あ、と二つの口が同じかたちを作る。
今まさに宿屋を出ようとスイングドアに手を掛けた俺の手に重なった温度は、よく知ったものだった。
驚いて顔を上げた目に飛び込むのは海色の髪と、顔の中心で目を惹く赤い鼻。
大きく目を見開いて、またもや重なるように零れた声は一年近く聞いていなかったためか記憶より低くなっていた。
バギー、と俺が名前を呼ぶ前に逃げようとドアから手を離すのを見て、一気に体温が上がった。
行くなよ!
フックのように曲げた腕を首に掛けると、今まさに走り出そうとしていたバギーは一瞬息が止まり、そのまま動きが緩んだ。焦ると右に逃げる癖は変わっていないようでなによりだ。
そのまま自分の腕を引き寄せるようにしてバギーの身体を俺の胸へと持って来る。あまり身長の変わらない相手をこの体勢から持ち上げることは流石に難しいが、明日のことを思えばバギーだってこの場で騒ぎをおこしたくはないだろう。
この街には現在、海軍は勿論のこと無名から著名まで海賊が揃っているはずだ。堅気に見えて海兵志望のやつだっているかもしれない。
思った通りバギーは小声で離せ! と抗議してくるものの、バラバラになって逃げようとはしなかった。
「おじちゃん! 追加で金払うから、俺の部屋二人で泊まってもいいよな?」
「え、あ、あぁ……?」
さきほど部屋を用意してもらったばかりの店主に声を掛けると、戸惑ったように頷かれる。
年季の入った木目のカウンターにポケットから追加の金を……見もせずに出したから、ちょっと多かった気もするが……置いて、俺は階段を登っていく。
引き摺られるように歩くバギーは時折踵やふくらはぎを段差にぶつけているのか「いてぇよ!」と喚いているが、今は気にしていられない。というか、お前話すと歩くどころか今すぐ逃げ出すだろ。
割り当てられた部屋は二階の角部屋。明日のせいで他の店は大抵閉まっているが、宿屋と飲み屋だけは別だ。一目見ようとこの街に訪れる人間は多く、理由はどうあれそういった人間はどうせ今夜……いや、時間なんて関係なく宴を開くやつらが多いだろう。もしかしたら現地の人だって参加するかもしれない。
二度とないかもしれない騒乱は、寝床や酒を提供する店にとっては稼ぎ時になっていた。ここも例に漏れず営業して、それなりに盛況しているらしい。
そのことに何も思わないわけでもないけれど、部屋を頼んだとき少しだけ店主と話したが、穏やかで優しい、気の良いおじさんだった。船長や俺たちが好み、絶対に手を出さないと決めた『堅気』そのもの。
部屋の前に辿りつくと今度はズボンのポケットから受け取っていた鍵を取り出す。
片手だからか、妙に手がうまく動かなくて小さな鍵穴に全然差し込めない。
ガチャガチャと金属同士ぶつかる音が余計に気を焦らせるから余計に手が震えて、思わず舌打ちした。
「……なにやっとんだか」
手首から先だけが浮いてきて、俺から鍵を奪う。
苦戦していた俺をからかうように、古ぼけた鍵を一度で鍵穴に通しあっさりと施錠を解く手に、なんだか言いようのない思いが込み上げた。
蹴飛ばすように扉を開ける俺に、バギーの肩がびくりと跳ねる。
「お、おい……? シャンクスさん……?」
咎めるような、宥めるような響きを持つ声を無視して明かりも点けず、部屋へと大股で進んでいけば、大部分を占めるベッドの上にバギーの身体を投げ飛ばした。
「うぎゃ! てめぇ、なにしやが……っ!」
「バギー……」
ベッドに仰向けで転がるバギーの腹に跨ると、バギーはぎょっとしたような顔で言葉を止めた。
殴られる前に手首を掴んで、その場に縫い留めるように体重をかける。喧嘩のとき、よくこうやってバギーを抑え込んだっけ。
