指輪掌の三分の一程の位置、そこから手首に向かって、更にそのずっと上まで皮膚の色が変色している腕。焼け爛れた、火傷の痕だらけの身体。その赤黒い皮膚と通常な状態の皮膚との境目を金属で繋ぎ止めているおどろおどろしい掌が、ホークスの掌を掬いあげた。そっと。その普段の様子からは想像もつかないほどに優しい手つきだった。伏せられていた瞼が持ち上がりホークスを見上げる。この男はこんな顔をしない。穏やかな、毒気の抜けた淡い間接照明のような温かい微笑みだった。髪の色は覚えていない。黒だったか、白だったか。継ぎ接ぎの掌に重なる様に乗せられた自分の掌。その素手の甲を親指がそっとなぞる。そうして指を、薬指を中心に包まれ、そこに銀色の輪っかがそっと嵌められた。
ああ、これは夢なんだなと思った。
こんなことはあるはずはないし、景色も時間も自分の頭もふんわりとしている。何よりもこの男がこんな顔をするはずがないし、こんなロマンチストでもないはずだ。
正しく、それは夢だった。
目を覚ましたホークスはぼおっと必要最低限のもの以外何にもない白い部屋で頭を振った。
ぎゅうっと握られた包帯だらけの手を開くと、銀色のリングがころりとそこに収まっている。
きっとこれの所為だろうとホークスは思った。
いつだったか、もうすぐ春とはいえ寒い寒い時期だった。
作戦決行まではあと10日を切った。それまでは超常解放戦線で何事も感づかれることはなく、いつも通りやり過ごさなくてはいけない。そんな時期だった。
久しぶりの呼び出し。出来たらもう会わないほうがいいと思っていたのに。できるだけ作戦決行に支障が出ないように、いつものように。けれども、その、いつものようにを振る舞うにはどうにも難しい相手だった。
荼毘は遅れてやってきた。いつものように面倒くさそうな顔をして、ホークスを見つけると片手を上げた。
「今日はなに?」
「新しい拠点の様子を見に行けってさ」
「で、なんで俺まで呼ばれたの」
「俺だけだと適当にしてばっくれるかもしれないからだと。デバイスついてるお前と一緒くたに監視でもするつもりなんだろ」
「そもそもおまえに頼まなきゃいいのにね」
「まったくだ」
その新しい拠点と言うのは数年前に破産して伽藍洞になったまま放置されているホテルだった。森の中のデザイン性の高いはずの外観は人の手が入らないからか経年劣化によって生気も何もない。立地もいいはずなのに、よほど経営者にその手の能力がなかったのだろう。
この新しい拠点は今回どんな調査をしたとて使われることない、そうでなければいけない。ホークスはそれを念頭に置きながらも、荼毘に合わせて内装を見て回った。
「様子を見るったって、建物を調べたいなら専門の人に来てもらった方が断然いいのになぁ」
「さぁ、お偉いさんの考えてることは俺にも分かんねぇよ」
その荼毘の態度から、もしかしたら目的は他にあるのではないかとホークスは勘ぐった。もうすでに何かが隠されているのか、もしかしたらすでに使用されていて、地下通路でもあるのかもしれない。ホークスは荼毘に気付かれないように、デバイスの死角を狙って羽を数枚飛ばす。感知できる範囲を飛び回る鋼翼は何も反応を示さなかった。
あえて廊下や部屋がデバイスに写り込む様に羽を広げたり閉じたりしてみたが、荼毘は特に何を言うでもなかった。
ホテルの中を一通り歩くと、その端に併設された協会、チャペルに辿り着いた。
入り口の大きな扉は簡単に開いた。荼毘がほんの少し空いた隙間からその中に入っていく。森の中を生かした構造となっていて、中に入ってみればその奥は全面ガラス張りで広がる緑、木漏れ日、鳥の鳴き声、大自然を感じながら挙式を上げられるというのがコンセプトなのだろう。今どきのデザインだ。ここで結婚式を挙げた恋人同士もきっと多いのだろう。ホークスも後に続くが、歩く度に埃が舞い、木漏れ日に反射した。天井付近にひと枠だけ嵌っていたステンドグラスからから差し込む光が床に小さな虹を作っている。幻想的な雰囲気だった。しかし手入れのされていない庭は無造作に木々を増やしており、本当に長い間誰も訪れなかったんだなと言うことが分かる。もったいない、ホークスはそう感じた。
ばさりとまた羽を広げ、そして閉じると風圧で埃が舞い上がる。その空気の流れが伝わったのか、荼毘が眉をしかめながら振り向いた。
何か嫌味の一つでも言われるのだろうかと少々身構えていると、荼毘は「なんにもねぇな」と呟いた。それはこっちのセリフだと思いながらもホークスは「そうだな」と当たり障りのない返事をした。
呼び出された時には面倒なことにならなきゃいいけどとピリついた緊張感が走ったが、拍子抜けするほどに簡単な任務だった。
「ま、報告書もなにもねぇよな。ソレに記録されてんだし」
荼毘がホークスの羽根を指してそう言った。
「またお小言言われてもしらないよ?」
揶揄うようなていで肩を竦めて見せると、荼毘はふっと笑った。お、と思った。それは一瞬の光景だった。今のは見間違いだったのだろうか。荼毘が今まで見たことのない様な笑い方をした。
どうしたんだ?と、つい口をついて出るところだった。けれどもここでまた新たな案件を抱え込むのは得策ではないと頭の片隅で警笛が鳴った。それでも、少しだけなら?自問自答を繰り返す。そんな一瞬の逡巡のうちに、ふと、荼毘が椅子の裏手に屈んで何かを拾い上げた。
「なに、なんかあった?」
「ああ、これな」
「……指輪」
それは銀色の細いシンプルな指輪だった。良く見ると宝石が埋め込まれているが目立つことはない。シルバーか、プラチナだろうか。子供だましの玩具ではなさそうだった。
