秘密「失礼、少々電話をしてもいいですか?」
「どうぞ、ここで待っていますね」
着電を伝えるスマホを持って七海建人が車の後部座席から降りた。運転席に座る伊地知潔高は、ドアミラー越しに七海の姿を目視し、すぐには終わらなさそうな用件だなと予想した。
平日のお昼を過ぎた中途半端な時間のコンビニの駐車場にはこの車しか停まっていない。伊地知はエンジンを停止して、ルームミラーで後部座席を確認した。そこには、くわ、と大きな口を開けてあくびをする虎杖悠二の姿が映っていた。
「虎杖くん、お茶飲みますか?」
「飲む~」
伊地知は助手席に置いていたビニール袋からペットボトルのお茶を取り出して渡す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう~」
キャップをひねり、ボトルを傾けてお茶を一口飲んだ虎杖は、運転席に向かって問いかける。
「ねー、伊地知さんってナナミンと付き合い長いの?」
「七海さんですか?」
七海と知り合ったのはいつだっただろうかと考える。
「私もいただきますね」
一言断ってから、伊地知もお茶を袋から出した。
「そうですね、高専在学中からお世話になっていたので、長いといえば長いです」
「へえ~、ナナミンが先輩?」
「はい、一つ上の学年に七海さんが在籍していました。でも今みたいにお話したりするようになったのはここ数年ですね」
「高専のときはあんまり喋んなかったの? なんで?」
てらいのない素直な疑問をぶつけられて、伊地知は少々答えに窮した。
「ええっと、入学当初、七海さんはちょっと近寄り難いというか、少し怖いな~って勝手に思っていたんです」
高専在学時の七海は、今よりもひょろりとした体つきで、持て余すほど長い手足が目立っていた。その背中に鉈が入ったバッグを背負い、人を寄せ付けない早足で歩いていたのを覚えている。寡黙な人で自分からは滅多に話さないが、話しかければ答えてくれるし、冗談も通じる人だと気がついたのはいつだっただろう。
「でもナナミンは優しいよ!」
食い気味に虎杖の声が割って入る。
伊地知は虎杖の七海に対する真っ直ぐな気持ちが嬉しくて、くすぐったい気持ちになりながら彼の言葉に同意した。
「虎杖くんの言う通り、七海さんはとっても優しいお方ですよね。すみません、言い方が悪かったです」
あんなに頼りになる人はいないと伊地知は心中で思う。実際、七海を慕う者は多い。伊地知もその一人だった。本人は自分のことをどう評価しているかわからないけれども、七海はなんだかんだ面倒見が良いのだ。責任感が強いと言い換えることもできるかもしれない。見て見ぬふりをするのが苦手で、自分が関わった仕事は最後までやり遂げる。
そのため、目上の者からは仕事を任されることが多いし、目下の者からは尊敬され指導を頼まれることもある。「私が教えられることなんてないですよ」と言いながらも、意見を求められたら率直にアドバイスしてくれるありがたい存在。後輩にとって七海はまさに「憧れの先輩」だった。
人柄だけでなく、的確な状況把握能力と対応力で自身の力を最大限に活かす戦闘スキルは、呪術師としての確かな実力を証明している。だが、普段は一定のテンションを保っている一方、一度怒りの感情に火がつくと、「もうどうだっていい」という方向に針が振れる。ある種の諦めによって彼のリミッターが外れてしまう瞬間が最も恐ろしい。しかもそのリミッターが外れる瞬間は、自分に危害が加えられたときではなく、他人に危害が加えられたときなのだ。
七海が怒りの感情を表に出すことは、呪術師としては短所になりうるものだが、伊地知はそんな七海が持つ人間味に好意を持ってしまうのだった。
「うん、伊地知さんの言いたいこと、なんとなくわかるよ」
