酒のやつ「あのさあ、パソコンのオッサンと喧嘩でもした?」
常にオイルのパルファムを嗜む同居人にそう聞かれたのは、いつのことだったろうか。機械を愛し、日がな一日油まみれで火花を散らしている彼女が探りを入れてくるのだから相当だ。しかし、ミラージュには全くもって心当たりがなかった。
噂の中心人物のクリプトとミラージュは恋人同士だ。いつからかとはっきりしたことはわからないが、気づけば鼻につく同僚から気の置けない友人、そして酒の過ちから体の関係を持ち、公言はしていないものの、レジェンドたちの間では公然の秘密となっている。だからこそ、ランパートは比較的聞きやすい同居人に、クリプトの様子を聞きに来たのである。
ところが、なんであんな様子なのかを知りたいのはミラージュとて同じなのだった。
いつからだったのか、これまたはっきりしないが、ミラージュがクリプトの様子が変だなと気づいたのは少し前からだった。出会った頃のように、こちらを見ては顔を顰め、はぁとため息を吐き、不干渉を望む猫のように、するりと姿を消してしまうのである。気づいた当初は、まあ機嫌の悪い時にはままあることだしな、と気楽に構えていたミラージュも、三日四日と続けば流石に只事ではないと焦りが生まれてくる。この頃になると聡いレジェンド数名には仲直りを切り出すよう促されるようになり、おいしい夜食などをこさえて彼の元を訪れたりするものの効果はなく、ならばと恥を偲んでレジェンドやスタッフたちに聞き込んでは見るものの、常から身辺の情報を消すことに熱心な彼のこと、有益と言える情報は得られなかった。
何度目かの夜食を持ち、クリプトのいる部屋を訪れた時のこと。まずは陽気さをひと演出とリズミカルにノックをしたとき、尋常ではない物音を立ててクリプトが現れたことがあった。いや、正しくは現れたというよりも、真っ暗なドアの隙間からクリプトのドローンが顔を出していた時はあった。無事かと聞けば、問題ないという。そんなわけがあるか。珍しくミラージュは食い下がるも、クリプトとて引く様子はなく、未だ天の岩戸は固く閉じられたままである。
「なあ、クリプト。話し合おうぜ。俺、その、何かしたか?いや別に心当たりがあるわけじゃないぜ。本当だ!本当に心当たりがないから困ってるんだ。ローバにもバンガロールにも俺がどうせ悪いって決めつけられるし、頼みの綱のジブラルタルだって———」
「なんでもない。お前を責めてもない。全て気のせいだ。今はやらなければならないことで取り込んでいるから、お前を構う暇がない。理解してくれ。」
「なんだぁ?また何かヤバい橋でも渡ろうとしてるんじゃないだろうな?いつだってこのスーパーミラージュ様の力が必要になったら——」
「大丈夫だ。気持ちだけ貰っておく。夜食もな。そこに置いておいてくれ、後で食べるから」
努めて明るく振る舞っていたミラージュも、これにはムッとした。置いておいてくれだと?せっかく作ったのに!一緒に食べるために作ったんだ。だってそう、俺たちはこうして距離を空ける前からApexゲームの都合で忙しくてなかなか会えなかったんだから、せめて少し顔を見合って話すぐらいいいじゃないか。それなのに、ドローンで、声だって今スピーカー越しだぞ!信じられるか?
しかし、ミラージュにはこの気持ちを正しく理解することができなかった。漠然とした嫌な気持ちだけを抱え、低く「そうかよ、せいぜい1人で………フン、偏屈爺さんめ」と、慣れぬ捨て台詞を残すのが、彼の精一杯だった。
不貞腐れた様子を隠すこともできず廊下で踵を返してしばらく、おずおずといった様子で背後から声をかけられる。
「ミラージュ」
一縷の望みをかけて振り返るも、案の定姿は見えない。しかし薄く開いたドアの向こう、うっすらとクリプトの装飾品などが廊下の照明を反射しているのを捉えた。
「なんだよ」
不機嫌そうなミラージュの低い声に、クリプトは少し身構えた様子だった。遠くで銃声が聞こえたかのような緊張が走る。
クリプトはしばらく言葉を選んでから、そっと話し始めた。
「お前の気持ちは嬉しい。それに嘘はないが、しばらく放っておいてくれ」
「おいオッサン。久しぶりに会話できたと思ったらそりゃないぜ。一体何だってんだ?」
「ごく個人的なことだ。今は都合が良くない。追って俺から連絡するから、それまでは悪いが——」
「放っておけって?ああ、いいぜ。わかった。お前が椅子と一体化してキノコが生えようと、俺からはお前のところには行かねーよ」
「悪いな、助かる」
「助かるだってよ!」
