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    教師生徒じんまお前半まとめ

    生まれ変わってまた出会う話   ⚫︎プロローグ 前世を思い出す話
       
    『…………なさい』
     あぁ、うるさい。
     意識を失った人間を無闇に揺さぶるな。
    『……さい、猫猫……』
     遠くに聞こえた声が、どんどん鮮明になる。
     頭に響くからやめろ。そんなに喚くな。
     うるさいなぁ……、壬氏。
     
    「そろそろ起きなさい、漢猫猫!」
     
     猫猫は身体を強く揺する手に、はっと目を覚ました。
     ぱちぱちと数回まばたきをして、のろのろと寝ぼけ眼のまま自分の肩を掴む手の持ち主を見上げる。
    「……ごきげんよう、壬氏さま」
    「寝惚けているのか?」
     呆れたように目を細め前髪を掻き上げた男は、はぁとため息をついた。そんな姿すら様になると、眠たげな目をさらに半分にして見やる。
     だが、何かがおかしい。あの自慢の絹糸のような長い髪が見当たらない。背中を覆っていた髪はばっさりと切り揃えられ、白い首すじがあらわになっている。
    「壬氏さま、髪が……」
    「……大丈夫か? 俺は瑞月先生だが」
     顔のつくりは夢の中の男に瓜二つである短髪の男が、やれやれと首を振った。いやに気に障る、どこかで見たような仕草だ。
    「瑞月、先生……」
     口の中で呟いて、あぁそうだと思い出す。
     この男は今年うちの高校に配属された新任教師で、今は絶賛授業中だった。くそ真面目で面白味のない授業を受けているうちに、自分はいつの間にか眠っていたらしい。
     猫猫はぐいと口元のよだれを拭い、頭を下げた。
    「寝惚けていたようです。申し訳ありません」
    「夜更かしは程々に」
     瑞月はくるりと踵を返し、教科書を読み上げながらコツコツと歩いていく。ちょうど教卓へたどり着いたところで、チャイムが鳴り授業の終わりを告げた。
     長い腕が美しい板書をさっさと消している姿を一瞥しながら、猫猫は自分の机にはぁと突っ伏した。
    (……ただの夢、じゃないだろうな)
     先程の夢を思い浮かべる。あの光景はきっとずっと昔の記憶だ。夢で片付けるにはあまりに鮮明すぎた。
     どこぞの貴人を助けるために、そして欲してやまない報酬を得るために、満身創痍になりながら駆け抜けた西の蒼穹檀。あの時の焦り、痛み、安堵を昨日のことのように覚えている。
     遠い遠い昔、自分は確かにあの時代を生きた。猫猫はそう確信していた。
    「……まぁ、でも考えても仕方がないか」
     昔の記憶に思いを馳せたって腹はふくれないし、今の自分には関係のない話である。
     それよりも今日は遅くならないうちに家へと帰るのだ。鷄と大根の煮物にしっかりと味を染み込ませるために、早めに仕上げてしまいたい。
    「おやじにしっかり食べさせないと」
     うきうきと夕食の献立を思い浮かべながら鞄に荷物を詰め、意気揚々と帰りの支度を整えている時だった。教室に甘ったるい蜂蜜の声が響き渡る。
    「漢猫猫、居眠りの罰だ。後で準備室へ来なさい」
     声の主は、社会科の教師であり担任でもある華瑞月だ。誰もが見惚れる綺麗な笑みを向けられて、背筋がぞぞぞと粟立った。
     今すぐ逃げ出したい。逃げたいのだけれど、逃げられる気がしない。本能がそう言っている。
    「……はい」
     夢の中の男『壬氏』と瓜二つの『瑞月』という名の教師。
     厄介ごとの予感しかしない。 
    「失礼します」