別れから一年くらいしか経っていない筈なのに、もう懐かしく思うなんて。なんだかまた寂しくて、誤魔化すように笑ってみる。
オーロ・ジャクソン号に乗っていた頃は帽子の中に隠されていた髪。暗い部屋でも光るようにシーツの上に散っているのが綺麗だなぁなんて、暢気に思った。
「……なにしやがる、ハデバカ野郎」
不機嫌そうな顔のバギー。でもなぜかその声は緊張しているように固い。急にマウントポジションを取られたからか? それにしては抵抗も少ないけど。
「ちょっと、話したくて……久しぶりだな、バギー」
「これが話したいっていうヤツの体勢かァ!?」
「だってお前、俺の顔見て逃げようとしただろ」
「あったりまえだろォ! こんなところで二人固まってて、万が一顔が割れてるヤツに見つかってみろ! 面倒じゃ済まねーぞ!」
ぎゃんぎゃん吠えてくるバギーの様子に、長く息を吐き出す。やっといつも通りだ、と気が抜けたのだ。
突っ張って身体を支えていた腕の力を抜いてバギーの胸に自分の頭を乗せると、また「なにしやがる!」と怒鳴り声が上がる。
その騒がしさと、こうして耳を寄せなくては聴こえないほど静かにとく、とく……と規則的なリズムを刻む鼓動は本当に同じ人間から聞こえてくる音なのか。
実は幼い頃から不思議に思っていたのだ。
だがどちらの音も確かにバギーで、聞き馴染みのある音で。
この島に着いたときから……いや、報せを聞いたときから。……もしかすると、もっと前……あの船を降りた時から。ずっと張りつめていたものが、ようやく緩んでいくのを感じた。
「……バギー」
「なんだよ、退けよ」
呼べば返事がある。それがどれほど幸福なのか。
別に、一年間誰とも会話しなかったなんて馬鹿な話があるわけではない。
知らない誰かと出会って、短くてもそこに何かが生まれて、また俺は強くなってワクワクして……どうして自分が、世界を見て回りたかったのか。漠然としていた憧れの輪郭がはっきりしたのは、多分、成長というヤツだ。
だけどずっと、知らない声ばかりの世界に居ることがどういうものかを理解していなかったことも自覚した。俺を知っていて、俺の知っている人のいない世界に飛び込むことがどれほど楽しく刺激的で……寂しくて退屈なのかを、思い知った。
後悔をしているわけではない。けれど、たまにあの船が恋しくなった。
騒がしい隣の音を聞きたくなったし、賑やかな色彩を見たくもなった。
「なぁ、バギー……」
「だーかーらー! なんだよ!? ……ていうか、いい加減退きやがれ!?」
抑えていた手首が少しだけシーツから離れるものだから、掴む手の力を僅かに強める。
抗議するように尻を蹴る膝は、仕方ないから甘んじて受けよう。今バギーの身体で一番自由な部分だ。けれど本気で蹴ろうとしてこないのは意外で……もしかしたら、バギーも俺と同じ気持ちを抱えているのではないかと思ってしまう。
「……明日、だな」
ロジャー船長が、処刑されるの。
どうしても言葉には出来なかった部分を、バギーは難無く拾い上げる。
ピタリと動きを止めたバギーは、数秒の沈黙のあとただ一言「そうだな」とだけ返した。
「他のみんなも来てるのかな……」
「どうだろうな。大抵賞金首だし……来て捕まったらそれこそロジャー船長に殺されるだろ」
「じゃあ俺達だけかぁ」
とく、とく。静かなリズムだなぁ。
ロジャー船長の鼓動はもっと早くて……たまに少しだけ跳んだり、もっと早くなったりしていた。
明日、その音が止まってしまうのだろうか。一度そんなことを思うと次から次へ止まらなくなる。
あの豪快な笑い方も、格好良いけど大きくてたまにビックリさせられる声も、すべてを薙ぎ倒すような剣の音も、雷鳴のように轟く覇気も。
本当に明日で、終わり?
