翳りゆく部屋島にたったひとつの診療所。
入口に掛けられた「診療中」の札を裏返したのは、臨時で雑用や客捌きを手伝っていたひとりの青年だ。
先程まであんなに賑やかだったそこにはもう人っ子一人おらず、代わりに数匹の野良猫がゴロゴロと喉を鳴らしてたむろしているのが目に入る。
「……」
青年は黙って、ドアを開くとその奥へ消えていく。
この診療所のつくりは古く、漆喰の白壁はところどころ、いや、元の色がわからぬほどにくすんでいた。待合室に置かれた木製のベンチも、大きな窓にかかる白いカーテンも、すべてが日に焼け色褪せたまま、静かに呼吸を続けている。
まるでレトロフィルムの世界に迷い込んだような錯覚すら感じる——そう評した本人は、診察室のなかに一台だけ置いてある、ベッドの上に腰掛け、天井を見つめていた。
大窓のカーテンはまだ両脇に結えられたままで、燃える空の橙色が部屋全体を一色に染めている。
壁、ベッド、天井、書類がいまにも崩れ落ちそうな机。なにもかもが、夕焼けに呑まれて様相を変えていた。
「……先生」
青年は、ぼんやりと上を見つめて動かない背へ声をかける。しかし、その白衣は動かない。
「坂本先生、にゃあ、ほかに手伝うこたぁ……」
「つれないなあ、以蔵さん。もう今日の診療は終わりだろ?」
(お酒飲むときみたいに、龍馬って呼んでよ)肩越しに振り返った男の顔が悪戯っぽく笑んだ。
「……此処では先生やろうが」
「もう患者さんなんていないのに?」
「はあ? わしの首診るがはどういたがよ」
「寝違えたんでしょ?」
「人ぉこき使っておいて診もせんでよう言うわ」
「じゃあ診察してあげるから、こっちおいで」
医者の手がとんとん、と自分の隣を叩いて示す。
「…………」
苦々しい顔をして、以蔵と呼ばれた青年は渋々その指示を受け入れた。清潔なシーツの敷かれた硬いベッドへ腰を下ろすと、医者の手がするりと首筋に伸びる。腱や肉に触れながら、痛む場所を確認していく。
「首、左に捻ってみて。痛くなったら止めてね」
「……い、た」
「はい、じゃあ今度はこっち向いて」
「こっちは、なんとも……」
以蔵が言う通りに首を医者の方へ向けると、夕焼け色の白衣を纏った美丈夫の顔が、随分と近い距離に迫っていた。
「ない、が、です」
「強い痛みは?」
「いんや、そこまでじゃあ……」
「そうか」
短く言った唇がそのまま流れるように、以蔵の唇に押し当てられる。
あまりに自然な、そうなることが当然のような振舞い。
以蔵は呆気にとられるばかりで、上手く動かぬ身体でなんとかその不埒者の名を口にした。
「りょう、ま」
「あ、やっと呼んでくれた」
医師はまるで見当違いの反応を返すとにっこり微笑む。
「な、なに、」
「キス、はじめてだった?」
「は、はあ?! な、なんな、急に、なんなが、」
「したかったから」
「はあああ?!」
「ね、もう一度するから、嫌なら嫌がって」
赤く落ちる陽の色に染まらぬ宵闇の瞳が、その言葉が冗談ではないと囁いている。
(いやなら、いやがれ、ち、)以蔵は混乱する頭を収められず、身を竦ませたまま、再びのくちづけを受け入れた。
「……んー、んーっ、んん、んーっ!」
「ん?」
少しして、胸元を叩く掌に促され医師が唇を離すと、青年は荒い呼吸に交えて短く窮状を訴える。
「く、くるし、」
「ふふ、キスしてるときは口じゃなくて鼻で呼吸するんだよ」
「は、はあ?!」
困惑した表情のまま、瞳にしっとりと水気を含ませて、青年が悲鳴に近い声をあげると。
「ほら、」
医師はその叫びごと、ぱくりと唇を食べてしまった。
「んぷ」
下唇を甘く啄まれ、やや強引に開かれた口腔から舌を優しく吸い上げられる。それだけで青年の頭の先から背骨を通って尾骨まで、ぞくぞくと怖気立つようななにかが走る。
それが徐々に薄れると、代わりにじんわり、温かく濡れたような心地良さが腰の奥の方に生まれた。ちょうど背と腰の間に回された手が外側からその感覚を補強する。
(こ、れ、気持ち、えい)
わざとあけすけな水音を立てながら、普段誰にも触れられない場所をひっそりと明け渡していく。おそらく本来は睦み合うふたりが交わすべき、秘めやかな粘膜の愛撫。それをこのようなところで、先程まで先生と患者だった自分がどうして、という以蔵の思考は、柔らかく吸われる舌とともにもう、正体もわからなくなっていた。
「……ん、んぅ、……」
「…………」
なんども、なんども、連綿と。
練習のように、そのくせさまざまな方法で、男はくちづけを繰り返す。
息継ぎの仕方を。唇の愛し方を。舌の絡ませ方を。ひとつひとつ丁寧に、執拗に、続いたそれがふと止んで、ようやくふたりの顔が離れる。
「……は、ぁっ……」
「……」
目の前の男は息ひとつ乱さずに飄々としているのに、自分は疾走したみたいに息を上げて肩を震わせている。その表情を見るのが、いや、見られるのがどうにも恥ずかしくて、以蔵は顔を背けようとした。
「……痛っ」
しかしそれもままならぬ首の痛みに眉を顰めたのを、男は可愛くて仕方がないとでも言うようにじっと眼差した。
「……なんじゃ、わやに、してっ……」
いま、自分が顔を耳まで染めているのは夕焼けのせいだと、言い訳ができることだけが唯一の救いだ。以蔵ができる限りの悪態を途切れとぎれに吐き出すと、男は突然仕事めいた顔で笑った。
「……うん、やっぱり寝違えだね。炎症を抑える湿布、出しとくよ」
患者(クランケ)の愁訴を聞いた医師は言って、何事もなかったかのようにベッドから立ち上がる。そして執務机につくと、書類に何かを記しだした。
「…………」
窓の外、薄明の空は刻々と色を変え、橙が灼けて赤光を差し、いま、深い群青の緞帳を携えている。
——これが、宵色の帷を落とすまでに此処を出なければ、どうなってしまうのか。
青年は、執務机に戻った町医者の耳に触れぬよう慎重に、湧いた唾液をそっと嚥下した。
[了]