「ありがとうございます。こんなことを言うと、七海さんは嫌な顔をするかもしれませんが、私はいつも七海さんの優しさに励まされているんですよ」
「えー? 例えばどんな?」
「そうですねえ、仕事をしていて辛いことがあったときとか」
虎杖は伊地知の言葉に黙って頷いた。彼なりに思うことがあるのだろう。彼の苦労は想像できる範疇を超えているかもしれないが、伊地知は一人の人間として虎杖に向き合いたいと考えていた。
「そういうときは七海さんがかけてくださった言葉を思い出すんです」
「ナナミンの言葉?」
「ええ、」
パキッと音を立てて蓋を開け、お茶を飲みながら伊地知は昔のことを思い出していた。
「伊地知さん、何か飲みませんか?」
自動販売機の前で立ち止まる七海から声をかけられて、伊地知はその場で止まった。
「喉が渇いたので、そのついでです」
伊地知が断ることを見越した言葉。伊地知は七海がわざとそう言ってくれたのだろうな、と彼の気遣いを感じて素直にその厚意を受け取ることにした。
「それじゃあ、七海さんと同じものを」
七海はペットボトルのお茶を伊地知に手渡すと、側に停まっている車には乗り込まず、すぐ近くにある車止めに寄りかかった。そして、視線で伊地知に隣に来るように合図すると、キャップを開けてボトルに口をつけた。
伊地知は七海に従って、彼の隣に並んだ。お尻に金属の冷たさを感じながら「ありがとうございます」と礼を言う。
伊地知はこのとき疲れていた。高専を卒業して補助監督として現場に出るようになってもう数年経つ。最初こそ仕事を覚えるのにいっぱいいっぱいで他のことを考える余裕はなかったが、一通り仕事ができるようになると、今度は非力な自分と向き合う時間が増えてきた。
呪霊の等級が報告より高く、まだ子どもと呼ぶにふさわしい年齢の子たちを現場に送り出して大怪我をさせたこと、補助監督として面倒を見ていた後輩が現場で亡くなったこと、一般人が呪いによって命を落とした凄惨な現場に立ち会わないといけないこと。
人の死は何度経験しても慣れることがない。その度新鮮に傷つくし、心が摩耗する。そのような経験を重ねて、呪術師を派遣する現在のオペレーションシステムにも疑問が出てきた。補助監督はトップダウンで降りてきた仕事を呪術師に伝える役割を担うが、上層部と現場で働く術師の間に挟まれて身動きが取れないときがある。それに慢性的な人手不足によって引き起こされるヒューマンエラーも悩みの種だった。挙げればキリがないが、何か問題に直面する度、自分にできることはなかったのか、組織の構造を変えることはできないのか、人には言えない思いが胸中に渦巻いて、それがどんどん溜まっていく。
他人の思いも自分の思いも受け止めきれなくなってきている自分が嫌だ。伊地知はこのままいくと現場で死ぬか、この業界から足を洗って自分は逃げたんだという思いを抱えて生きることになるか、そのどちらかになるだろうと予想していた。どっちも嫌だが、他のビジョンが思い浮かばない。
つい数日前にも、情報不足のまま現場に向かった呪術師が亡くなった。彼の葬儀が高専内で行われ、遺体は火葬されたが、遺骨を引き取りに来る家族はいなかった。彼は一般家庭出身の術師だった。
一般家庭出身の術師は、家族と折り合いが悪い場合がある。それは、人が見えないものを見て、人が聞かない声を聞く、人と違うから周りから浮いてしまうということが原因の一つとして挙げられるが、加えて呪霊が寄ってきてトラブルを起こすことがあるからだ。そのトラブルの中心にいつも自分の子どもがいると、何も知らない両親はどう対処したらいいのかわからない。そうして家族の間に溝が生まれることがしばしばある。
引き取り手のいないお骨を高専内の納骨堂に安置して、伊地知は虚しさを覚えた。自分は一体ここでなにをしているのだろうかと。
