プロポーズアゲイン「お父さん。」
シラユキがトコナミを呼ぶ。
トコナミはぼんやりと窓辺に立って居間から外を見ていた。昨夜から降っていた雨が上がって、むくむくとした薄鼠色の雲がまだらに空を隠し、庭の紫陽花は雫をたくさんのせて嬉しそうにたわんでいる。
「トコナミさん。」
シラユキは台所から顔を出して、声の聞こえていないようなトコナミの背中をちょっと呆れたように見る。
何かを考えているのだ。そんな時はちっとも周りからの声が届かない。
トコナミの背後からそっと近づく。その背中にシラユキは少し不安になる。
また急にいなくなったりしないかしら。
テオティと共に生きるから君とはいられない、
だなんていわないかしら。
ふとそんなことを考えてしまう。シラユキは少し痩せて緩くなった左手の薬指に嵌った指輪を、右手の親指と中指でいじる。
トコナミが姿を消してから、このしがらみを外してしまおう、と何回か思い詰めたことを思い出す。帰ってくると信じていても、心が悲鳴を上げることはあったのだ。そんなことを思い出して心がチクリと痛む。
「トコナ…」
ともう一度声をかけようとした時、振り返ったトコナミに見下ろされて視線が合う。夏至の夕方の太陽のような金の瞳が、少し怯えたように揺れている。
「シラユキ」
「どうしたの?」
その様子が身体は大きいのに臆病な犬を思わせて、シラユキは思わず小さく笑ってしまう。
「いや、あのだな。」
トコナミは言い淀んで、視線を彷徨わせていたが、心を決めたのか、シラユキを見据えて一旦ぎゅっと口を引き結んでから口を開く。
「これを」
そう言ってポケットからゴソゴソと何か取り出す。
不思議に思って差し出されたトコナミの手の中を見れば、白い丸みを帯びた小さな四角い箱があった。
「これは?」
尋ねれば、トコナミがその蓋を開ける。
中にはシルバーのリングに透き通った黄色と白銀の小さな丸い結晶が2つずつ、電車の前照灯みたいに埋まっている指輪が入っている。
「これを貰ってくれないか?」
シラユキは驚いてトコナミの顔を無言で見上げる。
「す…スイートテンダイヤモンドだ。」
「す……?」
呆気にとられて口を窄めたシラユキに、トコナミは少し焦ったように話しだす。
「わかっている。ダイヤモンドでもなければ宝石が10個埋まっているわけでもない。あー、そのだな、地球では、結婚10年目にお祝いをすると島さんから聞いたんだ。すまない、10年目からもだいぶ過ぎてしまってもいるんだが。はぁ、こうしてみると、私は情けない夫だな。」
いったん言葉を切ってトコナミは少し眉を下げる。
「ダイヤモンド10個は用意できなかったけれど、ユゴスピアの人工鉱石を使って指輪を作ってみたんだ。」
そう言って、指輪をケースから抜き取ると、ケースをごそごそとポケットにしまい、シラユキの左手を取って少し緊張した面持ちで薬指の結婚指輪に重ねて指輪を嵌める。
「これまで、1人にして本当にすまなかった。アブトを育ててくれて本当にありがとう。」
トコナミは少し照れたように微かに笑みを浮かべる。
「改めて、これから一緒に歩んでくれないか?」
シラユキは突然のプロポーズみたいな言葉に思考が停止する。
「こ、こちらこそ」
そう小さな声でボー然としたまま呟いて、シラユキは嵌められた指輪を見つめる。花の上で踊る雨の雫のように丸くて小さくて可愛らしい宇宙から来た鉱石。
トコナミがいなくなった時、これから先ずっと1人なんじゃないかと思っていた。アブトの成長を見守ることも、喜ぶことも。悩むことも、悲しむことも。
アブトまでが失踪したと告げられた時は、誰もシラユキの周りからいなくなってしまって、大事なものは何も残らないんじゃないかという不安に襲われた。それは火傷のようなチリチリとした痛みで、周りの人からは見えない部分を焦がしていた。
でも、私は何もできなかった。
ただ祈るように毎日を過ごしていただけだ。なんの力もない自分は、シンや研究所のみんなに託して信じて待つしかできなかった。2人が帰ってきたらいつでもまたちゃんと暮らせるように、待つことしかできなかった。
シラユキはあの時の気持ちに引き戻される。
「待っていてくれてありがとう。」