鼻の奥がツンとする。バギーの胸に目を擦り付けると、また旋毛にバギーの怒鳴り声がぶつけられた。
どうして、なんて散々ここに来るまで考えた。
どうしたら、なんて今の今だって考えている。
それでも答えなんて浮かんではくれない。代わりに出てくるのは俺の不甲斐なさの象徴だけ。目頭が熱くなって、込み上げてくるものに喉が閊える。
涙を流す暇があればもっと、ちゃんとしたいのに。
バギーの胸にきつく顔を押し付けて、必死に出てこようとするものを塞き止める。目から出ていけず鼻に流れた水もズズ、と音を立てながら必死に啜った。
バギーはそんな俺に呆れたのか、溜息を吐いただけで何も言わない。いや、溜息以外にも空気が揺れた気もするからもしかすると声に出さないだけで、何か文句は言っていたのかも。
それでも、バラバラになって逃げもしないそれはバギーの優しさだろうか。
静かな部屋の中に聞こえてくるのは街の声だけ。
明日の処刑を待ち望む心無い声も多く耳に入ってくるが、その騒がしい笑い声や怒号のすべてがロジャー船長に向けられているわけではなかった。
走る子どもの声と軽い足音に、それを追う親の焦った声。久々の再会を喜び弾む高い声に、突発的な休業に焦る声。
明日喪われる人がいても、変わらない生活音が逆に哀しくて腹立たしいのは何故だろう。
バギーの心臓は相変わらず規則的なリズムを刻んでいる。俺も同じだろう。自分では聞こえないけれど。
いつまでこの音は続くんだろう。
死にたいわけじゃない。哀しくて、今だって胸が張り裂けそうではあるが、明日ロジャー船長と一緒にこの心臓を止めてしまえれば……なんてことは思わないのだ。
けれど、ただ、不安に駆られる。
「なぁ、バギー……」
「何回呼ぶ気だ、てめぇ」
うんざりしたような声だ。それでも、呼べば返って来る。返事がある。下唇をきつく噛み締め、思わずバギーの手首を掴む力を強めた。まるで縋っているみたいだと思ったが『みたい』ではなく、俺は今まさにバギーに縋っているのかもしれない。
「俺と、一緒に行こう」
言い終わると同時にまた下唇を噛み締める。きつく閉ざした視界のおかげでバギーの表情は見えないが、俺の下にある身体がぴくりと動き、額で感じる鼓動も一瞬だけ早くなった。
「……いよいよ頭が沸いたか」
静かに、けれど蔑むような声だ。いつものからかうような、馬鹿にするようなそれとは違う。
いつも、だなんて。一年間離れていたのに使っていいか分からない単語だなぁなんて考えてしまうのは、逃避だろうか。
「船、バギーもまだ買ってないだろ? 仲間もどうせ集まってないんだろうし」
「決めつけてんじゃねーよ! てめぇこそまだ何にも始めてねェんだろ、どうせ」
「そうだ。まだ何にも始まってない。だから、だからさバギー……」
曲げていた肘をゆるゆると伸ばして、重たい頭を持ち上げる。顔を押し付けたときにずれていたらしい麦わら帽子が、起き上がった拍子にバギーの顔へと落ちた。またぴくりと身体が動く。
麦わら帽子をどかしてやりたいけど、今この手を離すことはどうにも出来なくて。また少し肘を曲げて顔を近付け、額で帽子をずらしてやる。
帽子がずれ、至近距離にバギーの顔が出てきた。
俺を見上げるバギーの眉間には深く皺が刻まれ、不快を表すかのように口角もへの字に下げられている。
あぁ、もう。お前ってさぁ。
今からその口がどう動き、なんて言答えるのか。その顔だけで分かってしまった。
「ふざけんな、誰がてめぇなんか……っ!?」
だから、仕方なくその口を塞ぐ。
驚いたように見開かれる青い瞳。お互いの睫毛がぶつかりそうなほど顔を近付けたことは、物心ついてからは流石にない。
バギーがまたなにか怒鳴っているが、そのすべては音にならず、俺の口の中へ吸収されていくだけだ。
