「…送っていきます。」
立派な日本家屋、松に囲まれた広い庭の端に停めてある車の鍵をリモコンで開けて、観月は言った。
ピシャリと閉めた玄関の扉はなかなか重厚そうな作りに見えたが、その内側からは何やら言い争うような声が聞こえて、そうでも無いのかもな、とぼんやり思った。
ここは山形、観月はじめの生まれた家。
訪れたのは今日で2回目。
玄関から先に、俺はまだ入ったことは無い。
姉や母が近所で使う用なのだという、丸っこい形のピンク色の軽自動車は、観月にもよく馴染んでいた。芳香剤は花の香りで、これも遺伝なのかとふと思う。小さめの作りの車に、ただでさえ着慣れないスーツを着ているせいもあって窮屈で、助手席のシートを一番下げられるところまで下げる。俺がシートベルトを締めたのを確認して観月が車のエンジンをかけたところで、誰かが運転席の窓をノックした。観月の二番目のお姉さんだった。
「吉朗くん、わざわざ東京がら来てけだのに、本当にごめんね。これ、良がったら新幹線で…」
「いや、ご迷惑お掛けして、こちらこそすみませんでした。ありがたくいただきます。」
半分ほど開けた運転席の窓から、観月のお姉さんが渡したお茶を受け取る。自分越しの会話を観月は俯いて黙って聞いていた。
「あの…お父さん、吉朗くんのこど、嫌いなわげでねぇど思うがら、はずめのこど、これがらも…」
「…もう出るがら、新幹線、時間あっから。」
気まずくなったのか、横から無理やり会話を切り上げて、観月が窓を閉める。
心底申し訳なさそうな表情のお姉さんに会釈をして、車は観月家の庭を出た。駅までは約一時間、新幹線の時間まではまだ全然余裕がある。
「お前、さっき少し訛ったな」
「…あの人はずっとこっちにいて、訛りも強いですから。つられてしまうんですよ。」
観月はこちらを見ずに答えた。
田舎の夕方は東京のよりずっと暗い。田んぼに囲まれた細い県道を、ピンク色の軽は慎重に走っている。
初めて観月の実家を訪れたとき、観月の親父さんは俺を見て真っ赤になって激昂した。
農家の長男、地元に根付く古い家系で、紹介したいと連れてきた相手が同じ男だったなんて、ここの価値観では、悲しいことに許されない。恥を知れだのなんだの、俺も観月も玄関先で大声で怒鳴り散らされた。絵に書いたような門前払いだった。
こういうことは何となく想定して、覚悟の上で新幹線に乗ってきた俺は、奥歯に力を入れて怒号に耐えていたが、隣で観月は冷たい顔をして、じっと親父さんを見つめていたのを覚えている。
それから半年程経って、今日が2回目の訪問だった。
東京の手土産は観月のお袋さんが受け取ってくれた。そのまま上手いこと俺を中へ案内しようとしてくれたが、庭先の納屋から手仕事を終えて戻ってきた親父さんと鉢合わせしてしまい、そうはいかなかった。
誰の話も聞き入れない親父さんに、観月も観月のお袋さんも、しまいには観月のお姉さんまで出てきて詰め寄って、でかい母屋の廊下の奥へ引っ込んでいったが、結果は前回と同じことだった。
中学で出会い、高等部で芽生え、卒業後、社会人になっても続いている俺たちの関係。
長い交際期間を経た恋人達が、次に踏む手順は何かと考えて、単純な俺が真剣に導いた答えが『両親へのご挨拶』だった。
幸い我が家赤澤家は、俺が日頃いかに観月に世話になっているかを知っているために、寧ろこの愚息をどうかよろしくお願いしますと深々と頭を下げて観月を苦笑いさせた。
「うちはあなたのところのようにすんなりとはいかないと思います。」
重苦しい表情で観月はそう告げた。(実際これは一切嘘ではなかった。)
そうすんなりいくって方が、今の世の中まだ珍しいだろう。大丈夫、俺は営業マンだ。
難攻不落らしい観月家に、クリーニングに出したてのスーツを羽織った俺は、かつて戦った全国区ペアとの試合を思い出して少しだけ緊張したまま新幹線に飛び乗ったのだった。
結果は惨敗。現役時代無敗を誇ったあの赤澤吉朗が、だ。正直結構堪えた。
最初の門前払いの日の後、観月は乗り換えの仙台まで付いてきてくれて、駅の近くのビジネスホテルで抱き合って眠った。
諦めよう、とは微塵も思わなかった。
カーラジオから小さく天気予報が聞こえる。明日の蔵王はくもり、気温は例年を3℃下回って、朝晩は冷え込むそうだ。
「……あなたは、」
ラジオの音に紛れるみたいに小さく、観月が言った。
「あなたはどうして、そこまで、」
「お前が好きだからだよ」
観月が余計なことを考えないように、思っていることを真っ直ぐ口に出してやる。変に思い悩むなよ、大丈夫だから。
窓からの景色に段々と灯りが増えてきた。もうあと20分くらいで駅に着くだろう。
俺が問いに答えてから、やっぱり難しいことを考えているような顔をして、観月は押し黙った。
ラジオは続いて県内のニュース。桜の開花は来月中旬の見込みだと、優しい声のアナウンサーが告げていた。
観月は今実家に帰省している。
元々リモート可の融通の利く職種だから観月の仕事に支障は出ない。
本家で不幸があったことで相続の話があがり、それがなかなか収束しないらしく、ことあるごとに実家に呼び出されていた。
東京には今日も俺一人で帰る。
つばさ 東京行。
離れがたくて2本遅らせることにした。自由席だしきっと何とかなるだろう。
そんなことを言ったら、本当にいい加減ですね、と車を停めた観月は呆れて小さく笑った。
本当は嬉しいくせに。愛おしさがぐっと込み上げてきて、運転席の座席ごと覆い被さるようにしてキスをする。
夜の駅、駐車場の端に停めた小さい車の中。誰もいないだろうが、誰に見られようが構いやしなかった。
唇を離そうと身体を引くと、観月の腕が俺の項にまわって、撫で付けていた髪に手が差し込まれて、再び唇に引き戻される。
離れがたいのはこいつも同じらしい。
いつ帰れそうだ?