珍しく荒れた様子のミラージュが勢いよくおろしたステンレスのジョッキが小気味いい音をあげ、気の抜けたエールを撒き散らした。多少飛んだ飛沫に顔を顰めたものの、面倒見のいいレイスは払うのみで、大人しく相手をしていた。
「そう。珍しいわね」
「だろ?さしものミラージュ様と言えどあの態度は許せねぇ。今回ばかりはひとつガツンと言ってやるんだ。こう——」
「貴方のことじゃないわ、ミラージュ。クリプトのこと。彼がそんな曖昧な態度を取るなんて変だわ」
思わず熱くなり、今まさに回らんとエンジンのかかっていたミラージュの舌が、レイスの思わぬ発言にみるみる萎びていった。振り翳していたジョッキも下げ(その勢いで中身が溢れてレイスがぬぐい)、はぁと深いため息を吐いた。
「なぁ、何でみんなクリプトばっかりなんだ?俺は確かに笑顔の似合うハンサムだけど、涙だって似合うんだぜ」
少しは慮ってくれてもいいじゃないかという訴えは、レイスに時折起こる謎の頭痛に飲み込まれてしまったらしい。ひどく辛そうに顔を顰めているレイスを見つつ、すっかり慣れてしまったミラージュは彼女の頭痛が治まるまで、「疑うわけじゃないけど、俺の話を聞きたくないから頭が痛いふりしてるわけじゃないよな?」などと茶々を入れて足を蹴られ、食べたくもないピスタチオの殻をひたすら割ることにだけ集中した。
5つか6つほど割った頃、レイスが一息ついた。「ごめんなさい、ミラージュ。貴方も大変な時に」と一言ねぎらいを入れると、近くにあった水を一口飲み込んだ。
「お詫びと言ってはなんだけど……」
そういうと、彼女は端末をしばらく操作し、ある酒の写真を見せてきた。しばらくピンとこなかったものの、よくよく見れば、それがとても希少で人気の高い酒だとわかった。難読なラベルのついた銘柄を言い当てれば、さすがね、と薄く微笑んでくれる。
「この酒の入手ルートを知ってる。教えてあげるから——」
「何てこった!本当か?!いやぁ、お釣りが来るくらいだぜ!ま、釣りと言っても——」
「釣りね。ちょうどいいわ。何本か手に入れてほしいの」
「え?ああ、まあ、いいぜ。買い付けに行くくらいなら問題ねえ」
「買い付けね……私が知ってるのはルートだけで、伝手があるわけではないの。悪いんだけれど、現地で当たってみてくれる?」
「あぁ……そうなのか?まぁ、別にいいぜ。ルートはわかるんだろ?お安い御用さ。酒の対価を考えりゃ……」
「手間賃として、諸経費は私が持つわ。あとはそう……情報に強い人間が必要ね」
「そしたら、俺のバーに来る客の中から良さそうなのを——」
プラン立てに夢中で、机の上に投げ出されていたミラージュの手首を、レイスは力強く握り込んだ。ただならぬ雰囲気に、気圧されながら彼女を見れば、白い瞳が真正面からミラージュを見つめていた。
「ダメよ。クリプトを連れて行って」
「は、ハァ?なんでだよ。今あいつは俺の顔も見たくねぇって——」
「そんなことは言ってないはずよ。」
「でもあいつ、連絡するまで俺のところには来るなって——」
「ミラージュ。」
嗜めるように、語気を強め、レイスはミラージュの言葉を遮った。
「いいから彼と共に行って。」
そうして、レイスは再び強く手首を握り込んできた。人の頭を一撃で粉砕するスナイパーライフルを揚々と担ぐその掌から、並々ならぬ圧を感じる。
「この話はうちうちで済ませておきたいの。クリプトなら変に詮索はしてこないし、彼ほど情報に強い人間を私は知らない。
彼を連れて行けば、事が順調に進む。間違いないわ。」
「お前のその……たまにあるインチキ占い師みたいな物言い、なんとかならないのか?
具体的に何が良いことにつながるのか教えてくれれば、俺だって色々やれるぜ」
「この次元ではそうはならないわ。
わかった?ミラージュ。必ずクリプトと共に行って。そして……感情的になってはダメ。」
しばらくは黙りこくって抵抗していたが、やがて根負けしたミラージュがムッスリとしたへの字口で薄く数回頷いた。安心したような薄い笑みを浮かべたレイスは手から力を抜き、ポンと励ますようにミラージュの手を叩く。
「それじゃ、よろしくね。」
最後にそれだけいうと、レイスはさっさと伝票を持って後にしてしまった。残った殻のないピスタチオと気の抜けたエールを煽りながら、いつごろクリプトに連絡すれば面倒な説明も言い訳もしなくて済むかな、などと考えることで、ひとまず重く沈む気持ちに蓋をした。
「もしもし、クリプト?私よ。さっきの話も聞いているんでしょう?
貴方に頼みたい事があるの。きっと今抱えている貴方の悩みに役立つはずよ」