った。