粘り勝ち「あ、ない」
終業後、この後ある打ち合わせのための資料を家に忘れてきたことを思い出した。時計を確認すると走って往復すればまだ間に合う、事務所スタッフに一度家に戻ると声をかけ走り出す。
幸いにも信号に引っ掛かることなく思ったより早く着いたので、同居人の治崎に声をかける余裕くらいはありそうだ。最近、忙しくて顔見てないな。
「おかえり」
玄関を開けた音が聞こえたのだろう、リビングに続く扉が開いた。
「ただいま、ごめん、治崎。また出ないといけなく、て……」
目線を合わせて気付いた。出てきたの、そういうことか。
「忘れ物取ったら出ないといけなくて~!!!えーーーー!!!やだ!」
「さっき聞いた。残念だな」
「玄関でどこまで出来る?5分ならいける」
「また今度で良いだろ、風呂のついでに出てきただけだ」
「タイマー設定した」
「5分だろ」
画面を見せてあとは治崎次第。多分大丈夫、俺のこと好きだし。
「……あまり大声出すなよ。最近、隣の部屋のやつが見てくる」
「あ、治崎も?やだよねあれ。今度大家さんに言っとく」
「靴脱げ。遠い」
こちらが引かないことが分かった治崎が壁に背を預け、俺は時間が惜しいので迷わず抱きつく。
お互い背丈も変わらないので、鼻や口が塞がれて呼吸が出来ない事もない。ただ、少し話す時くすぐったいくらいで。
「はーーーー、きょうさぁ、帰ったらおきててくれる?」
「起きていられるなら」
「がんばるよ?おれ。色々、明日朝遅くていいし」
「へぇ、だったら明日でも良いじゃないか」
「朝はなんかやなんだよなぁ」
お互いの肩に頭を預けてこそこそと話す。治崎の体温はそこまで高くはないが、心地良い。密着しているから普段石鹸の香りがしている治崎からどうせすぐ出ていくからと上着は着たままだから少し惜しい気持ちになる。
「、わ」
おもむろに背中に回っていた治崎の手が上の方へと移動した感覚があった。
「のびたな、次はどうするんだ?」
「まだ決めてない、切るけど」
「ふぅん」
「編み込みとかどうだろう、手間かな……」
襟足を弄られるのは珍しいことではない、ただ、場所と時間がいつもと違うだけで。少し身をよじって治崎の指から逃れたいが、このまま好きにさせておきたい気もある。自分も、と治崎のシャツを握ったあたりでタイマーが5分経ったことを知らせてきた。
「風呂」
背中を二回叩かれ離れるよう促される。名残惜しいが、このために帰ってきた訳じゃないからと気持ちを切り替える。
「何して待ってる?」
「なにかしら」
離れた治崎はもうこちらを向いていない。
自室に入り、目的のものを取るついでに簡単にベッド周りを片付けておく。
「ちさきー!なるべく早く帰ってくるからねーー!」
すでに浴室にいる治崎に聞こえるよう少し声を張る。まあ、聞こえてても聞こえてなくてもいいけど。
集合した時1人に「?首の後ろどうした?」と聞かれるまで爪で傷つけられてることに気付いておらず、誤魔化すのが大変だった。