9.23 あなたと話がしたいんだ「シマカゼ、なんだ、まだいたのか。」
リュウジが休憩室の扉をくぐれば、シマカゼが机に座って何かを書いているような背中が見えた。ほんの少し前屈みになっているその背中に歩み寄りながら声をかける。
「もう7時半だぞ。」
「リュウジさん。」
顔を上げたシマカゼが振り返る。
「勉強か」
リュウジが自分のお茶のペットボトルをテーブルに置きながら、シマカゼの向かいに座る。
シマカゼはリュウジの動きを目で追いかける。
「はい。最近数学が難しくなってきて、ちょっと予習に手間取っちゃってて……でももう帰ります。」
そう言って、シャーペンを置いてノートを閉じる。
「リュウジさんは、今から帰りなんですか?」
「そうだな。」
リュウジは、シマカゼがノートや教科書を片付ける手元を何とはなしに見守る。
「………お、お腹空きましたね。」
「そうだな。」
「リュウジさんもまだですか。」
「まだだ。」
ふと、リュウジがシマカゼの顔を見れば、シマカゼはちょっと眉を下げて、少し困ったような顔をする。そして、ちょっとだけ、言い淀むが、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…………ごはん、食べにいきませんか、」
リュウジはシマカゼから初めて発せられたその誘いの言葉に内心では少し驚くが、表情を変えずに返す。
「だめだ。もう遅い。早く帰れ。」
「………」
シマカゼは少し沈黙した後に言葉を続ける。
「この間は連れて行ってくれたじゃないですか。」
そう言うシマカゼの頬が少し赤くなるのをリュウジは見る。ナガラならともかく、なんとなくシマカゼらしくない発言だ。じっとそんなシマカゼの顔を見つめて言う。
「飯食ってたらもっと遅くなるだろ。8月に比べて日が落ちるのも早くなったからな。もう外は暗い。」
「大丈夫です。ちょっとくらいなら。」
リュウジが理由と共に伝えれば納得して素直に従ういつものシマカゼとは違って食い下がってくることに気がつくが、それでも、リュウジはその誘いに難色を示す。
「シマカゼがもう少し大きくなったらな。」
「………それはいつですか?」
シマカゼは視線をノートを持った自分の手元に落とす。
「僕がドクターイエローに乗れなくなるくらい大人になったらですか?」
「シマカゼ。」
リュウジは、机の上で組んだ腕に体重をかけ、少し前のめりになって、少し俯くシマカゼの顔を覗き込む。
「どうした。」
シマカゼのその表情は緊張しているが、瞳は何かを堪えて揺れている。
「リュウジさんと……話がしたいです。」
そう言ったシマカゼは、言い慣れない我儘に緊張してしまう。
「ドクターイエローの話をしたいんです。」
シマカゼはリュウジの視線に耐えられなくなって、もっと俯くと視線を手の中のノートに沈める。
リュウジはそんなシマカゼに少しだけ見入っていたが、腕を組んだまま椅子の背もたれに背を預けると小さくため息をついた。
シマカゼはリュウジのその反応に表情を凍りつかせたまま動けない。
「9時には帰るぞ。」
それを聞いたシマカゼはハッと顔を上げる。
「………」
リュウジの口元には微かに笑みが浮かんでいる。
「でも家にちゃんと連絡しておけよ。」
緊張していたシマカゼの表情が緩むのを見て、リュウジは思わず眉を下げる。
「滅多にないシマカゼの我儘だ。聞いてやる。」
シマカゼはそれを聞いて、顔を赤く染め、リュウジはそれを見て、小さく笑いを漏らす。
「5分で出るぞ。」
そう言って立ち上がり、シマカゼの頭に軽くポンと触れる。シマカゼも慌てて荷物をまとめると、先に休憩室を出るリュウジの背中を追いかける。
シマカゼが勉強していたのなんて、リュウジを待つ口実にすぎなかった。
シマカゼは、その日休日出勤していた浜松が、ふと、カレンダーを見て漏らした独り言を聞いていたのだ。
「今日は9月23日かぁ、923ドクターイエローってね。」
思い出される戦いの日々。ドクターイエローが閉塞解除して、リュウジからシマカゼの手に引き継がれた時のことを思い出す。
あの時シマカゼは特別な何かを手に入れたのだ。
それは、熱くてどんな形なのかもわからない眩しい光のようなものだった。
そう思い返せばリュウジに聞きたくなったのだ。
ドクターイエローに乗ったことはあなたの人生でどんな意味を持ったのですか、と。
それはシマカゼにとってもまだきちんと定まっていない、現在進行形で手の中にある問いだ。
あの日、みんなと将来の夢を話し合った。みんなのレールの行き着く先はバラバラで、それでも希望に満ちていた。
けれども、シマカゼがこれから自分が進みたい道を行くとしたら、この光をいつか手放す時がくるのだろうか、と、ふと思ってしまい、なんだか不安になったのだ。
そう思えば、シマカゼが憧憬を抱く超進化研究所のロゴを纏うあの背中が頭の中に散らついてしょうがなかった。
それについて、シマカゼの前を行くリュウジと話がしたいと思ったのだ。
だから勇気を出して誘ってみた。好きなものを丁寧に口に運ぶリュウジは、いつもよりほんの少しだけ饒舌になる。もしも2人きりでごはんを食べながら話をすることができたなら……、と。
歩きながらリュウジは少し振り返ってシマカゼに尋ねる。
「何を食べたい。」
「リュウジさんの好きなものがいいです。」
シマカゼはバッグパックを肩に掛けながら小走りでリュウジを追って、隣に並んで言う。
リュウジはそんなシマカゼをチラリと見下ろして少し呆れたような顔をするが、顎に手を当てて考える。
「……エビフライかな。」
シマカゼはリュウジを見上げてはにかむように微笑む。
「そんな気がしていました。」
相手を全面的に受け入れてしまうことを楽しむかのような、シマカゼの控えめな態度に、いつもほんの少しペースを崩されてしまう。でもそれはなんだか居心地が良いことにもリュウジは気がついている。
そして、そんなシマカゼの小さな我儘の裏にある訳に、リュウジはふと思い当たったのだ。
「今日は9月23日か。」
小さな声で呟く。
シマカゼは少し驚いた顔をするが、前を向いてそれに応える。
「そうですね。」
慣れない我儘を言ってしまったシマカゼの心臓はまだ小さく鳴り続けている。
それでも、今日、この日にこの人と話ができることをシマカゼは嬉しく思うのだった。