スイートスリープ 自室で資料を読み込んでいたふみやは背後に落ちた水音に振り向き、眉を顰めた。金色の粘液のような物体が水溜まりのようにフローリングに流れ、浮き上がる。
「うわ、最悪」
ぶわりと金色の液体が溢れ,人の形になった。
ふみやと同じ顔をしたソレは無垢な顔のまま、羽を広げ白と黒の混じる存在に成る。
「伊藤ふみや、貴様まだもだもだしておるのか。いつ天堂天彦に想いを伝えるのだ? 我は飽いたぞ」
「あー……ウザい」
ふふん、といったように正邪のカリスマは浮いた足を踏み出した。
「ふぅん……恥ずかしいから何も言えないとは、まるで子どもではないか」
ふわりふわりとふみやに近寄ると摘み上げた何かを差し出す。小さな金色のハンドベルがふみやの目の前にボトリと落ちた。
「貴様にこれを授けよう」
「なにこれ」
「催眠術が使えるベルだ。これは天堂天彦だけにしか効かぬベルだ。何もできない貴様に、万能なる我からのプレゼントだ……さて、他の者にバレる前に我は去るが……健闘を祈るぞ、伊藤ふみや」
ひょいと摘んだベルをふみやは胡散臭げにチリチリと鳴らす。そして、何も変哲のないベルにしか見えないそれをオレンジ色のブルゾンのポケットにしまった。
「天彦」
「おや、ふみやさん。今日も首筋がセクシーですね。お風呂上がりですか? 天彦ドキドキしてしまいます」
端正な顔立ちに少し太めの眉と透き通るような色の瞳。すぐに赤くなる色素の薄い肌。柔和な品の良い笑み。
感情の乏しい自分が渇望してしまうほどの存在を目の前にして心拍数が跳ねるのを感じた。
ふみやは、ふぅと整えるように息を漏らすと二階の廊下に誰もいないのをチラリと確認する。
「ふみやさん?」
ふみやが何も言わないことを不思議に思ったのか天彦が首を傾げた。その彼の目の前に、ふみやは金色のベルを垂らして鳴らす。
チリ、チリン。
ふっと、天彦の表情がなくなってぼんやりとしたものになった。
「えっ、マジ?」
ふみやは驚きながらもベルを持ったまま天彦の顔の前で手をブンブンと振る。
しばらく悩んでから、ぼんやりとした表情の天彦の手を取り204号室に入った。派手な色合いの部屋の真ん中にあるベッドにふみやは腰掛けると、その横に天彦の手を引いて座らせる。
「えっと……どうしよ」
部屋に香る花のような匂いに惑わされるようにふみやは両手で顔を覆ってしばらく悩むと、顔を上げて口を開いた。
「天彦……えっと、俺の頭撫でて……あの……恋人みたいに」
天彦の手がゆっくりと浮き上がるとふみやの頭をふわりと優しく撫でる。髪を梳くように指先が黒髪に埋まり、頭皮にマッサージかのように触れて、そのまま耳の裏側に指の腹が触れた。
「っ、ん……いや、もういい……大丈夫……えっと……そのまま、俺が部屋から出て行ったら目を覚ましていいよ……」
バクバクと激しく打つ心音と共に血流の巡りがぐわりとふみやを襲う。急いで部屋から出て行き、誰もいない廊下を急ぎ足で歩いて自分の部屋に戻った。
「いやいや……マジ、マジか……本物か、これ」
手の中でチリンと鳴るベルにふみやは赤くなった首と耳を隠すように触れた。
廊下でふみやと話していた天彦は、チリンというベルの音に意識が遠のくのを感じた。
同時に天彦の意識の中に声が響く。
「正邪め、妙なものを与えたものだ……我ができるのはアレとアレにバレぬように貴様の記憶を残すことのみ……天彦よ、我は見守ろう。貴様がこのセクシーの芽をどうするのかを、な」
何が起きて、誰が天彦に声をかけたのか、自分がどういった状態になったのか疑問に思うことは多いが何よりも、ふみやが『天彦……えっと、俺の頭撫でて……あの……恋人みたいに』と言って頭を撫でさせたことに驚いていた。彼が自分をそういう対象として見ていたのかと、いや、単なる興味なのかもしれないが。
「いや、いやぁ……」
部屋に取り残された天彦はドアの閉まる音にパチンと目を覚ます。頬を紅潮させ、先程までふみやの頭を撫でていた手を広げて、見つめた。