すくってシリーズの今書いてる話十二時間ぶりに開けた室内はぬるい空気が籠もっていた。
澤村は窓を開けて換気する。室内の光が外に漏れないように遮光カーテンを閉めた。
十月が始まったというのに今日の気温はほとんど夏といっていいくらいだった。もしも制服だったら今日から衣替えなので暑くて敵わなかっただろう。スーツも似たようなものではあるが。
ネクタイを外してジャケットを脱ぎ、その辺のハンガーにかける。明日からはラフな服装でいいので気が楽だ。
適当に買ってきた弁当とスープをあたためてテーブルにセットし、黒尾に準備できたとメッセージを送る。弁当の蓋を開けたところでスマホが震えた。画面をタップしてスピーカーにする。
是枝を捕まえたときに澤村が川に落ちた映像がSNSで拡散されて、それを見た黒尾から久しぶりの連絡が来た。それをきっかけに二人は時間が合えば通話するようになった。
「澤村さん、お疲れ~。今日どうだった?」
「黒尾もお疲れ。午前は挨拶回りして午後は引き継ぎって感じだった」
「迷ってた服はどうしたの?」
「今日だけスーツにした」
「スーツいいね。刑事って感じ」
「生活安全課は刑事じゃないけどな」
地域課長の三山が澤村を生活安全警察適合者として署長へ推薦してくれた。澤村は書類審査と筆記試験、それから面談をクリアして、生活安全任用科教養を受講する資格を得ることができた。
警察学校での実務教養と警察署での実務研修が四週間ずつ、合計八週間の教養を受けた。教養後の選考に合格した者は晴れて生活安全任用科教養修了者名簿に登録され、任用されるのを待つ身となる。
普通はすぐに配属されるわけではなく、一年あるいはもっと長い間待つ者もいる。しかし澤村は運良く所属している仙台中北署の生活安全課で産休に入る課員がいたため、十月の異動で地域課からスライドして任用されることになった。
こんなにトントン拍子に進むことはかなり稀らしい。良かったな、と背中を叩いてくれたペア長の郷島も沿岸部にある警察署の刑事課に配属されることになり、ペアは解消することとなった。もう少し郷島から色々教えてもらいたい気持ちはあったものの、希望していた課に異動できたのは嬉しかった。
「明日からはなに着んの」
「上はシャツで下はデニムじゃないやつ。こないだスガと買いに行った」
内示が出たとき、嬉しい気持ちと同じくらい大きかったのが私服警察官ってなにを着ればいいんだという疑問だった。
前所属が生活安全課だった三山に相談して大体のことを教えてもらい、菅原に付き合ってもらってなるべく幼く見えない、かつ威圧感のない服を買った。
「近いとこに住んでるとそういうことができていいね」
「おまえ、俺の服なんか選びたいのか」
「うん」
菅原もやけに楽しそうだったし、他人の服を選ぶのが好きな人間というのが意外といるものなのだと知った。黒尾もそういうタイプなのか、と自分の奥底にある期待をマスキングする。
「俺は黒尾が似合う服とか少しもわかんないな」
「いや、なんでも似合うでしょ」
「うーん、なんかジャージのイメージが強い」
初めて会ったときもジャージだったし、大学時代に会っていたときもジャージとか緩い部屋着が多かった気がする。いつも会うのがお互いの家とか近所だったからだろう。
「次はジャージじゃないから! あー、そういえばさ」
急に黒尾のテンションが低くなる。なにか嫌なことでもあったのだろうかと、澤村はスピーカーから聞こえてくる音に耳をそばだてる。
「十一月の試合の日、澤村さんに会うって木兎に言ったら一緒に行きたいって言われたんだけど連れていってもいい?」
なんでそんなことで暗い声を出すのだと疑問に思いつつ
「どうせならみんなで飲もうか? 店は探しておくから。スガも旭も試合に来るし、みんなで飲んだら楽しいだろ」
そう言えば、黒尾はうう、と歯切れの悪い返事をした。
「なんだよ。どうかしたのか?」
「飲み会のあと二人でどっか行きたいんだけど」
切羽詰まった、と形容していい声だった。
なんでそんな声で二人でどこかに行きたいなんて言うのだろう。
澤村は心臓のあたりがきゅっと引き攣れる気がした。
「アルコールありとアルコールなし、どっちがいい?」
「ないほうがいいかも。喫茶店とか、落ち着いた感じの」
澤村はいくつか頭のなかに店をピックアップする。飲み会が何時に終了するかわからないが、深夜まで営業している喫茶店は心当たりがある。
「いいよ。店決めとく」
「ああ、良かったぁ」
急に気の抜けた声。その緩急に翻弄されそうになる。
これが異性同士だったらすぐに恋愛に発展しそうだ。そう思ってしまうようなことを黒尾はよく澤村を相手にしてくる。
たとえばこの夕飯を食べながらの通話も、黒尾と話すと仕事のストレスがちょっと薄れると澤村が言ったら、時間が合うときは話そうと提案されたのだ。だから最近は週に一度は必ず連絡を取っている。
相手が女性だったら自分に好意があるのではと考えてもおかしくないと思うし、現に澤村もときどき勘違いしそうになる。
その度に澤村は、相手は異性愛者なのだからと自分を諫めている。期待しても、好きになっても辛い思いをするのは目に見えている。
たぶん黒尾はずっと澤村と連絡を取り合っていなかったから、久しぶりに声を聞いて昔のことを思いだし、これまでの隙間を埋めたいのだろう。懐かしいという、ただそれだけのことだ。
「飲み会の店もスガと相談して決めておくな」
「木兎は牛タン食べたいって言ってたよ」
「わかった。リクエストはありがたいよ」
なにを食べたいとはっきり言われるほうが店選びは楽だ。牛タンだったら以前に連れていってもらったとびきり美味しい店がある。そんなことを考えていると引き攣れた心臓の痛みがいつの間にか消えていた。