梅雨の譚金木犀が銀木犀と再会して2度目の梅雨。優しい小雨が降っていた。銀木犀は縁側から庭先の紫陽花を眺めながら、奥から聞こえる金木犀の声に耳を傾ける。
「案外、誘ってみるものですね。貴方がここに来てくれるなんて思ってもみませんでした」
「…そうか」
軒先から垂れる雨粒までもが影を作るほど鮮やかな紫陽花の色が、焦げ茶の艶やかな木製の床に淡く反射している。
座敷の奥から金木犀が顔を出した。手に持っている盆を机に置き、銀木犀の反対側にある座布団に座る。
「お着物の礼です。召し上がって下さい」
金木犀は良く似合う深い黄色の着物の袖を抑えながら、透明硝子の皿を銀木犀の方へと差し出す。皿には三角形に整った和菓子が乗っていた。
「このお着物は銀が仕立てたと、それ以外にも瑞香さんから色々な話を聞きました。貴方は……呉服屋になられるのですね」
自分が惹かれた反物は、全て艶やかな黄色だった。俺は、お前のようになりたかった。銀木犀の思いが声になることは無いが、金木犀は分かっているようだ。嬉しいです、独り言のような声は確かに銀木犀に届いていた。思わず銀が金を見やると、当の本人は全く気にしない風に茶を飲んでいる。
天然なのか意図的なのか、随分長い間時間を共にしたと言うのに、銀木犀は今も目の前にいる義兄の本心が分からない。俺を恨んでいるのか。俺がお前にそうさせたように、俺がなるべく長く苦しむように、と。金木犀が自分を引き止めた理由を、良い方向で思いついた試しがなかった。そんな事はないと分かりきっているのに。
当時「貴方と、もっと話がしたい」と言われたのを銀木犀は覚えている。しかしそれから折り入って大事な話というのを金木犀から聞いた記憶はない。そもそもあの出来事があってからここ1年は、今のように顔を合わせて話す事がなかったのだ。
その話とやらが済んだら、お前は俺と会わなくなるのだろうか。それは受け入れ難い事である。しかしいつか受け入れなければいけないなら、先延ばししても意味は無いだろう、というのが銀木犀の結論だった。
「…あの時、俺と話がしたいと言っていたが、なにを」
金木犀は少しだけ逡巡して銀木犀見る。紫陽花とも異なるが華やかで深い青色だ。
銀木犀の憂いの一方で、金木犀は色々と思ったり考えたりしていた。
確かに私は貴方と話がしたいと言った。それは長い間一緒にいたのに、貴方の事をろくに知らなかったから。私が大切に想っていることが、貴方に全然伝わっていなかったから。これからは沢山の話をしましょうという意味で言ったのだ。しかし先程の口ぶりからして、話しておきたい事があるから引き止められたと、この子は勘違いをしている様だ。しかも、その話が終われば自分は用済みになると思われていそうだ。いつも気難しそうな顔が余計に曇っている。
金木犀は、話したいことは1つではありません、察しが悪い子ですね、そんな寂しそうなお顔をしないでください、と言いたいことを言いながら目の前の弟を撫でくりまわしたい気持ちになったが、行動に移すのは抑えた。流石に大人になったのだ。
さて、どんな話をしても、話が尽きても、貴方に会わなくなる事は無い、そう伝えるためにはなんと言うのが良いだろうか。勘違いしている上、熱のこもった言葉は苦手な弟だ。多少は言い方を考える必要がある…金木犀は思慮深く口を開いた。
「このお菓子、水無月を食べる文化はご存知ですか?」
「…さぁ、知らない」
「1年の丁度真ん中、氷の節句に残り半年の無病息災を祈って召し上がるそうですよ」
銀木犀は、未だ口にしていないそれを見つめる。
銀には味の想像が出来なかった。銀が狐として生きていた頃の食事は木の実や生肉など淡白なものだった。それに加え、妖になってからの1年間は何も口にしていない。生物としての命が無い妖は栄養を摂る必要がないからだ。甘味など銀木犀にとっては縁遠い存在だった。
ひそかに銀木犀が困惑しているのに気付かないまま、金木犀は話を続ける。
「私も支子さんに教えてもらったんです。家族と一緒に食べると良いって。大切な人が病にならないように、幸せで、健やかであるように。そしてそれを見守ることができるようにと」
「お前もそう願っているのか」
「えぇ」
金は目を伏せ、少し間を置いていただきますと言い、竹楊枝で水無月を切り分け口に運んだ。この話はこれで終わり、と暗に示すようにゆっくりと咀嚼している。
見様見真似で、銀木犀は竹楊枝を持ち、水無月を切る。上に乗った柔らかいあんこと下のういろうは、楊枝が切った通り1口分の大きさに分けられた。銀木犀は躊躇いつつも口に入れる。
数回咀嚼すると、しびれが銀木犀の全身を駆け回った。素朴なあんこの味は銀木犀にとっては強烈な甘みに感じられた。酩酊のようにクラクラする。
「……すまない」
銀木犀は思わず戻しそうになり口を抑えた。味覚を始めとした感覚が過敏になるのもおかしくなかった。
金木犀は飲みかけた緑茶を置き、懐紙を差し出す。思わず肩に手を置きそうになったが、踏みとどまった。生者の金木犀は妖だが亡者の銀木犀に触れてはならないのだ。
「大丈夫ですか?」
「……初めて、食べた」
「え?」
「……人の身体を得て、初めて甘味を食べた」
銀木犀はなんとか菓子を飲み込む。
「こんなにも甘いなんて、知らなかった」
彼がこんなにも戸惑っているのは、また別の理由があった。銀木犀は先程の金木犀を思い返す。大切な人が病にならないように、幸せで、健やかであるように。銀は自身に向けられている思いだというのに、実感が湧かなかった。しかし、その願いを銀木犀なりに理解したのだ。そしてそれを返したかった。
「……無理して、食べる必要はありませんよ」
「無理……していない。慣れないだけだ」
また1口切り分け口元に持って行く。食べる直前に口を開いた。
「大切な人を思って食べるものなのだろう。なら、俺も食べたい」
金木犀はきょとんとした後、とても嬉しそうな顔で笑った。
雨足は次第に弱くなり、いつしか止んだ。
紫陽花の葉に水滴が滴り輝いている。
初夏の風が吹く。夏はもうすぐそこまで来ていた。