いつかは恋人 アメリカへと向かう船で、司の定位置といえば甲板だった。バトルチームへ稽古をつけたり、荷物を運んだり、筋トレをしたり。何をしているかは様々だったが、とりあえず司を探している時は甲板に向かえばそのうち会うことができた。忙しい筈の千空と日に何度も顔を合わせることができるのも、司が動線の途中である甲板をうろうろしているからに他ならない。そう、司は考えていた。
無事に航路が決定し、航海は順調に進んでいる。心地よく吹く風がペルセウスを押し進め、帆は絵画のように美しく膨らんでいた。真水が満タンに入った樽を両手に抱えた司がキッチンへと向かう途中、何やらガチャガチャとガラスがぶつかる音を響かせながら歩く千空と行き合った。樽を抱えて幅をとる司がすれ違う為に横を向いて立ち止まると、千空はそのまますれ違うのではなく足を止めた。ビーカーが詰まった木箱が重いのなら運ぶのを代わろうと、司はすぐそこだった目的地へ足早に入った。フランソワに一声かけてから両手に持っていた樽を置いて、これで進行中のタスクがなくなったとキッチンへの往復を待っていた千空に声をかける。
「どうかしたのかい、千空」
「あー、調子はどうだ」
「健康に問題はないよ。復活から大分経っているけど、俺はまだ経過観察が必要なのかな」
手を伸ばして、木箱を受け取る。司にとっては空っぽのビーカーが十六個入っているだけの大したことない荷物だが、千空にとっては重かったようだ。解放された両腕に血流を通すようにぐるぐるの肩を回している。
「貴重なコールドスリープからの復活者様だからな。とれる記録は全部とる」
「毎朝チェックは受けてるけど、それとは別にかい?」
「朝診てんのは単なる数字だ。じわじわ出る症状もあんだから、それとは別に観察すんだよ」
「成る程。生活を見ることで見つかる異変もあるということか。うん……つまり座りながらの問診では意味がない。軽作業を少し手伝う、くらいがいいわけだね」
ラボへと向かう千空の半歩後ろを歩きながら、司は納得した。力仕事を手伝うだけなら大樹やコハク、マグマ、金狼と候補はいくらでもいるしその誰でもいいのだろうが、経過観察と並行する為に司を選ぶというのは合理的だ。航海の中で顔を合わせたついでに用事を頼まれていた理由が分かり納得する。木箱を揺らすことなく安定した足取りで歩く司は、千空のようにビーカー同士が触れ合う音を響かせることなく静かに歩いていた。
「おーおーご理解頂きおありがてぇ。ついでにちょっくら粉砕も頼むぜ」
「了解だよ」
ラボに入ると、ゲンがドーナツ型の何かに銅色の何かを巻き付ける作業をしていた。指先の動作確認なら粉砕よりあちらの方がよさそうだが、あまり器用とはいえない司では効率が落ち過ぎだろう。不器用ではないしある程度はできるが、シンプルに指が太いのだ。
「ふーん、成る程ね? そういうことね? 俺はお邪魔なわけね?」
入ってきた二人を見たゲンはにんまりと笑った。クラフト素材を作業台の隅へと適当にまとめてスペースを作り、イスから立ち上がって伸びをする。
「じゃあキリもいいとこだし、俺ちょっと休憩〜」
十個ずつ纏めている完成品の端数を見るに全くもってキリがよくないことは明白だったが、堂々と嘯くのはゲンの十八番だ。作業の進捗は司の口出しするところではなく、千空が納得するならと見送った。見えなくなった背中に千空と二人っきりだと意識して、司の胸が跳ねた。ここに置いてくれと示された場所に木箱を下ろし、カチャンと音が鳴る。歩いていた時は一度も音を立てなかった司は、どうかこの動揺に気付かれませんようにと祈った。立ち去ったように見えたゲンがひょっこりとラボの入り口から顔を覗かせる。
「司チャンよかったね〜、そんで千空チャンは頑張って!」
