花いかだ――ただ忘れられない香りがある。
それは拙者が幼いころ、それこそ数えで5つにも満たないころの話でござる。親と喧嘩して衝動的に家を飛び出したことがあった。
なぜあんなにも気分が昂ってしまったのか原因は忘れてしまったが、なにやら自分の言い分を聞いてもらえないと躍起になったはず。確かあれが拙者の初めての家出と捉えている。両親に聞いてみたい気もあるが、まあ細かいことは置いておいて構わぬであろう。
それで、普段ならば森へ向かうのだが。その時はふと海辺へ寄ったのでござる。
その日は結ばねば髪が乱れるくらいの風が吹いていた。
ほんの気まぐれだったと思うでござるが、その頃から自然の声が聴けた拙者にとって、風はすでに友達だった。開けた場所に吹きこんでくる風は常に体の隙間に清涼を運んでくる故、より広々とした場所で心の内に巣食ったモヤを吹き飛ばしたかったのやも知れぬ。
そうしてしばらく拓けた浜辺に座り込んで、風にあたってすんすん泣いていたら冷静になってきた。
こうして泣いていたところで、どう転んでも家を無許可で出てきた時点で怒られる。恐らく拙者を探しているだろうし見つかったら一度注意を受けるし、家に帰ってももう一度説教がある。だったら稲妻の落ちる回数を減らすために、自分から潔く帰ろうと思ったのだ。
いや怒られることは拙者も怖かったでござるよ、特に母上が。もろろん父上の拳骨もこの上なく効いたが、母上の説教は、楓原の家では実質的な最終勧告なのでござるよ。母上のあの絶対零度の視線で見つめられては、父上でさえも震えることしかできぬよ……。それはもう恐ろしかったでござる……。恐怖の上では姉上が秘蔵の酒を船員に飲まれた時の荒れっぷりといい勝負で、うう、思い出したくないでござる……。
ともかく、稲妻男児として、いずれ起こりうることを引き伸ばしにしていてもしかたがない。
気も済んだしそろそろ戻ろうかと腰を上げた時、ふと足元に気をやったのだ。
白い花が捨て置かれていた。
砂浜に半ば埋もれるようにひっそりと存在していた。
それはもう美しい花だった。
淡い月光に照らされて浮かび上がる花弁の輪郭は今にも消えそうだった。
であるというのに、花の香りに肌が触れたと錯覚させるくらい濃厚な存在感があった。
そして。
「おいしそうでござる」
拙者はその花を飲み込んだ。
それはもう躊躇など一切なく。
どうしてそんな思いもつかない行動に出たのか、今でもわからない。
だが、閃くような稲妻が頭の内側に落ちて、思考が花の色のように真っ白に塗りつぶされたことは覚えているでござるよ。
そうしなければならないと考える間もなくとにかくその『花』を望んでいた。
まろやかな味が下の上に広がって、その衝撃がまっすぐに脳髄にまで駆け巡る。
抵抗感もなしにするりと喉から肚へと滑り落ちていって、胸いっぱいに甘美な芳香で満たされていく感覚。
己の足りない空洞がなにかのかけらで隙間なく満たされる、そんな甘美な低迷まで覚えた。
不思議と、心強い心地まで得たのだ。とにかく訳もわからないくらいにあの時の拙者は満足していたのでござる。
見た目はあんなにも優美で儚い花だというのに、その秘めたる力強さたるや。
その輪郭は今にも消えそうであるのに同時に光を放っているようでもあった。
儚さと矛盾した性質を併せ持つその花は、それほどまでに拙者の記憶にその存在を強く刻み込んでいった。
その香りを鮮烈に残す出来事だったのだ。
……そうでござるな。これは言うなれば、拙者が己を『花食み』だと自認するきっかけにもなった、拙者の根幹にまつわるおとぎばなしでござる。
あんな充足を味わっておいて、それ以来何もなしでは、飢えないわけがない。
そうして拙者の運命を探す旅路が始まった。
ただ、海辺で縁のあった『花』故、一体何処から流れ着いてきたのかも見当が付かぬ。
さすれば異国の風だったやもしれぬと記憶を掘り返しても覚えている風は、どこか温もりのあったということばかりで重要なことはあまり判明してはいないでござる……。
あれから数年が経ったが、世界を旅しても未だあの時と同じ香りに立ち会うことは叶っていないのでござる。
忘れられない、忘れようとは思わない、忘れたくない……。
――拙者はその香りに、今も胸をえぐられ続けている。
「も〜〜〜聞いてるでござるか平蔵~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!」
「もう3時間も耳の穴かっぽじって聞いてるよこのよっぱらいがさあ」
頬杖をついて横目で隣の連れをみる。先ほどからお冷やを進めているのに全く手に撮ろうとする気配がなく、喋り通している。