これ、いいな。もっと早くこうしておけばよかったのかも。そうしたら喧嘩に発展することも少なくて、レイリーさんに拳骨を落とされる機会もきっと減っていたはずだ。
口の中にバギーの声を閉じ込めるような感覚が少し面白くて、つい口角が上がる。
けれど視界の端でバギーの手がわなわなと震え、掴んでいる手首に本来ないはずの境目が出来始めているのを手の平で感じ取り、慌てて唇を離した。
お互い目を開いたままだったけれど、近すぎると視線って合わないんだな。ぱちりと合った青い目は、困惑で揺れていたが、徐々に怒りの色を濃くして俺を睨み付ける。
「て、めぇ……マジでなにしやがる! このスットンキョーが! 少し離れた間に余計にバカになりやがったかァ!?」
怒りに顔を赤くするバギー。けど、唇を離せば掴んだ手がそれ以上動くことはなくて。やっぱり今日のバギーは優しい。
それが餞別のつもりじゃなければ、いいんだけど。
「俺と一緒に来いよ、バギー」
不安を打ち消すようにもう一度言えば、バギーは顔を酷く歪める。寄せられた眉も細められた瞳も、噛み締められた唇の何もかもが俺の言葉を望んでいないことを伝えているが、そんなの知らねぇ。
バギーは何かを言おうと口を開いたが……そのまま一度噤み、代わりに舌打ちをした。それから力を抜くみたいに長く息を吐き出して、顔を窓の方へ向ける。
視線を逸らされるのは、拒絶なのか。また名前を呼ぼうとした俺を遮るように、今度はバギーが俺の名前を呼ぶ。
とても、静かな声だった。今まできっとこんな声色で呼ばれたことはないと思うくらいに。
「案外、脆いもんだな」
「……なにが」
「お前とか、ロジャー船長とか」
挙げられた名前に思わず手の力を強めると、痛かったのかバギーの横顔が少しだけ険しくなる。それでも視線が戻されることはない。
「シャンクス、正直てめぇの気持ちは分からないでもない」
長い下睫毛が僅かに震えて、それから瞼が下りる。皮膚が薄くて青い血管が透けている瞼は、まるで化粧をしているみたいにも見えた。船長がよく、鼻も相俟って道化のようだと言っていたのを思い出す。
「あの船を降りて渡る海は本当に広くてよ……おっかねぇことばっかり起きやがるし……正直ここに来ることさえ、俺には一苦労だったぜ。どれだけあの船が、船員たちが、凄かったのかを思い知らされる。……どうせ、てめぇも同じようなもんだろ?」
そうだよ。声に出さず心の中でだけ頷く。
広い世界を散々見て来たと思ったのに、まだ初めての景色に出会うんだ。知らない色の花、初めて食べる料理、未知の病に凶悪な武器。
それはなんて幸せで、楽しくて……恐ろしいのか。たまに、こんなに広い場所で一人でいることが不安になるくらいに。
まだ勝てないと思わされる敵だって沢山いた。人間も動物も、植物や天候といった自然だって。
ロジャー海賊団であったときも、そりゃ強敵とは出くわしていたけれど……一人で対峙することがこんなにも怖いと思わなかった。
あの船はなんて幸せで、なんて安全な場所だったのか。降りて、やっと思い知る。
「そんなときに、知った顔に会えば手を伸ばしたくなるのが道理ってもんだ。……今日は特に、あの船の……船長の思い出を、語りたい日でもあるしな」
だったら、と唇だけ動かす。横を向いて眼を閉じているバギーには伝わらないかもしれないけれど。
だったら、頷いてくれ。俺と一緒に来てくれ。
考えていることは伝わったのに、思いは通じなかったらしい。バギーは「だがよ」と小さく呟いた。
「それは全部『こんな日』だから思うことだ」
「……バギー」
「俺とお前は目的も、考え方も、何もかもが違う。いつだって意見も好みも合わなかったじゃねェか。……あの船で出会わなきゃ、きっと俺達は交わることもなく、こんな風に喧嘩することさえなかっただろうよ」
「バギー!」