     コンコンコンとノックをし、そろりと準備室の中を覗く。
    「来たか」
     偉そうに腰掛けていた瑞月は猫猫を一瞥すると椅子から立ち上がり、慣れた手付きでお茶の準備を始めた。
     ──紅茶だ。これ見よがしに高級な蜂蜜と檸檬が添えられている。
    「、蜂蜜……」
     頬がひくひくと引き攣るのを抑えられない。
     しかし瑞月はそんな猫猫の態度も意に介さず、優雅に自らのカップに蜂蜜を注ぐと、次いで猫猫のものにもとろりと黄金の液体を垂らしていく。
    「好きだろう? 蜂蜜」
    「い、いえ、甘いものはあまり……。先生、それで居眠りの罰というのは?」
     早くこの場を立ち去りたい一心で、話を逸らすように要件を切り出した。長居は無用である。
     猫猫の言葉ににこりと笑みを浮かべた瑞月は、すっと右手をこちらに伸ばしてきた。その手は椅子にも座らずに逃げ腰で立ち尽くしていた猫猫の手を取ると、あろうことか緩慢な動きで一本ずつ指を絡め始めたのだ。
    「……っ」
     手なんか今すぐ振り解けばいいのに、何故か一歩も動けない。じっとりと手のひらに汗が滲んで気持ちが悪い。
    「……猫猫」
     ゆっくり時間をかけて全ての指を絡め終わった瑞月は最後にぴったりと手のひらをくっつけて、嬉々とした眼差しでこちらを見た。
    「居眠りが長すぎだ。ようやく思い出したのか?」
    「へぇ……?」
     思わず間抜けな声を出してしまう。目の前の男が拗ねたような、でもどこか優しい瞳を向けてきて居心地が悪い。
    「あの、どういう意味でしょうか?」
    「思い出したのだろう? 俺のことを壬氏と呼んでいた」
    「え、あ、はい。でも、人違いです」
    「はぁ?」
     莫迦にしたような、酷く疲れた顔をされた。解せない。
    「人違いだって?」
    「はい。確かに古い記憶のようなものを夢に見ました。しかし、夢に出てきた人物は先生に顔はよく似ていましたが、壬氏という名であり瑞月ではありませんでしたので」
    「お、お前……」
     さっと顔を白くした瑞月は、信じられないという様子でカタカタと震え出す。
     大丈夫か? この教師は。おおよそ教師に向けるべきではない胡乱な目をしてしまったが、相手はそれどころではないようだ。がしりと猫猫の両肩を強く掴むと、焦れた掠れた声で問いかけてきた。
    「ど、どこまで、思い出した?」
    「先生、人の夢の話を聞きたがるなんて特殊な趣味ですね。夢で見た過去の話なんて、誰にも信じてもらおうと思っていないのですが……」
    「どこまで思い出したんだ!」
     あまりの剣幕さに、息を呑んだ。
     瑞月という教師は、少しばかり子供っぽい部分はあるがおおむね余裕綽々で、いつも微笑みをたたえ、滅多に声を荒立てたりしない穏やかな教師だ。
     それが今はどうだろう。苛立たしげに髪を掻き乱し、足はこつこつと床を叩いている。
    (でも、何故だろう)
     こんなに余裕のないところは初めて見るのに、どうしてかこれが素なんだろうなとすとんと胸に落ちた。
    「ええと……」
     あまりに切羽詰まった姿を前に、真面目に向き合わねばならないと思い直す。猫猫はううむと腕を組んで、先ほど見た夢の記憶を辿っていく。
    「……夢に見たのは、祭祀に乱入した時のことでした」
    「ああ、あの時か。一連の事件では本当におまえに救われた。痛い思いをさせてすまなかった」
    「いえ、自分でしたことなので」
     ふるふると首を振るも、憂いを帯びた面持ちは変わらない。まったく何年前の怪我の心配をしているというのか。
