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    Shisu

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    2023/03/17_12:05

    【悪夢】そのみどりはほさかれるか急章


     マレウスは水の中にいた。
     深さは浅く、マレウスが水底に立ってみると水面まで2メートルほどしか距離がない。陽の光は、水面がわずかな波で刹那に削りとった光の輪郭を網の目のように水底へ描き落としてたゆたっている。水の中全体が澄んで明るいブルーをしていた。
     ――さやけき水だ。
     マレウスは水にう妖精ではないが、息は苦しくなかった。何故、己が水の中にいるのか、わかっていなかったが不思議と不安はなかった。
     ふと、幾重にも音色の重なった鐘の音が水の外から聴こえた。しかし、水の中は全ての音がくぐもって幻のように遠い。
     鐘といえば、花の街は救いの鐘をマレウスは思い出す。学生として他校に招かれ、学友たちと外国の街を観光する。どれもマレウスにとって得難い経験ばかりだった。
     ――楽しかった、とても。
     ため息がごぽりと口から漏れた。キノコの傘のような銀の泡が足早に水面へ駆け上がっていく。
     あの経験を与えてくれたのはロロだった。街が紅蓮の花に染まった世界では、敵対するしかなかったが、出会う場所や背負うものが違えば、あるいは良き友になれたのではないかとマレウスはずっと考えていた。
     だから、ロロにしては浅薄なはかりごとが滲み出て届いた『招待』は、マレウスをとても心躍らせた。
     ――きっと、あの策を含めた全てが『罠』だったのだろう。やはり、一筋縄ではゆかない男だ。
     海洋の民を用いた策が失敗し、それでもなんとか己と切っ掛けを持とうとするロロを見兼ねて、マレウスが自ずから歩み寄ってくるように、健気を装ったのだろう。しかし、己に向けられた目の端に滲んだ朱が示すロロの内なる熱の高ぶりが嘘だったともマレウスには思えなかった。触れ合うことで、マレウスの人より少し体温の低い雪肌に熱を伝播させ火照らせるほどにはロロは燃える柔肌をしていた。
     ふと、マレウスは視線を感じた。
     水の中でありながら、ゆっくりと湿度が増して息がしづらくなっていくような、背中にのしかかってくるような重々しいじっとりとした圧だ。その圧の中に己の魔力と同じ気配が混じっていた。まるで祖母と対峙する時にわずかに感じる緊張感にも似ていた。
     ――誰だ。
     マレウスは緑の黒髪を海藻のように棚びかせて振り返る。ゆったりと尾を引く己の黒髪の間から、数歩後方に禍々しい哀しい気配を放つ黒い霧のような濁りの塊が漂っている。その黒い中にエメラルドの虹彩をもった目玉だけがふたつ有って、マレウスをじっと見ている。表情が読めないなと感じ、次いで――ああ、目蓋がないのかと納得した。黒い濁りはマレウスが見ている前でもやもやと動いていた。次第に黒い中に線が一本通ると、まるで蔓の先のように線は尻尾をくるりと巻いた。かと思うと黒い濁りは4つの蕾のような突起をもち、中に細かな骨が成ってゆく。芽が萌えいずるように蕾だった突起は伸びて、葉のように広がり水掻きがある手に成った。マレウスを見ていた眼は花びらのような薄い目蓋に覆われている。水掻きと尾はいつの間にか退き失せて枝の先で5本ほどの指に成った。身体はひと抱ほどのころりとした大きさをして、紗のような透け感のあるていの内、胸元のあたりで心臓が揺れているのがわかる。どくりどくり。心臓は、どこかで見たような紅い光を放っている。
     ――あの光は、紅蓮の花か。
     マレウスの脳裏に、繰り返し夢に見たロロの言葉が思い出される。
     ――見ろ。マレウスくんと私の子だ。
     眼前の、ブロットで出来た濁りに包まれた人のかたちをしたものが、あのお包の中にあったものの気配と似ているとマレウスは思った。黒い濁りをマレウスの微かな魔力を繋ぎに用いて人のかたちへ捏ねて固めているのは、己が亡くなっていることにおそらく気付いていない幼いゴーストたちの影だ。幼い影たちの顔には口しかない。この世の言葉ではない喃語を歌の詞に当てはめて、子守唄のようなものを、まるく円を描くように歌っている。