「伊地知さん、顔色が悪いですよ。もしかして体調が優れないのでは?」
「すみません、ボーッとして……なんかちょっと疲れているみたいです」
取り繕う余裕がなくて、そのまま思ったことが口から出てしまう。不甲斐ない自分が情けなくて伊地知は沈黙した。
伊地知の様子から何かを察したのか、七海はそれ以上なにも聞いてこなかった。代わりに七海は「これから言うことをどう捉えてもらっても構わないのですが」と前置きしてから話し出した。
「伊地知さん、呪術師は補助監督に支えられているからこそ仕事ができるんです」
きっぱりとした口調だった。伊地知はびっくりして思わず七海の顔を見た。すっと通った鼻筋、目線は前を向いている。あまりにもいつも通りの表情。ピシッとアイロンがかけられたワイシャツの襟もいつも通りだった。七海は伊地知に構うことなく、淡々と話を続ける。
「例えば、高専在学中でまだ経験の浅い呪術師の安全管理や教育も補助監督のみなさんの仕事ですし、事前準備、スケジュール管理、送迎、事後処理、事務連絡、挙げたらキリがないくらい、みなさんは沢山の仕事を担当しています」
そこで七海は車止めに預けていた体を伊地知に向けた。何を言われるのかと内心ドキドキして、伊地知の体は緊張で強張った。
「さきほどの案件も、伊地知さんが事前にリサーチしてくださった情報があるのとないのとでは、解決の速度が全然違ったと思います。とても助かりました。どうもありがとうございます」
ぺこりと七海が頭を下げた。伊地知はいよいよどうしたらいいのかわからない。こんなふうに面と向かって感謝の気持ちを伝えられたのは、補助監督になってから初めてかもしれなかった。
「そんな、私は自分の仕事をしただけですから……」
伊地知はしどろもどろになりながら、なんとかそれだけ口にした。嬉しい、恥ずかしい、恐れ多い、様々な感情が胸に去来する。なんだか顔が熱い。もしかして顔が赤くなっているかもしれないと思ったら、耳まで熱くなってきた。
「そうですね、私たちは自分の仕事をしているだけです。だから、呪術師と補助監督どちらが優れているとか、どちらの役割に意味があるとか、考えないでください。元々成立しない問いなんです。だって比べられないんですから」
ガチャ、とドアが開く音がした。
「お待たせしました。五条さんからの電話でちょっと長くなりました」
長い脚で七海が車に乗り込んできた。
「あ! ナナミンおかえり! 今ナナミンの話してたんだ」
「え、私の話ですか?」
シートに座った七海の視線を後頭部で感じながら伊地知は何も変なことは言ってないですよ、の意味を込めて首を横に振ってみせた。
「そうですか」
ふう、と息を吐いて座席に背中を預けた七海は、「あ、五条さんから話したいことがあるそうで、一度高専に帰ってきてほしいとのことでした。伊地知さん、高専に向かっていただいてもいいですか?」と指示を出した。
「はいっ」
伊地知は慌ててボトルをホルダーに置いて、エンジンをかけた。
「それでは高専に向かいますね」
車がなめらかに発進してから、虎杖が声を上げる。
「伊地知さん、ナナミンにどんな励ましの言葉をもらったのかまだ聞いてないよ!」
「え~っと、それは七海さんと私との秘密ということでお願いします」
伊地知は眉根を下げて精いっぱい申し訳なさそうな顔をした。
「えー!」抗議の声を上げる虎杖に七海は、「虎杖くん、大人になると秘密が増えるんですよ」冗談か本気かはかりかねる仏頂面で応じた。
困惑の表情を浮かべる虎杖と、ペースを崩さない七海の対比がおかしくて、伊地知は吹き出しそうになった。
七海はあの言葉を覚えているだろうか。七海が覚えていなくても、自分が覚えているからそれでいいか、伊地知は二人に気付かれないようにはにかんだ。