    「その後も何度も傷が開いて大変だったよな。そのたびおまえは自分で傷を縫おうとするし」
    「……え? そうでしたっけ?」
    「ああ、そうだ。翠苓の死体の謎を暴いた時も、城壁で踊った時も!」
    「死体? 踊った……? えっと、すみません。そこまでは覚えていないみたいです」
    「……っそんな、」
     過去を懐かしんでいた瑞月の顔が、一瞬で絶望で陰る。いつもはピンと伸びた背筋が、みるみるうちに萎れた花のようにしゅんと丸まってしまった。
    「……つまり、おまえの記憶は」
    「祭祀で足を怪我して気を失ったところまでですね」
    「そんなに前までか……」
     心底残念そうな、痛々しいまでの落胆。こちらは何も悪いことをしていないのに、罪悪感を覚えてしまうほどだ。
    「大丈夫ですか?」
     この落ち込みようには既視感がある。あれは始業式の日、瑞月が学園に着任した日のことだ。放課後手伝いを頼まれこの準備室へと足を踏み入れた時。
     あの時瑞月は『まさか何も覚えていないのか……?』と絶望に打ち拉がれて、変な教師が入ってきたなと思ったが今ならその意味がわかる。
    「……まあ、少しは思い出したようだから良い。覚えていないようだから言うが、おまえが祭祀で助けた壬氏は俺だ。後宮で名乗っていた名は偽名で、本当の名を瑞月という」
    「はぁ、そうだったんですね」
     昔から男にしては珍しい名前だと思っていたが、偽名だったとは。祭祀を取り仕切り命を狙われるくらいだから、身分が高く名を隠さねばならない理由があったのだろう。
    (まぁ、そんなことは自分には関係ない)
     どんな身分であったとしても何も変わらない。この男が夢の男と同一人物であるというならば、言うべきことはたった一つなのだから。
    「改めて壬氏さま。実は、ずっと言いたかったことがあります……」
    「どうした? 何か思い出したのか? 言ってみろ」
    「壬氏さま……」
    「あ、ああ。何だ?」
    「……牛黄をください!」
    「……とっくにやったわ!」
     ごちんと額に頭突きが降ってきて、あまりの衝撃に目を白黒させる。
    「痛いっ! 何するんですか!」
    「牛黄だけじゃない! 熊胆も、鹿茸もやっただろ!」
    「えええ、知らないですよ!」
     何てことだ。怪我をした痛い記憶だけを思い出して、肝心の良いところの記憶がないなんて。
    「そんな……」
     あんまりな仕打ちにがっくりと項垂れると、落ち込む猫猫に反して楽しげな声が頭上から降ってきた。
    「まだあるぞ」
    「え? 何ですか?」
     まだ何かあるのか? 霊芝か? 人参か? それとも……。
    「胎盤だな」
     にやりも笑う瑞月に猫猫はきょとんと首を傾げる。
    「壬氏さまのツテで新鮮な胎盤が手に入って、それを融通していただけということでしょうか?」
    「いいや?」
    「まさか壬氏さまの奥方の……? いや、そもそも壬氏さまは宦官で……」
    「ああもうそこからか! 俺は宦官ではない! ただ、俺の妻の胎盤だという点は間違っていないな」
    「壬氏さまの妻」
     この男の妻になるだなんて、ずいぶんな変わり者が居たものだ。性格は難ありだが身分の高い貴人であるし、政略結婚だろうか?
    「おい、全部聞こえているぞ。ただ、確にそうだな。俺の妻はずいぶんと変わり者であった。毒に薬にいつも夢中になっていた」
    「ええっ、そんな方が? 気が合いそうです!」
    「そうだな。気が合うも何も、おまえだ」
    「は?」
     今何と言っただろうか。『おまえだ』と言わなかったか?