     嬰児あかごは生まれいでて、まず大口を開いて泣く。彼岸と此岸の間にある川の水の中から揚がって、この世の空気を吸って、この世に生きるものとなる為に。母と成る人へ己の存在に気付いてもらう為に、泣く。聴覚嗅覚触覚は水の中にいた頃から有しているもので、意識の水面には浮かんでこない。目蓋はすぐに開く訳ではない。
     だから、幼いゴーストたちは口だけを携えていた。口は此岸への入場切符だった。
    「全ての子どもは等しく愛され祝福されるべき存在だ」
     ――だが、フランム。お前が僕との子として成そうとしているものの存在は……。
    「……この世に呪いで留めるのではなく、弔ってやるべきではないのだろうか」
     マレウスの頭に痛みが走った。マレウスは痛み逃しの魔法を改めて結ってみるが、やはり魔法はかたちにならずほどけてしまう。
     また、幻のように鐘の音が遠くでこだましていた。マレウスは眉間に皺を寄せ、こめかみを抑えて目蓋を閉じた。
    【45センチ】
     カチャリ。
    「こんなに大きくってしまったのに、捥いでしまうというのかね」
    「?!」
     マレウスが驚いて目蓋を開くと、満ちていた水は幻のように消え失せ、薄暗い室内で小さな卓を挟んでロロと向かい合っていた。店の奥、窓から離れた暗がりの卓はふたりが決まって坐す席だった。手元の艶消し釉薬のかかった黒皿に載せられたクロワッサンから立ち昇る甘いバターや深煎りされたコーヒーの香りで頭の痛みが少し弛む。楢の古材の柱が随所に配されて温かみのある店内にマレウスは馴染みがあった。おそらく、天井には蝋燭の点された吊り燭台と魔法植物の花束が逆さまに干されているだろう。ここはロロに招かれて共に朝餉を喫していた店だった。
     しかし、違和感が拭えない。何かがいつもと違っている。
     眼前のロロは、皿の上を見つめたまま言葉をこぼす。
    「卿と私の子だぞ。かわいいと思わないか?」
     白いゆったりとした衣を身に纏って、白魚のような指先でクロワッサンをひと口大に引き千切る。香ばしさのある薄い外層がぱりぱりと小気味よく割り開かれて、白く柔らかな内層が発酵により網の目のようになっていて、ふつりと引き千切られ、水粒の揺らめきが見えるほどの湯気を立ち昇らせている。そうして、ロロはその端を紅でも差しているかのような唇へと運び食む。爪と唇がクロワッサンから沁みたバターで艶やかな照りをもっていた。指先を塵紙で拭い、真っ黒な液体の満ちた湯気の立つカップをソーサーごと持ち上げて葡萄の蔓のような持ち手を右手で摘んで啜る。最中、中指に嵌められた赤い魔法石の指輪が遠い窓の外の陽の光を拾って、ぴかりと瞬いた。
     ロロをじっと見詰めながら、マレウスは会って聞かなければと思っていた事を口にした。
    「ひとつ確認したい。フランムは、僕のことが好きなのか?」
    「え」
     手に持っていたソーサーへカップを置こうとしたロロは、マレウスの言葉で指の力が抜けてカップの着地に気を配れず、ガチャリと品のない音を鳴らしてしまった。そして、動揺からハンカチを取り出すと己の口元へ当てがった。
    「……マレウスくんは私の身を暴いておきながら、私を好いていないのか?」
     マレウスは怪訝な顔をする。
    「いや、僕はお前への愛を何度も囁いただろう? しかし、僕はお前から恨み言しか聞いたことがないぞ」
     ロロは星空柄のハンカチをぎゅっと握りしめた。
    「は? いやしかし、判るだろ? いや、解りたまえよ」
    「判るか解るかということではなくて、僕は単純にお前が僕を愛しているのなら、心の通りの言葉を聞きたい」
    「……そんな。秘するが花と思ってはくれまいか」
     ロロは眉尻を下げて視線を斜へ逃す。
     マレウスは黒い革手袋を外して、眼前のロロの瞳から涙のように筋を作ってこぼれ落ちる黒い液体を人差し指でそっと拭い、穢れた頬に体温の低い己の手を添えた。そうして、超然とした爽やかな笑みを綻ばせて片肘で頬杖をつき、小首を傾げて尖った犬歯を覗かせ嘯いた。