わざとらしい応援のガッツポーズを見せたゲンの飄々とした背中が見えなくなるまで、二人は気まずい沈黙と共に見送った。
「メンタリスト様は余計な真似をしてくれやがる
なぁ」
「うん……俺達はゲンの言ったことを鵜呑みにするのをやめた方がいいと思う」
「今更すぎんだろうが。こういう場面でアイツが面白おかしく引っ掻き回すだけなんて俺もお前も思わねー。そんで俺らは二人共がもしかしてって思っちまったわけだ」
「答え合わせが、必要かな」
僅かに頬を染めた司は、意味もなく薬品棚のラベルを熱心に目で辿った。聞き覚えのある名称もあれば、知らないカタカナの羅列もある。司はバトルチームであり、科学は専門外だ。旧世界のアドバンテージだけでは追いつけない科学がここにはある。説明されれば理解できるだろうが、それが必要であるかを判断するのは自分ではないと司は考えていた。そして、答え合わせが必要なことかの判断も千空に委ねた。二人が違う関係へと変わる切欠となる、その小さくも大きな一歩を踏み出すか否か。
「悪ぃが俺はビビリなもんでな。答え合わせするってんならそっちから先に頼むわ。何が『よかった』んだ?」
「俺からなのは構わないけど、その前に俺が言った後、君も何を『頑張る』のか教えて貰えるのか知りたいな」
「おーおー、言質取りにくるとは褒めてやるよ。お望み通り教えて差し上げるぜ」
「うん……なら、いいかな」
ぽそぽそとしたか細い声で答えた司の珍しさに、千空は生唾を飲んだ。優秀な頭脳で弾き出した『もしかして』と『おそらく』は拮抗していて、ゲンが言ったからを根拠に真実に近いと思ってはいても、もし違っていた場合に失うものは大きい。大きいからこそ慎重になるのが人というもので、それは千空とて変わらなかった。
覚悟を決めるように深く息を吸った司が拳を作った。マントの下で行われた動作は視界に映らないが、肩の位置が変わったことに気付いた千空は司の緊張を読み取ることができた。ラボの空気は張り詰め、息苦しさに司は自らの鼓動が速くなっていくのを自覚する。ゲンが司へ言い残したのは『よかったね』だ。何がよかったのかを今から説明しなければならない。それは司にとってとても恥ずかしいことだった。トクトクと身の内で響く心臓の音が千空に聞こえてしまうのではと、ありもしない危惧をする。
「その……」
意を決して口を開いたはずが、司の口からは掠れた音しか漏れず意味のある言葉を紡ぐことはできなかった。一度口を閉じて唾液を飲み込み、改めて口火を切る。
「その、俺がよかったと思ったのは、千空、君と一緒にいられるからだ。君の手伝いができるのはもちろん嬉しいし、俺にできることはなんでもするけど、それが君と一緒の空間にいながらなんてとても幸福で、俺がそう思ってるとゲンは見抜いていて、だからよかったねと言ったんだと思う」
最初は千空を真っ直ぐ見つめていたが、話すうちに司の視線は徐々に下がり、最後には足元を向いていた。豊かな黒髪から僅かに覗く耳が赤く染まっている。
「うん、つまり……君といられる時間が嬉しいんだ」
司は、羞恥に耐えて顔を上げた。はにかんだ笑みは妹によく似た幼いもので、目元に刷いた紅の淡い色付きがアンバランスな色香を感じさせる。端的に言うならはちゃめちゃに可愛かった。司の身長と体格を加味しても尚、守ってやりたくなるような純真さに千空は胸を射抜かれた。
話し終わったと、全て言い切ったと口を閉じた司は、大変なことを言ってしまったのではと徐々に顔へ血が昇っていくのを感じた。顔が熱くなり、逃げてしまいたいと思う。それに耐えているのは、千空が何を頑張るのかを知りたいからだ。ゲンに頑張ってと言われた瞬間、千空の歪んだ顔は余計なことを言うなと語っていた。科学作業を頑張れなどという当たり障りない応援でないことは分かる。だからもしかしてと司は期待した。期待して、それでも残る不安を必死に捩じ伏せ、次は千空の番だと分厚い睫毛を震わせる。
