幻だと言って「そういえばさあ、昨日アレ見たんだよね。太陽の横にもう一個太陽が見えるヤツ…幻日っていうの?」
「あ?ゲンジツ?」
「そー、まぼろしに日付けのひで幻日。名の通りただの偽モンだけどな」
「…へぇ」
「お前みてえ」
「…ンだそれ、キショ」
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虫唾が走る。なんて今の状況に合う言葉だろうか。
何故かポケットに入れたはずのスマホが見当たらなくて、帰路の途中で事務所へとんぼがえりしたところだった。
仕事以外で使うことはないし明日でいいかといつもならそのまま帰っていたのだが、今日は勝手が違い本部ではなく概ね子会社のような場所に訪れていた。月イチで監視を目的として足を運ぶ程度だったのでスマホを置いて帰ってしまえば少々面倒臭い。
だる、と頭を掻きむしった後、方向転換して来た道を戻った。
駐車場と会社の短い距離を早歩きで進む。チカチカと足元を照らす街頭はこと切れそうになりながらも役目を果たしていた。
暗い社内に入り、ドアノブに手をかけて乱雑に開ければ2人分の人影がぼんやりと見えた。目を凝らすと、そこには信じたくもない光景があった。
断片的に言うと、キスしていたのだ。同僚の灰谷蘭と、事務員の女が。
幻覚かと思った。
しかし、崩れて顔にかかる紫の七三分けも意に介さずに女と見つめ合う見慣れた顔の男は確実にそこにいた。やたらと甲高い聞き覚えのある女の声が耳に残る。
こんな所で何やってんだ、だとか言いたいことは山ほどあった。しかし口から出たのは短い呼吸音だけ。
俺に気づき、こちらを見たかと思えば三途じゃん、お前も混ざる?と話しかけられた。
きもちがわるい。頭の中でその単語がぐるぐると主張し始めた。
ドアを閉めたその手で自分の口元を覆った。
胃から込み上げてくる吐き気を唇を噛んで抑え込む。上ってきたばかりの階段を2段飛ばしで降りてトイレへ駆け込んだ。一番奥の個室、嫌気がさすほどに真っ白な洋式トイレに両手を着き、顔を伏せる。
昼頃に流し込むように食った菓子パンが食道を逆流してくる感覚が嫌にはっきりとわかった。
「ぅ、ぐ、」
ハ、ハ、と乱れた呼吸を整えるが、嘔気に抗えることなく込み上げてきたものを吐き出した。
額に滲み出た汗で前髪は張りつき、生理的に溢れてくる涙が視界を遮った。
キスなんてガキの戯れ事はこんなところにいれば何度も目にする。それに嫌悪感も吐き気も感じたことはなかった。コレの理由は分かりきっている。俺が灰谷蘭に恋愛感情を持ち合わせているからだ。
キッカケなんて覚えていない。多分些細なことだったと思う。
それ迄1度も恋なんて面倒なことはした事がなかった。
勿論1度もカノジョが欲しいとか思わなかった訳じゃないし興味を持つのはずっと、乳がでかい歴とした女だった。呼べばすぐに来る女だって今も何人かいる。それなのにいつの間にか、何かの拍子に好きだと思ってしまった。
俺が片想いなんて、しかもあの灰谷蘭に?有り得ない、信じたくもなかった。最初はそう思っていた。しかしあれを見て俺がこんなにも不快感を持っているということはこの気持ちは確定した訳だ。
あぁ、鬱陶しい。こんなものゲロごとトイレに流してしまいたい。
そんな思いに反して、女への妬みと、なんの関係も持っていない蘭に対する独占欲だけが強まっていく。
嘔吐きながら息を整えていればドアが開く音がした。
蘭が追ってきたか、アイツがそんなことするわけねえか。ぼんやり考えていると俺がいる個室のドアをノックされた。
「三途…だよな?気分悪いならさっさと帰って寝ろよ」
あんまり自暴自棄になるんじゃねえぞと言って去っていった。
ドアの下の隙間から九井が置いていった水のペットボトルが見えた。
アイツまだいたのか。蘭とは鉢合わせていないようだ。
よかった、九井にバレたら蘭にも筒抜けに決まってる。こんなことを知られてはNo.2の顔が立たないどころの話ではない。
未だに治まらない吐き気と倦怠感を誤魔化すためにクスリを飲もうとポケットを探る。体調が悪いところにクスリはかなり毒になるが初めてのことではないので躊躇いはなかった。震える手でピルケースを開けるが、そこに鎮座していたのはニコちゃんマークのついたラムネだけだった。
…なんだこれ、なんで?いつ?