     ──自分は壬氏の妻の胎盤を貰ったらしい。
     ──そしてその壬氏の妻は、自分らしい。
    (……胎盤って、そんなまさか)
     猫猫はその意味を理解し、顔面が蒼白になる。
    「え、それって……」
    「そういうことだ」
     まさか、自分が壬氏とそんなことになったとは到底信じられない。二人の間に甘い空気など一切なかったはずだ。
    「嘘だ……」
    「嘘じゃない」
    「全く覚えがありません」
    「まぁ、思い出せなくてもかまわない。これからもう一度、一から口説くだけだ」
    「……」
     粘着質にも程があるだろう。なんだか会話が弾んでしまったが、これ以上関わるべきではない。前世で妻だったことは変えようがない事実だが、今世も同じ道を歩む必要はないのだ。
    「……先生、時間も遅いのでそろそろ失礼します」
    「待て」
     危険を察知し、準備室から逃げ出そうとじりじりと後退り、うしろ手で扉を開けようとした。だがしかし、いつの間にか鍵が掛けられていたようで扉は全く開かない。
     追い詰められた猫猫は、苦し紛れに目の前の男を睨み付ける。
    「別に、今世ではそれぞれの道を歩んでもいいのでは? 過去に囚われなくても……」
    「俺はもう今世でお前に落ちたんだ。だからお前も落ちろ」
     理不尽だ。なんて酷い理屈なんだ。
    「観念しろ」
     楽しげに笑う男が憎い。でも、落胆し絶望するよりもそうやって笑っていてほしいとも思う。
     
     ──猫猫十七歳、瑞月二十四歳。現代での二人の物語。
     
       ⚫︎第一話 出会い ─瑞月─

     校庭に薄紅の桜が咲き誇る、よく晴れた春の日のこと。
     天気にも恵まれ晴れやかなはずの高校の始業式で、瑞月は深い深いため息を吐いていた。
     だらしなくならないようにと今朝方セットした髪が乱れるのも厭わずに、くしゃりと長い前髪を崩してしまう。
    「……はぁ、どうして……」
     マンモス校の広い体育館にずらっと並ぶ在校生。頭ひとつ高い長身を活かし、その列にさっと視線を走らせる。そして見つけたのだ。ずっとずっと、探し求めていた人物を。
    「……猫猫」
     前世を彷彿とさせる青緑の制服に身を包み、どこか眠そうな瞳。
     小柄なのは相変わらずで、ともすれば周りに埋もれてしまいそうな小さな身体だけれども自分がその存在を見逃す訳がない。
    「高校三年ってことは、十七歳か……?」
     前世で初めて出会った時も十七だったことを覚えている。猫猫に関することならどんな些細なことでも忘れた記憶など一つもない。
     情に厚く何事も放っておけない性格に、止められない探究心と好奇心。そしてふと自分を見つめる優しい瞳。
     そのどれもが愛おしくて、守りたくて、いつも頑張る力をくれた。まさに運命の人、奇跡の相手だと思った。
     前世で添い遂げた二人は、来世でも必ず巡り会う。どの時代に生まれ変わったとしても、再び結ばれるだろうことを疑うことなど一度もなかった。
     それなのに。
    『──ご挨拶を、お願いします』
     脳裏に焼きついて離れない愛しい姿を回想していたところで、体育館に響き渡ったのはマイクの音声。
    「……、」
     瑞月はその場で一度ぎゅっと拳を握ると、決意したように歩き出す。凛と歩くその姿に視線が集まりにわかに体育館がざわつき出した。
     どこにいても自然と目立つ容姿と佇まい。浮き足立つ在校生たちのその中で、たった一人想い人だけは一切興味がなさそうにぼうっと遠くを眺めているが。
    「こほん、」
     注意を引くように咳払いを一つこぼし、大きな手でマイクを握る。そしてたった一点を見つめてよく通る声を響かせた。
    「今年からこの学園に配属されました、社会科を教える華瑞月です。若輩者ですが、よろしくお願いします」
     よりにもよって、出会った時に偽っていた年齢差で転生するなんて。
     ──華瑞月、二十四歳、職業は高校教師。
     壇上でお得意の笑顔を浮かべながらも、心のうちは荒れ狂っていた。
     十七と二十四、年齢差は七歳。大人になれば気にならないかもしれないが、今はかなりの差である。
     教え子と教師という立場も社会的には厄介だ。
     ──でも、そのどちらも二人の前では大きな問題ではないだろう。
     心はとっくの昔に通じ合っているのだ。最大の難関であった猫猫の気持ちを突破済みなのだから、それ以上の壁などない。
     それに教え子と教師という関係ではあるが、今の時代なら人目を忍んで連絡を取り合うことくらい容易いだろう。
     何処にいるのか、生きているのかさえ分からなかった時に比べれば状況は雲泥の差である。