連れが騒いでいるからか、こちらを向いていた店員とバッチリアイコンタクトを取る。
うざいくらい絡んでくる酔っ払い(*友人)への対処はどうすればいいですか。
普通の10代中盤の少年はすでに出来上がった酔っ払いへの対処は修めていないので、安心して店の外に連れ出してください。
「……それ、なにも安心じゃないんだけど」
はあ、と少年は諦めたようにため息をついた。
稲妻の自治組織『天領奉行』に所属する少年、鹿野院平蔵は居酒屋で友人と夕食を囲んでいた。
鹿野院平蔵は自称探偵である。
もちろん年端も行かない少年が『探偵』を名乗ることに対して未だ白い目で見られることが多い。
だって仕方がない。
大抵の人は、平蔵が天領奉行を仕事としているのではなく、事件を追い求めている過程として在籍しているだけだというふうには捉えてはくれない。
というよりも平蔵としては己が探偵であることが前提となっているのであって、以前所属していた探偵事務所よりもより事件が集まる天領奉行に所属することを選んだという方が正しい。
自分に合った環境を取捨選択することは賢い生き方だと心得ている。
『名探偵』として稲妻中の犯罪者たちを震え上がらせるには、まだまだ平蔵も知名度が及ばない。
正しい理解が得られなくても、己の正義のために突き進むのみだ。
ちなみに普段の平蔵は天領奉行における掟をろくに守らずに頭の固い上司に目をつけられ、よく怒られてばかりいる。大抵の同心は、優れた実績を持つまたは純粋に慕われている存在である平蔵に口出しして来ないが、彼女だけは別だ。
見廻りや書類仕事をせずに事件の調査ばかりにかまけているのだから当たり前かもしれない。
上司である九条沙羅は、親元を離れて以降、平蔵の在り方に注意を飛ばしてくれる貴重な存在だ。それでもあの堅物鴉上司は、平蔵の行動を理解している上で叱ってくるのだ。
きちんと成果は挙がってるんだからもうちょっと寛容になってほしいものだ。
そんなこんなで今日も朝からお叱りを受け、溜まった報告書類を提出してから珍しくも至極真面目な態度で見廻りに取り組んでいたところ、今日は南十字船隊が交易で稲妻に寄港中という噂を聞いた。
では恐らく彼も来ているだろう、と港へ風のようにひとっ走り。
なお噂を耳にしてすぐに天領奉行所を飛び出してきたのできっと明日も朝一で上司に説教されるがそんなの知らん。事件の捜査だと言っておけば最後におもーいため息と書類の追加くらいで許してくれるだろう。
これを普通の同心が横着したら職務怠慢の罪により後悔しても足りないほどの罰を与えられるだろうが、これまで納めてきた平蔵の功績はそんなチャチな違反じゃ到底チャラにならないくらい絶大だ。言いくるめればまあなんとかなる。
ならなくても真面目な上司である彼女の厚い情に訴えかけたてどうにか踏み倒そう、と明日の算段をつけておく。
そうした経緯を経て今、夕刻になって普段は会えない友人である流浪人、楓原万葉をとっ捕まえて共に酒場へと飲みにきていた。
とはいえ、平蔵はまだ酒を飲める歳ではないのでジュースを頼んだ。その横で万葉だけがベロベロになっているわけだが。
「それにしてもだよ?早すぎない?夜を肴に楽しむにはまだまだこれからなのにさあ。はー全く。とりあえず、その酒癖は本当にどうにかなんないかなあ」
「はっはっは、焼き魚うまいでござるぅ」
「いや僕の話も聞いてよハメ外しすぎでしょ」
酔っ払いというのは往々にして理不尽極まりないものなのでここの店のツケを万葉にすることで許してやろう。
君ってば旅の途中、海でも陸でもいっつも魚を釣って食べてるって言ってたのに。
大抵の料理なら注文できる文明的安息地である飲み屋ですら焼き魚を食べてどうすんだと思わないでもないが、好き好んで魚をむしゃむしゃ喰っている本人が超絶楽しそうなのでまあどうでもいいか。
居酒屋で管を撒いている万葉はすでに出来上がっている。
ぐでんぐでんになって、もはや自分で体制を維持できない上半身を机に突っ伏しているにも関わらず、酒瓶の首部をつかんで離さない。このよっぱらぴーがよ。
万葉の名誉を保つために言明するが、断じて楓原万葉は普段からこんな酒カス極まりない男だというわけではない。
全ては酒のせいだ。
単純な話、万葉は酒にめちゃくちゃ弱い。
普段は風のように自由な彼が、酒の一滴でべちゃあと重力に負ける姿はいつ見ても驚きを通り越して感心まで進む。
平蔵は机に転がるたったひとつの空き瓶に目をやっては、もう一度はあとため息をついた。
弱い。アルコールに弱すぎる。
もう一度言うけど、前後不覚になるまでがいくら何でも早くない?