「ずいぶんとお高い落としもんだな」
「こういうのって普通落とす?」
「さぁな」
「もしかしたらまだ探してたりするかもなぁ」
「まさか。もう諦めて新しいの買うなりなんなりしてるだろ」
もしかしたらこの指輪を無くしたことが原因で仲違いしてるかもしれないと荼毘がニヤニヤ笑いながら毒づいた。その可能性をホークスも考えたが、そんな顔で笑うほどクズではない。先程、ほんのり感じた違和感など忘れてしまうほどに、荼毘は元の荼毘に戻っていた。
「俺、届けとこうか?」
「ケーサツに?」
「施設の管理者に預けるにしたって、もういないも同然なんだろ?警察署なら紛失届とか出とるかもしれんし」
「そ。んじゃあ、頼む」
そう言うと、荼毘はひょいっとホークスの手を取って、グローブの上からその指輪をその左手の薬指にぐっとはめた。
「……え?」
それはグローブの厚みもあり、第一関節の辺りで入りきらず止まってしまったが、更にぐいっと限界まで押し込まれる。
「痛てぇッ」
「んじゃあ、帰るか」
「え? は? おい」
指に押し込まれたそれを引っこ抜こうとするとグローブごと抜けてしまう。荼毘が不審な動きをしたらすぐに気付けるようにと張っていた気は、確かにその不審な動きに取られてしまう。本当に建物内を歩いただけで任務が終了してしまう。そんな違和感だらけのひと時を抱え込んだまま、ホークスは素手となった掌にころんとおさまった銀のリングと、すでに扉前まで進んだ荼毘を交互に見比べた。
「なぁ、なに、なんでここに嵌めたの? なぁ、荼毘、おーい」
荼毘は扉の取っ手に手をかけ、更に出口を開きながら振り帰った。強く差し込む光が逆光となってその表情はよく見えない。
「さあな」
けれども、口元だけはうっすらと微笑んでいるように見えた。
ホークスはそれから最寄りの警察署へ行きその指輪を届け、言われるがままに書類を提出した。見返りを求める気などさらさらなく、本来の持ち主の元へ返してあげたいという気持ちにも嘘はない。それでも、もし、本来の持ち主が見つからなかったら……。それが脳裏に過り、遺失者が見つからなかった場合の所有権を放棄することはしなかった。本当になんとなく。
それがまたこの手に戻ってくるなんて、期待なんかしてはいなかったのに。
全てが、本当に物語の全てが終わって病院で目覚めたホークスは周囲からもたらされる情報を自分で選んで取得していった。エンデヴァーはじめ共に戦ったヒーローや、常闇、学生たちの安否。被害の規模。日本各地の様子。その中で、荼毘がどうなったのかだけは、濁すようにしながらあえてまだ聞いていない。
病院内を歩けるようになった頃、何の巡り合わせか、後処理の為に動き回っている身動きのとれる数少ないヒーローや警察の人間の中に、あの時、ホークスから指輪を預かった職員がいた。その人は対応した相手がホークスだったことからその時のことを鮮明に覚えていたらしい。ホークスがその病院にいる事が分かると、後日、その指輪をわざわざ持ってきてくれたのだった。持ち主はとうとう現れなかったらしい。その職員にしてみれば世界のために戦ったヒーローに会うための口実だったのだろうが、それを受け取りながら、ホークスは全身の力が抜けていくのを感じていた。ホークスの出自や行ってきた裏での行いを知っているはずなのに、ヒーローとしてのホークスを評価し未だ応援の言葉をかけてくれる人がまだいる事に口元が綻びもした。その日、ホークスは荼毘が、轟燈矢が今どうしているのかを初めて知ろうと動いた。
荼毘はあの日、もうすぐ終わりが来ることを察知していたのだろう。
あの最後の密会はもしかしたら現場の調査でも何でもなく、ただ、これを渡すためだけの——?
想像でしかないし、こんなことを想像してしまう自分にも呆れてしまう。ホークスは病室のベッドに身を横たえながらそれを親指と人差し指でつまんで顔の上に掲げてみた。想像でしかないのだ。本来ならば、どこの誰とも分からない人間の指輪。あの時、それを手ずからはめられた。なんとなくそれを自分の指にはめてみる。今度はグローブごしではない。素手に。薬指に。
驚くことにそれはするりと根元まではまった。
「ぴったりや……」
もう一度それを外す。そうしてまじまじと観察すると、指輪の内側に小さなアルファベットが印字されていた。ホークスは息を飲んだ。偶然かもしれない。でも。
From T to K
たったそれだけ。
でも。
「ああ……そっか」
やはり想像でしかない。でも、そう考えてしまう。
お前、こんなところでも気付いてほしくて足掻いていたのか。
『お前は俺を——!』
背中を灼かれながら言われた言葉がじくじくと胸を灼く。焦がれてしまう。見ていて欲しかったのか、見つけてほしかったのか。もし、見つけてあげられていたなら。
もしも、なんて考えるもんじゃない。
さっき見たばかりの夢だってそう。ほら、もう記憶は薄れている。優しい掌と、穏やかな表情。もう忘れてしまう。現実では一度も見たことがない顔のはずなのに。いや、一瞬だけ見た、あの表情がそうだったのかもしれない。
ホークスはゆっくりとそのリングをもう一度同じ場所にはめる。
もしも。
今だけだ。
今だけ、想像してみる。想像するくらいいいだろう。だって、背負っていたものがだいぶ軽く感じているのだから。だって、それはもう叶わないんだから。
どうしたら、あの夢のように彼が笑えたのかを想像する。
今、ただただその存在がとても恋しかった。