トコナミの言葉にハッと顔を上げる。待つしかできなかったシラユキはその言葉で報われる。
「……もう、どこにも行かないでね。」
思わず本音がシラユキの口から溢れる。
「すまなかった」
そう言ってトコナミはシラユキの手をぎゅっと握る。
その手の確かさに、シラユキの眦からポロポロと涙が溢れる。ひとつ、ふたつ、みっつ。
トコナミはその雫を左手で拭う。シラユキを抱き寄せようと手を腰に回したところで、ドシン!という何かが倒れる音がした。
「ってて」
「ちょっ!と!シン!!」
焦ったアブトの声が聞こえて、2人は声のする方を振り返る。アブトの背中の上にシンが乗っかって扉から雪崩出ている。
恥ずかしいところを見られてしまった、とトコナミは額を抑える。アブトとシンは気まずそうに立ち上がって、部屋の隅で顔を寄せ合ってこづきあいながら、小さな声で何やらお互いを責め合っているようだ。
「出かけたんじゃなかったのかい?」
トコナミが声をかければ、少し顔を赤くしたアブトが、
「ちょっと忘れ物して、」
と腕を組んでそっぽを向く。一方でシンはなんだか興味深々という瞳でシラユキとトコナミに話しかけてくる。
「あ、あのユゴスピアの人工鉱石ってなんですか?」
シンが尋ねる。だいぶ前から立ち聞きしていたな、と思いつつも、
「ユゴスピアには天然資源がないからね、ユゴスピア内の物質を分解して再構成して新たに資源となる鉱物を作っているんだ。特に宝石は貴重なんだよ。」
と、トコナミがそう答えれば、シンが寄ってきてトコナミに取られたままのシラユキの手に嵌った指輪をまじまじと眺める。
「へぇ〜!なんかすごいね、綺麗!」
気まずそうなアブトもシンの後から着いて来て、一緒に指輪に見入っている。
キラキラとした瞳で指輪を見入るシンの尖った口がなんだか幼い子どもみたいだし、アブトの、興味を惹かれて何かを考え始めているその顔はトコナミそっくりだ。
シラユキは、そんな2人を見ていれば、笑いが込み上げてきて、涙は引っ込んでしまった。
「また後で見せてやるから。……これはシラユキにあげたんだから、とりあえず、な?」
なんだか2人が物欲しそうな顔で指輪を見ているので、トコナミはシラユキの手をぎゅっと握ると指輪を2人の目の前から遠ざけて隠してしまう。
「わかってるってば」
アブトがちょっと口を歪めてトコナミを見上げる。
「あ、そうだ、2人とも夜ご飯はちらし寿司でいいかしら?シンくんは苦手なものない?」
シラユキは、ふと初めにトコナミに相談しようとしていた夜ご飯のことを思い出して2人に尋ねる。
「はい!ないです!ちらし寿司好きです!」
シンがにっこり笑って答える。シンの笑顔を見ればシラユキは釣られて微笑んでしまう。
「じゃあ6時くらいまでには帰ってきてね。」
シラユキがそう言えば、シンとアブトは2人してパッと時計を見てから顔を見合わせる。
「やっば!」
「行くぞ、シン!」
バタバタと2人が出かけて行くのを見送る。
「いってらっしゃい、気をつけてね。」
あの時苦しそうな顔でうなされていたアブトは、今シンの隣で楽しそうに弾んでいるように見える。シラユキはそのことに心から嬉しくなる。
「私ね、あなたと出会えて、いろいろあったけれど、今こうやって過ごせること、アブトが成長してること、幸せだと思う。きっとこれからもいろいろなことがあって悩んだり、考えたりすると思う。」
そう言って隣に立つトコナミを見上げる。
「これから一緒に悩んだり考えたりしてくれるかしら?」
トコナミはシラユキの左手を両手で握る。
「もちろんだ。」
トコナミはシラユキの薬指に嵌められた2本の指輪をなぞって、その指輪が少し緩いことに気がつく。
「少し痩せた…な、サイズ直そうか?」
「大丈夫よ、これくらい。」
シラユキが笑って言えば、
「じゃあケーキを買いに行こう。」
トコナミがシラユキを見つめて真面目な顔で言う。
「太らせる気ね?」
そう言って、思わず笑えばトコナミも釣られて笑う。
シラユキは指輪を見る。きっと宇宙の果てから私のことを考えていてくれたのだろう、この指輪はそんな証明に思える。
シラユキはこの少し風変わりな自分の夫の手をぎゅっと握り返して微笑んで言う。
「そうね、一緒にケーキ買いに行きましょうか。」