「かっわ……ゔゔん、そもそもメンタリスト様からのありがてぇアドバイスは聞いた方がいいんだろうってのが俺らの共通見解だ。だから俺は頑張った方がいいし、俺が何を頑張るかも言った方がいいし、っつーかいい加減ケリつけろってことなんだろうと解釈したわけだが」
「…………もしかして千空は前から頑張ってたのかい?」
「その驚きように聞きたいんだが、今まで俺があんだけストレートに愛情表現してたアレソレはなんだと思ってたんだ?」
「え?」
「おーおー、お可愛らしい宇宙猫チャンじゃねぇか。月に行くより衝撃か?」
「…………うん」
「わざわざ飯の時間合わせて同じテーブルについて、行き合ったらわざわざ立ち止まって無駄話して、テメーが夜番の時に星見に立った俺の涙ぐましい努力の数々はなーんも響いてなかったってことか」
「いや、その、嬉しい、と思っていたよ。俺にとって君は特別だから」
「そりゃ重畳だな。真意は伝わってなかったが」
「偶然じゃなくて、千空が頑張ってくれてたんだね」
「ん」
ぶっきらぼうな肯定に司は喉を震わせた。一日の終わりに目を閉じて思い出す暖かな時間は、偶然ではなかった。司は千空と過ごす時を好んでいたが、それを手に入れようと努力したことはない。
「ありがとう」
気付かなくてごめんとは、口にしなかった。二人で過ごした柔らかな時間が、謝罪より礼を選ばせた。幸福を思い出して笑う司を目にした千空がぐっと眉間に皺を寄せる。手を伸ばしたいが、今はその時ではないと理解しているからだ。
「めでたく両思いの俺達だが閉鎖空間で恋愛なんざ面倒くせーしぶっちゃけそれどころじゃねぇ」
「そうだね」
「恋人だのなんだの厄介事の温床だからな。付き合うのはナシだ」
「了解だよ」
「……いいのか」
「極めて合理的な判断だと思う。それどころじゃない状況なのは同意見だし賛成だよ。でも……ふふ、両思いか」
くすくすと笑みを溢す。司は平素穏やかな性格だが、朗らかなタイプではない。なのに今日は何度も口元を緩め、それを恥ずかしそうに手で覆い隠していた。湧き上がる情動のまま、千空は司の体温に触れたいと思った。伸ばそうとした右手が作業台へぶつかり、カチャンと陶器が触れ合う音が響く。ゲンが手がけていたクラフトの素材とは別に、作業台には乳鉢と乳棒、そして小指の先ほどの白い石があった。音は乳鉢の中で乳棒が跳ねたものだ。千空と司は、じっとそれらのアイテムを見つめ、当初の目的を思い出した。
「えーと、何かを粉砕すればいいんだったね」
「頼むわ」
「うん、了解だよ」
粉砕する白い石について質問することもなく、司は乳鉢へと適度に投入し、ゴリゴリと乳棒で粉砕し始めた。手応えとしてそこまで硬いものとは思えず、俺じゃなくてもできる仕事だと思った。自分に任される仕事は肉体強度を当てにした一際ツラい労働であるべきだと考えている為、少し力を入れただけでパキパキと容易く砕けていく簡単な仕事を割り当てられている現状。二人だけのラボで千空は運んできたビーカーを棚へと収納し、空になった箱へ試験管たてを入れていく。それぞれ黙々と作業を進め、司の手元で白い石は着々と粉になって完了は近い。
今まで二人っきりの空間で千空の気配を感じることができる偶然を司は喜んでいたが、どうやらこの時間は千空による恣意的なものだったと分かって、司はむずむずと唇を動かした。浮かぶ笑みを噛み殺して、やに下がったみっともない顔にならないよう歯を食い縛る。
淡く色付いた頬と煌めく瞳に、千空は、人類復活させて恋愛脳を解禁した暁には、ソッコーでこの可愛い生き物をさっさと恋人にすると誓ったのだった。