「へいぞーは…………?なんで飲まないのでござるか………………?」
「うーん、僕まだお酒飲める歳じゃないからね。今日は遠慮しておこうかな」
……いや別に嗜まないわけではないのだけれども。
一緒に卓を囲んでいる僕、鹿野院平蔵は酒に関してはザルを通り越してオオワクである。飲んでも飲んでも酒に呑まれたことはない。
聞き込み中に酒で相手を潰して重要な証言を得たり、酒に酔ったふりをして相手を出し抜いたりと捜査の上で役に立ちまくっている。この体質に生んでくれた親には感謝の気持ちを込めて普段から頭を向けて寝ている。ありがとう父さん母さん。
特に今日は酔い潰れた万葉(直感がなくても誰だって彼が絶対に酒に潰される未来を予測できる)を家まで運ばなくてはならないので、酒を飲んでいる場合でもないというのもある。
さらに万葉は親しい友人に対して過保護な面があるので、そんな彼に心配をかけないために彼の前ではハメを外しすぎることをちょっと自重している部分がある。
一時の失態でこの友情を失うのはお互いに勘弁したい。
実は、万葉がこのように稲妻にいることは珍しい。
一つの場所に留まることなくさすらいの旅をしている万葉は所定の住宅を持たない。
こうして飲みつぶれた後に平蔵の家に世話になることも多かった。
だから別にこうなったら万葉の面倒を見るのも初めてじゃない。
今までの付き合いの中で何度もこうして食事を共にしてきたし、いろんな話をしてきた。
――彼がとある『花』の話をすることだってもう知っている。
「う、ううう、もう飲めないでござるぅ…………あの『花』なら、いくらでも腹に入る、こんなにも、こんなにも切望しているというのに…………」
(来た)
『花』の話題はそもそも苦手だけど、それをおくびにも出さないで飄々としている風を装う。
万葉は瞼を上げ下げして睡魔と戦っている。店からお暇するのにそろそろ潮時なようだ。きっとこれ以上は彼から深い話が飛び出てしまう。
いつだって天才的に冴えてい平蔵の勘がそう言っている。
「おっちゃん!今日も残りは万葉にツケておいて。明日払いに来ると思うから」
「へい毎度!今日も甲斐甲斐しいねえ、あっついなーこりゃ」
「うっさいよ。久しぶりにしか会えない友人なんだからこれくらいいいでしょ」
支払いの内五分の四ほどの金額を大雑把に机に置き、奥の方へと声をかける。
店主の冷やかしに呆れたように返事をしてから、万葉の肩を揺すった。
「万葉、ほーら帰るよ万葉。いい加減自分で歩かないなら、この場に置いていっていいってことかな?」
「ぅうむう」
「うーん、ダメだねこれは」
一緒に食事をした日にその日の宿が決まっていないようなら平蔵の家に泊まることも何となくのお決まりになった。
よいしょ、と力の入らない体を脇の下から押し上げるようにして支える。肩を貸して店を出た後は、無理矢理にでも家までの道のりを歩かせる。
普段はたおやかな笑顔を讃えながらもあまり心の内を広く見せない男が、今は赤ら顔でふらふらふらふら、平蔵の隣で気が抜けた様子で危なっかしい。
「……」
きゅう、と平蔵の胸が鳴いた。
「……ほら、家着いたよ万葉。大丈夫かい?」
「あの……『花』を…………いづれ、……また、一目……………………むにゃ………………」
「はいはい、見つかったらいいね。もう限界でしょ?眠いんなら寝ちゃいなよ。また明日」
「うむ…………………………せっしゃ、ねむ…………」
間も無くするうちに、静かな寝息が聞こえてきた。
「……………………………………………………やっと寝た」
押し入れから布団を2組引っ張り出して寝所を整えると、片方に万葉を放り込んだ。もう一方に平蔵もごろりと横になる。
暗闇の中、は〜〜〜〜〜〜〜〜っと肺の中の空気を吐き切るくらい長いため息をつく。万葉とは反対の方向へ寝転がり、自己嫌悪に包まれながら目を瞑った。
(見つかるといいねなんて、とんだ嘘吐きだな)
そんな日は、僕が一生来させないだろうに。
――だってこの男が探し求めている花とは、平蔵の生み出す『花』なのだから。