何だか胸騒ぎがして蓋も閉めないまま裏返してみる。勢いよくラムネが床に散乱するが、そんなことは目にも入らなかった。
ケースの裏には"ザンネン!!"と油性ペンで落書きされていたのだ。直感的に蘭がやったのだと気づいた。
アイツの字は癖があるからすぐわかる。しかもこんなことをするヤツなんて1人しか思い当たらない。
壁に八つ当たりするように拳を叩きつけた。
アー…ハハ、帰ろう、スマホも明日でいいや。
ゆるりと動き出しトイレを後にした。
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日付が変わり、再び事務所に足を運んだ。
スマホを取りに来る程度の用件なら部下にでも行かせればいい話だが、昨日の女、蘭にキスをされていたアイツと会わなければいけない用事ができてしまった。
空になったピルケースをポケットの中で弄りながら階段を上る。
ドアを開ければ目当ての人物は直ぐに見つかった。
「ぁ、三途さん…」
「よお、元気かァ」
「スマホ忘れられてましたよね、こちらです…それで、あの」
「昨日のことは忘れてくださいってか?ンなのどうでもいいわ」
「それもありますけど!私、三途さんが好きで、誤解されたままじゃ…」
困ります。そう言って顔を伏せた。
何言ってんだコイツ。蘭を狙っていたくせに次は俺かよ?
元々此奴との接点はなかった。
俺が尋問中にクスリを飲みすぎてタガがはずれがちだったのを見兼ねて、鶴蝶がこの女に俺の服用量の管理を任せたのだ。
余計なことをと思ったが首領の承諾が下りたからには従わざるを得なかった。やっぱり断っておくべきだった。大体なんでこんな女なんだよ。
気色悪いと口から出そうになるがそれを自然と呑み込んだ。
俺も此奴と同じなせいだ。小さな同情心でこの女を突き放せなくなってしまった。
「アッソ、じゃあ着いてくれば?相手してやるから」
報われない奴ら同士慰め合えばいい。
柔弱なことを考えながら女に近づいた。
「誰が相手してやるって?」
顔の近くで声が聞こえた。バッと振り向けば10cm程先に蘭の鼻先が見えた。
なんで今日もいるんだよ…!驚きで目を見開いたまま紫色の目と数秒見つめあっていた。
蘭は俺と同じように呆然としてた女を手で追い払う。腕を引っ張られ抵抗することもなく部屋を後にした。
「ッ、何するんだよ」
「そんなに欲求不満なら俺が満たしてやるって言ってんの」
「言ってねえよ、自己中野郎が!」
昨晩俺がゲロをぶちまけていたトイレに押し込まれる。
構ってる暇はねえんだよ、という文句は言えなかった。その前に蘭に後頭部を抑えつけられて口を塞がれた。
ぬるりと入ってきた舌に身体を震わせ、思わず蘭の二の腕を強く掴んだ。
「ふ、ぅ…」
混ざり合う熱い吐息に心地良さを感じてしまった。
こんなの、もう戻れない。
自分の女々しい部分に気恥ずかしさを覚えた。もうこのままでもいいかも、なんて浮つく心を律した。
「、やめろよ、あの女と一緒にするな」
「してねえよ。お前はそういうのじゃない」
…あのビッチ以下ってワケかよ。
頭を殴られたような気分だ。その気もないのに期待させて、勝手なこと言いやがって。
その言葉を仕切りに頭が冷えた。残念なような、それでいて安心したような。
突き放すように蘭の肩を押してその場から逃げた。
もう顔も見たくない。
クソ野郎。誰もいない廊下で吐き捨てるように呟いた。