声を荒げるとようやくバギーは目を開き、ゆっくりとこちらへ視線を戻した。静かな瞳は俺を責めるみたいな冷たさを湛えていて、俺は胸が苦しくなる。
どうしてそんなことを言うんだ。俺達はそんな、やわな関係じゃない。俺の兄弟で、友人で、仲間で、ライバルはお前なのに。
オーロ・ジャクソン号に共に乗っていなかったら? そんなのはありえない『もしも』の話だろう! 考える必要すらない。
言いたいことは沢山浮かぶのに、何故か言葉にならなくて、せめてもの反論に必死に頭を振る。その激しさに自分で酔って、吐き気がするくらいに。
「シャンクス。俺達はあの人の寿命を知ってた。知ってたのに……本当に死んじまうとは、心のどっかで思ってもいなかったんだろうなァ……あの人、いっつも無茶してたし、笑ったたからよぉ」
ロジャー船長の命の期限を、四年も前から知っていたのに。
死ぬわけがない、と本当はどこかで信じていなかったのだ。船長に余命宣告をした医者も、クロッカスさんも、診断を間違えることなんてありえないと信頼できる名医なのに。
ロジャー船長なら、俺達の想像も越えて病気すら跳ね飛ばし、クロッカスさんも医者も驚かしてくれると思っていた。鎌を持った死神を、返り討ちにしてくれるものだと思っていた。
だけど、現実はどうだ。ロジャー船長は明日死ぬ。
長年その命を蝕んだ病気でもなく、長年の好敵手の薙刀に倒れるでもない。海兵たちによって、その首を切り落とされるのだ。
あの人の最期が、そんなものであっていいはずがないのに。
ぼろりと、両の目から涙が零れ落ちる。頬を伝う前に重力のままバギーへと落ちていくそれに、バギーは心底嫌そうに顔を顰めた。
死なないで。そう思うのに、どうすることも出来ない。レイリーさんもギャバンさんも、船長の選択を覆すことはしないから、きっと助けには来ないのだ。他の船員たちだって。俺も、そうだ。
ドジって捕まったんなら、船長を助ける為無鉄砲に飛び出せたのに。
けれど真実はそうじゃない。船長は船長の意志で、その首を海兵に差し出した。
だったら俺達は、どうすることも出来ないじゃないか。ロジャー海賊団は解散しているけれど、いつまでだってあの人は俺達の船長だ。だったらその航路を捻じ曲げるわけにはいかない。出来るわけもない。
なんでいつも勝手なことをするんだ。そう怒っていたレイリーさんの声が脳裏に甦る。本当に、勝手なことばかりする。俺達の想像もできないようなことをしでかすんだ。
ぼろぼろと溢れる涙は止まらなくて、せめて泣き喚くことがないよう必死に唇を噛み締める。
バギーの頬に落ちた涙が顔の上を伝っていくから、まるでバギーも泣いているみたいだった。
「あの人が死ぬってんで、いつもの前向きさも死んでんだろ。……一人の航海が思ってた以上におっかなかったってのもあるか」
泣いて何も言えなくなっているのを良いことに、バギーはどんどん言葉を重ねていく。それらはすべて、バギーらしくない遠回しな拒絶だ。
言い聞かせるような、説得するような言葉たち。
泣いてぼんやりしてきた頭にそれが入ってくるのが嫌で、もう一度その口を塞いでやりたくなる。けれどそれをした瞬間、バギーはまたこの手から逃げ出そうとするのだろう。それは避けたかった。
「おかげでてめぇは、守られてたガキだった頃の根拠のない自信だとか、信頼だとか……」
バギーの大きな口がゆるく歪められる。喧嘩のときによく見た、馬鹿にした笑いとよく似ているが、なんだか少し違うような気がする。
なんだっけ、この表情。
「船長だけじゃなく、他の仲間もいつか死ぬことを知っちまった。誰も死なねぇなんていう幻想が、壊れちまったんだろ」
「俺は、別に……っ!」
壊れてなんかいない? そもそも考えていない? どちらも口にすることなんて、到底出来なかった