     瑞月は微かににやける口元を教材で隠しながら、猫猫の在籍するクラスに向かって始業式に浮き立つ廊下を歩き出した。
     
    「このクラスの担任になりました、華瑞月です。何か困ることがあれば、何でも相談してください」
     教室中をぐるりと見渡してから、たった一人に向かってにっこりと微笑みかける。
     しかし当の本人とは全く目が合わない。つれない態度に思わずむっとしてしまうが、何とか取り繕ってその場を進行する。
    「……ということで、初日なので今日はこれでお終いです。ですが、少し手伝いを頼みたくて……」
     見目麗しい教師にすっかり夢中になり、我先にと立候補する女子高生。しかしそんな子供たちには目もくれず、瑞月はいっそう笑みを深めて帰り支度を整える前世の伴侶に視線を送った。
     ようやく会えたな、ゆっくり話をしよう。そんな気持ちを込めて。
    「……んん、今日は八日なので、出席番号が八番の人。漢猫猫さん、少し居残りをお願いできますか?」
    「え」
     それなのに、あからさまな嫌そうな顔。
    「……何か、問題でも?」
    「いえ、わかりました」
     少々語気が強くなったが仕方がないだろう。
     久方ぶりの再会だというのに、まるで他人のように振る舞う猫猫が悪い。
                       
       ⚫︎第二話 出会い ─猫猫─   

    「猫猫、昨日のお手伝いって何だったの?」
    「ん? ああ、何か学園のこと色々教えてほしいって少し雑談しただけ」
    「ふぅん、まわりくどいねぇ」
    「本当、私より適任なんて山ほどいるのにね。今度もっと詳しそうな子を紹介してあげようかな」
    「あははっ、それ先生に言った時の反応聞かせてね」
     目尻に涙を滲ませ笑うのは、二年の時に親しくなったクラスメイト。
     虫好きの彼女と、薬好きの猫猫。好みは違うが本質の部分で通じるものがあり、打ち解けるまでに時間はかからなかった。
     明るく賢い彼女だが、ちょっと危なっかしいところもある。猫猫は周りに聞こえないように声を落とすと、子翠にそっと耳打ちをした。
    「ねえ、ここだけの話だけどあの教師、何かちょっと変だと思う。すごい親しげに話しかけてきたと思ったら、急に落ち込み出したりして。情緒不安定っていうか……、子翠も気をつけてね」
    「くふっ、んん、うんっ。わかった」
     何が面白いのか、口元を歪め笑いが堪えられないようだ。笑いすぎて苦しそうな様子に、猫猫は鞄から未開封のお茶を取り出して手渡す。
    「どうしたの、大丈夫? お茶飲む?」
    「ううん、大丈夫だよ。ただ可哀想で……、でもちょっと面白いなって」
    「……?」
     たった今教師が変だと忠告したばかりだが、この子も大概であると思い直す。
    (そういえば子翠も、初めて会った時に『久しぶりだね』なんて声をかけてきたな。あの教師と一緒だ)
    「……子翠と瑞月先生って案外気が合うかも……」
    「あはっ、そうかな? ふふっ。じゃあ私もちょっと世間話してみよっかな」
     落ち着いて話したことないんだよねぇ、と屈託なく笑う。
    (それはそうだろう)
     だって瑞月は昨日この学園に着任したばかりであるし、話したことがある生徒の方が稀だ。
    「良いんじゃない? でも気をつけてね。変態っぽいし」
    「んー、じゃあ水鉄砲でも懐に仕込んで会いにいこっかな」
    「水鉄砲?」
    「くふふっ、何かあったらばあんって。ねえ、猫猫っ、今日買い物付き合ってね!」
    「はいはい」
     どうしてこんなにはしゃいでいるのかよくわからないが、楽しそうならそれで良いかと猫猫は目を細めた。
     
     新任教師がこの学園に着任してひと月ほど。瑞月はあっという間に生徒の憧れの的になっていた。
     二十四歳とは思えない落ち着いた佇まいに、スマートな身のこなし。さらにはあの美貌だ。しかも兄が校長、祖母は理事長というサラブレッドぶり。
     生徒はすぐに瑞月に夢中になった。眉目秀麗才色兼備、完璧なその姿に『まるで人生二周目』だと噂されているのを聞いたことがある。
     ──しかし、そんなものはただの噂にすぎない。
     猫猫には放課後社会科の準備室で生徒に手伝いを押し付ける目の前の男が、どうもみんなが言うような完璧な存在には見えなかった。
    「漢、これも頼む」
    「はいはい」
    「『はい』は一回だろう」
    「はいはい」
    「おい!」
    (うるせえ)
     手を動かしながら、今日も煩い小言を受け流す。取り合わずに適当にあしらうのは、瑞月が本気で怒っていないことを知っているからだ。
     この男は粗雑な扱いに怒ったような声を出しながらも、いつもどこか嬉しそうにしている。
    (被虐趣味か?)