来月までにはおそらく。
ちゃんとゴミ出ししてますか?
分別もちゃんとやってるよ。
柳沢、国試受かったってよ。
僕にも連絡がきましたよ。
そんな他愛のない会話をキスの合間に挟んで、しかしいよいよ次の新幹線の時間がくる。
「…そろそろ時間でしょう?」
切り出したのは観月だった。
駐車場をぼんやり照らす街灯の灯りのせいか、その目は少し潤んでいるように見えた。
俺も寂しいよ、観月。
俺より一回り小さな手を捕まえて、じっと正面から観月をとらえる。観月は面食らったように少したじろいだ。
「早く、時間が」
「観月、」
手を強く握る。観月の下まぶたが小さく震えた。
「またくるよ。」
「、あか、」
思いの外、力が入っていたらしい。
ドアを閉めた軽自動車はぐわんと揺れた。
ただただ、悔しかった。
自分らしくいられない、抑圧だらけの田舎を出て、新たな場所で出会った運命の相手。
自分を受け入れ、愛し、救ってくれた人。
それがたまたま自分と同じ男性だっただけ。それだけなのにどうして。
僕だけならまだしも、なぜ彼が理不尽に否定されなければならないのか。
父親から浴びせられる怒声の数々に反して、脳は至って冷静だった。
きちんとした身なりで半年ぶりに山形に降りた赤澤は、帰省前に会った時と何ら変わらない様子で、会えて嬉しい反面また酷い言葉を浴びせられる前に帰って欲しいとも思った。
もし今度こそ、赤澤の心がぽっきりと折れてしまったら。
そう考えると恐ろしくてたまらなかった。
前回、駅まで送ると言って勝手に仙台までついて行った。一泊して戻れば、そこでまた父からの説教が待っていた。
余計な逆鱗に触れないよう、今回は駅まで。その落胆を知ってか知らずか、乗る新幹線を2本遅らせるだなんて言い出すものだから、胸の奥がきゅうと詰まった。
降り注ぐキスの雨が止んでほしくなくて、柄にもなく少し縋ってみる。僕だってずっとあなたのことを考えていたんです。ずっと。
今更家のことは怖くは無い。あなたを失うことの方が、よっぽど。
他愛のない会話が、心の蟠りと緊張をゆっくりと解いていく。優しいキスが熱を分けてくれて、久々に感じる大きな手の温もりに身体が火照っていくのを感じた。性的に、というよりもっと柔らかい心地だった。ずっと、このまま、離れたくなかった。
「またくるよ。」
そう言って微笑んだ赤澤は、小さな車の助手席から出て行った。
彼の香水の海の匂いが、まだ微かに残っていた。
最後にみせた真剣な顔、去り際の微笑みが、僕の不安と寂しさを見透かしているようでなんだか少し腹が立つ。本当に僕の扱いが上手くなったな。
むかつく。でも、
ふと、先程まで雑音でしかなかったラジオから、聞き覚えのある音が流れる。
あぁこれは、
付き合いたての頃に流行っていた曲だ。
寮の談話室にあったテレビからもしばしば流れていた為に、木更津くんや柳沢が覚えて口ずさんでいた。僕の趣味とは全く違って鬱陶しいと思っていたのに、赤澤が「この曲、いいよな」なんて言ってCDをわざわざ買って流していたから。彼の部屋、2階の、日当たりが良くて、ちょっと散らかっていて、照れくさそうに抱きしめられて、それで、
あ、
もう会いたい、
夜の駅、駐車場の端に停めた小さい車の中で、新幹線の発車音を遠くに聞きながら、僕は少しだけ泣いた。