ロジャー船長に対してそう思っていたように、レイリーさんも。ギャバンさんやクロッカスさん、おでんさんたちだって。
あの人達は死なない。死ぬはずがないと、根拠のない幻想を抱いていたのだ。
そう、目の前のバギーだって。
「だからてめぇは、俺が死ぬと思ってる。ここでまた別れて、手の届かない場所に行ったら俺が死ぬと……信じてるから、そんなに必死なんだよ」
「ちがう!!!」
まるで心を見透かされたような言葉だった。けれど今度は否定の言葉が口から滑り落ちる。
怖がっては、いる。でも信じてなんかいない。
バギーが知らないところで、俺の知らないまま死んでしまうのが恐ろしいだけだ。そのとき俺が何も出来ないことも、バギーがいなくなった世界にも気付かず笑っていることも、嫌なだけ。
ガキみたいにぶんぶんと頭を振る。止まりかけていたはずの涙がまた落ちた。
「違わねぇだろ。てめぇは俺が自分より先に死ぬもんだと思ってやがる」
「違う! そりゃ……実際、俺の方が強いし……それで心配ってのは、あるけど……でもっ」
「腕っぷしだけのてめぇと違って俺様には戦略も逃げ足も、バラバラの能力だってあるんだよ! 総合的に見りゃ俺の方が死ぬ確率低いわ! ハデバカ野郎!」
そうか? でもすぐ怒るし、案外お前だって突っこんでいくタイプだと思うんだけど。高熱出してるのに何があるか分からない前人未踏の島に行こうとするくらい、無茶なことしようとするときだってあるし。
「本当に……ただ、心配なんだよ。お前が……」
素直に吐き出すと、バギーの顔は余計に険しくなった。眉間には深く皺が刻まれ、見上げる瞳は俺を責めているみたいに鋭くて……目を、逸らしたくなる。
「やっぱり、俺が『ナニカ』に勝つことを信じちゃいねぇ……ハデに生き延びることを信じちゃいねぇってだけじゃねーか。俺が死ぬ方に賭けてる」
「ちが……っそうじゃねぇ!!!」
「『そう』でしかねぇだろ!!!」
今日一番の怒鳴り声に、肩が跳ねた。ビリビリと身体を揺らすほどの声だ。単純な声量ではなく、込められた憤りやおれへの失望が、おれの肌を刺す。
「ちがう? そうじゃねぇ? どの口が言いやがる! 何度でも言ってやろうか!? テメェは自分が傍にいなきゃおれが簡単に野垂れ死ぬと思ってんだ! おれが殺されるってなァ! だがよ、シャンクス。おれが死ぬほどの相手なんざ、今のテメェが傍にいるところで死体が二つに増えるだけなんだよ!」
「ちがう!」
「ちがわねぇ!」
まるであの船での日々で繰り返した、決着のつかない問答のようだ。
違うのは、この問答を終わらせてくれるあの拳骨がないこと。
レイリーさん、どうしよう。おれたちは喧嘩の止め方すら分からないまま、あの船を降りてしまっていたみたいだ。
苦しくて、悲しくて、バギーの手首を掴む手にもっと力を込めてから再びその口を塞ぐ。
バギーはまた全身でおれを拒もうとするけれど、それをただ力で押し込めた。
なぁ、バギー。知ってるか? これ、ほんとうは誰かの言葉を奪うための行為じゃないんだって。
大切な人への『愛してる』を伝えるための、キスなんだ。
ゆっくりと唇を離すと、睫毛に引っ掛かっていたのか、それともバギーの顔に落ちていたおれの涙がついたのか、また頬が一筋、濡れ落ちていく。
「お前が、好きなんだ……」
言葉にしてはじめて、自分でも『そうなのか』と思ったけれど。キスをして愛を伝える感情なのかはまだ分かっていないけれど。
けれど離れがたいのも、心配なのも……死んでほしくないのも、好きだから。そういうことにしてしまえればきっと楽だし……正しいのだろうということは、分かる。
嘘を吐いている訳じゃない。あの船の中でもバギーはずっと特別で、一番隣にいた存在。
揺蕩うこの感情にお互い名前をつけていなかっただけで、きっとこれを『恋』だとか『愛』だとか、そういう名前をつけても間違いじゃないんだ。