    「手が止まっているぞ!」
    「へいへい」
    (まあ、何でも良いか。自分には関係ないし)
     猫猫はふるふると首を振ると、一刻も早く仕事を終えようと目の前のプリントの山に集中したのだった。
    「……ほら、いつもすまないな」
    「おおう、今日は蕗ですか?」
     瑞月の良いところは、手伝いの後に必ずご褒美を出してくれるところだ。猫猫は目を輝かせるといただきますとぱちんと手を合わせる。
     目の前にそっと差し出されたのは、茉莉花茶と蕗煮。さっそく一つ摘むと、ちょうど良い塩梅の塩気が疲れた身体に沁み入る。
    「生徒に食べ物を渡すのは本当は良くないのだが、まあ、熱中症対策ということで」
     瑞月は決まりが悪そうにごにょごにょと言い訳を口にしながらも、猫猫が蕗煮を食す姿を目を見開いてじっと眺めている。びしびしと突き刺さる視線が痛くて、ふいと視線を下げて言い募った。
    「人の食事する姿を凝視するのは、あまり良い趣味とは言えませんよ」
    「……なあ、蕗を食べて何か思うことはないか?」
    (蕗を食べて?)
     瑞月の言葉に首を傾げた猫猫は、しばらくしてからはっとして、そして肝心なことを言い忘れていたと顔を上げた。
    「失礼しました。今回ももちろんとっても美味しいです! ちょど良い塩加減に食感、一級品ですね……。いつもこんなに美味しいもの、どこで購入しているのですか?」
    「ああ、旨いのなら良かった。これは買っているのではなく、実家の料理人や母方の祖母が作っているんだ」
    「へぇ、ぜひ今度レシピを教えていただけませんか? おやじにも食べさせてあげたいので」
    「ああ、いつでも教わりに来てくれ。羅門さんもきっと喜ぶだろう……って、そうじゃなくて! 蕗を食べて何か思い出さないかって言っているんだ!」
    「……? あ、家の醤油切れてるんだった」
    「……はぁ」
     どうも期待外れの返答だったのか、瑞月は残念そうに眉を顰めると、仕事が積み上げられたデスクに勢いよく突っ伏した。
    「蕗も駄目か……、チョコレートも反応なかったし……」
     頭を抱え、ぶつぶつとひとりごちる瑞月。そんな教師らしからぬ男を見て、猫猫は眉間にぎゅっと皺を寄せ胡乱な表情をした。
    (やっぱり変な教師だ)
     親しげに接してきたかと思えばジェットコースターのごとく感情が急降下したり、年下の生徒に粗雑に扱われて喜んだり、人が食べる姿を穴が開くほどじっくりと観察してきたり。
    (どう考えたって、全然完璧なんかじゃないだろう)
    「……先生、こんな噂を知っていますか?」
    「何だ?」
     少しは立ち直ったのか、口をへの字に曲げながらも茉莉花茶を飲み一息吐く瑞月に、猫猫はなんてこともない世間話の一環としてぽつりと呟いた。
    「瑞月先生が、人生二周目だって噂」
    「ぶっ……」
     あまりに突拍子もない発言に驚いたのか、口に含んでいた茉莉花茶がこちらに向かって盛大に吹き出される。
    「なっ……! 二周目だって?」
     猫猫は顔面にもろに浴びた茶をハンカチで拭いながら、驚愕する瑞月を目を半分にしてじっとりと睨め付けた。
    (こいつのどこが完全無欠の完璧超人だって?)
     むしろ一番手がかかるタイプだろう。
     放課後の貴重な時間に懸命にまとめたプリントが無事で良かったと、紙の束を一瞥してからロッカーから雑巾を取り出しごしごしと床を拭く。
     その間瑞月は金魚のように口をぱくぱくとし、立ち尽くしたままだ。
    「もう、スーツまで濡らして……」
     床を拭いたついでに、立ち尽くしたままの瑞月のスーツを拭いてやる。明らかに上質なスーツを床を拭いた雑巾で拭くことはできず、自前のハンカチだ。
    (先ほど顔を拭いたハンカチだが、雑巾よりはましだろう。そもそもこいつの口から飛び出した茶だし)
     猫猫はシミにならないように、丁寧にスーツの水分を吸い取っていく。
     ──そこで、不思議な感覚を覚えた。
    (既視感)
     以前どこかでこんな状況に陥ったことがあった気がする。お茶をこぼした誰かの衣服を拭ってやったのは、いったいいつの記憶だっただろうか。
     何かを思い出しそうで、いまだに呆然としている瑞月の間抜け面を見上げる。
    (……まぁ、大したことじゃないだろう)
     もやもやとした記憶の断片が形を成す前に、頭にふと浮かんだ映像はぱっと離散した。
    (たぶん白鈴姉ちゃんの子供とかだった気がする)
     溌剌とした体育教師との間に生まれたやんちゃ坊主は、なんでも荒らし放題で小さな怪獣のようであった。きっとそうに違いない。
     それに、過去テレビで見たものや話に聞いたことを自分の記憶と混同することはよくあると聞く。
     猫猫は気にすることをやめて、再び椅子に腰掛けると残っていた蕗を食べ始めた。
    「先生、全部食べちゃいますよ? 食べないんですか?」
    「……俺は良いからおまえが食べろ。……で! 二周目って、漢はそれを聞いてどう思ったんだ?」
     ようやく意識を取り戻した瑞月は、猫猫にぐいっと顔を近付けてきた。触れそうなほどに距離が近いし、目が本気で怖い。
    「どうなんだ?」
    「はぁ、まったく変な噂ですよね。はいどうぞ」
     残りわずかな蕗煮を一つ摘んで目の前に差し出すと、案外素直に口が開けられた。
     あーんと開いた口にぽいと放り込んでやると、感極まって涙目で咀嚼している。感情の起伏が激しすぎるだろう。
    「はぁ、世界一旨い……。なぁ、今なんで食べさせてくれたんだ? まさか俺のこと……!」
    「美味しいからシェアしようと思っただけですよ。で、先ほどの噂話ですが、瑞月先生が本当に人生二周目だったとしたら、もうちょっと効率良く生きるのでは? というのが私の感想です」
    「悪かったな、じたばたと格好悪くて」
     猫猫の率直な意見に、形の良い唇がつんと尖る。瑞月の拗ねた表情はまるで年下の男の子みたいに幼くて、ついつい教師だということも忘れて口が滑った。
    「格好悪いとは思っていませんよ。それが瑞月先生らしさでしょう」
     ──華瑞月という教師は眉目秀麗で才色兼備。天に二物も三物も与えられた、才能溢れる完璧な人物。それが一般的な印象だ。
     そんな瑞月に多くの生徒は憧れを抱いているが、同時にどこかで一歩距離を置いているのも事実。
    (もったいない)
     本当の瑞月は器用ではあるが、完璧な人間ではない。今も目の下にくまを飼っている苦労人だ。
     完璧に見える裏側には人並み以上の努力があるのだろう。それをみんなが知れば、きっと今以上に親しみを持たれ、もっと慕われる教師になる。
    「普段ももっと、今みたいに素を出してみたらどうですか? その方が案外他の生徒も居心地良さを感じてくれるかもしれませんよ」
    「……なぁ、おまえは俺との時間が居心地が良いと思っているのか?」
    「……すみません、生徒が言うことではありませんでした。失礼します」
    「待て、まおま……っ」
     ご馳走様でしたと呟いて、身を翻し鞄を引っ掴んで準備室を後にする。
    (余計なことを言ってしまった)
     あの教師といると、どうも調子が狂う。
    「……早くまた妻にしたいな」
     瑞月の心からの呟きは、ぱたぱたと廊下を走り抜ける猫猫の耳には届かなかった。
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