バギーはおれの言葉を聞いた瞬間目を見開き、おれの顔をその青い球体へ映していた。
じわじわとその白目が潤んで……青い瞳が沈む前に、瞳の端から一筋、涙が零れる。
「……よりにもよって」
バギーの声が震えている。いや、声だけじゃない。握り込んだ手首も、その声を吐き出す唇も、真っ赤な鼻すらも、わなわなと震えていた。
バギーはずっと、おれより泣き虫だった。哀しくて泣くより、悔しくて怒って、その頬を濡らすことが多かった。
だから今、バギーのこめかみを伝っている涙の原因が怒りなのか、悲しみなのか。おれには分からない。
「よりにもよって……それを理由に、するのかよ」
震える声が、おれを責めている。それだけがおれに分かることだった。
揺蕩うこの感情に、名前を付けなかった。お互いに。
おれがバギーの感情に気付いていたように、バギーだっておれの感情に気付いていて……だからこそ、こんなタイミングで明確なものにしようとするおれのズルさを、責め立てる。
「バ……」
何を言おうとしたわけでもない。ただ名前を呼ぼうとした瞬間、真横から飛んできた足がおれの頬を強く打ち付け、おれの身体はそのまま床へと転がり落ちる。
いつの間にか、バギーが下半身を切り離していたらしい。ベッドの上にいるだろうバギーを睨もうと身体を起こすと、そんなおれの腰に跨るようにまたバギーの下半身が飛んできて、数秒遅れて上半身がその上にくっついた。
さっきのお返しみたいに、腰の上に座られ、切り離された手がおれの手首を床へと縫い留める。
見上げるバギーの顔は険しくて、それでも目の横に伸びた涙の跡がなんだか情けなくて、笑ってやりたいのに喉からは引き攣ったような声が漏れるだけだった。モモの助がしゃくりあげて泣いていたアレと、よく似ている。
「シャンクス」
まだ、バギーの声は固い。バギーはそんな固い声のまま、小さく「予言してやるよ」なんて手品師みたいなことを言い出した。
「予言してやるよ、シャンクス。お前はいつか明日を思い出に出来るし、笑って話せるようにもなる」
「は……」
その『予言』に、おれは思わず身体を固くする。
思い出に? 笑って話す? まだその瞬間を見ていないうちからこんなにも苦しくて苦しくて、バギーにも迷惑をかけているのに?
「船長を思い出すときに浮かぶのは明日の死に様じゃなくてあの豪快な笑顔になるんだ」
「そん、なの……」
それは幸せなことのはずなのに、何故か呼吸が苦しくなる。それを良いことだと、思えないでいる。
「それからきっと、仲間を得る。おれ達は趣味が合わねぇってのに、あの船じゃお互いしか対等な立場がいなくて馴れ合ってたが……この広い海にゃお前の甘ェ考え方に共感して、ついてきてくれるヤツは大勢いるだろうよ。親友とか、相棒とか……そんくらいの相手を見付けられるだろうぜ」
バギーの予言は、ずっと優しい言葉ばかりを紡いでいる。おれの未来を信じて、祝福してくれている。
なのにどうして、こんなにも苦しいのか。
「まって、バギー! おれは、そんなの……っ」
聞いていたくなくてバギーの拘束から逃れようと身体を起こそうとするが、そう体重の変わらない相手にマウントを取られてしまっては、簡単に身体を起こすことなど出来やしない。
仕方なく乞うように何度もバギーの名前を呼ぶけれど、意地の悪いバギーがそんなことで『予言』を止めてくれるはずもなく、また言葉が紡がれていく。
「そんな奴等に囲まれて、お前は俺のことも思い出さなくなる。名前を聞いてやっと、そういえばそんなヤツいたなぁなんて暢気に言いやがるんだ」
「バギー!」
「シャンクス。てめぇは自分の足で踏ん張って立ってられるようになって、歩いていって……何もかも『過去』に出来るようになるんだよ。俺も同じだ。生きてりゃそうなるんだ」