    「いやだ」
     白い衣のロロは頬をされるがままにして、不可解なものを見るような顔でマレウスを見ている。
    「……傲慢な」
    「確かに子はかすがいと言うが、僕はかすがいを介さずにお前と直接話しがしたい」
    「……マレウスくんは、親に成るには幼すぎたか」
    「む。そんなことはない」
     マレウスは不満気に唇を尖らせる。ふと、手元のコーヒーカップが視界に入った。
    「僕はコーヒーをブラックで服することが出来る」
    「大人で有ること親に成ることは別ものだろう」
     白い衣のロロはあきれるというよりも諭すように声を掛けたが、マレウスはむくれた顔をした。
    「……茨の谷では子どもが少ない。ゆえに親成る者も少ない。人の尺度を用いられても僕にはわからない」
     満たされたカップの丸い水面に店の天井が映っていた。頬杖をついたまま、なんの気はなく、マレウスはコーヒーカップを覗き込む。店の天井に逆さまに吊るされていたのは、一面の紅蓮の花だった。蝋燭の灯りはなく花が薄ぼんやりとした光を放っていた。マレウスが感じていた違和感の正体はまさにこの天井にある花だった。
     そして、コーヒーカップの丸い水面は、手を伸ばしても届かないほど遥か下の方にあった。
     ――ん?
     マレウスが顔をあげると、ノーブルベルカレッジにほど近い市井の広場にいた。喫茶店の卓は井戸となっている。井戸の端にマレウスは頬杖をついていて、向かい側に白い衣のロロがいた。片目から紅蓮の炎が噴き上がって、背後に黒い後光が差している。天気は麗らかな快晴で、禍々しい黒い液体を滴らせているロロの肩にのんきな小鳥が留まり親しげにさえずっている。白い衣のロロは小鳥に構わず、いつの間にか摘んできた花を井戸の端に並べて、花環を編んでいた。
    「お気づきかと思うが、マレウスくんは私が紅蓮の花のように長年育てた悪夢の中にいる」
    「ふむ」
    「マレウスくん、井戸の底はどこへ繋がっていると思う?」
    「……真実は井戸の底にある。Truth lies at the bottom of a well.のことか?」
    「薔薇の王国のことわざだな。間違いではない」
    「では、お前が思う井戸の底には何があるのか」
     ロロは白い風露草の花と白い雛菊を撚り合わせながら、花環を編んでいく。ロロの薄い唇が淡々と言葉をこぼす。
    「地獄だ」
     ロロはマレウスの方を見ずに、そう答えた。そうして、白い風露草と白い雛菊で編んだ土台に白い菫を差し入れながら、まるく円を描くような口調で歌うように語り出した。
    「……私はアイツを、亡くなった弟を愛している。二度とあんな悲劇を起こさない為には、ずっとあの光景を目蓋の裏に残しておかなければならない。愛も幸せも、全てあの日に燃え尽きてしまった」
     次いで、白い衣のロロは語りながら白いパセリの花と白い勿忘草を花環の隙間に差し入れていく。
    「私は、弟を亡くしたために私をその目に映すことが出来なくなってしまったお母さまに申し訳がない。罪滅ぼしにもならないが世界を変えたかった。これは私の本意だ……」
     白い衣のロロの指がぴたりと止まる。まだ花環には隙間があるのに、細かで小さなパセリの花はロロの手元から尽きてしまっていた。
    「……卿らが、私の希望たる紅蓮の花を枯らしてしまったことで、私は己が悪夢から逃れた先に希望を持っているのだと気付いてしまった。ずっと悪夢の中にいることが私への罰だったのに、卑しい私は浅はかにも悪夢から醒めたいと願ってしまった。私には、この世界を救わなければならぬ責務があるのに、誰よりも救われたいと望んでいる」
     白い衣のロロはパセリの花にかたちの良く似た毒人参の花を代わりに選び取った。カビ臭いひどい匂いがしている。
    「救われたいと望むこと自体も罪であり私を苛んだ。卿は憎き魔法の権化であり、私に希望を示す悪党であり、私の歯車が狂った全ての元凶だ」
     ロロはここで初めて真っ直ぐにマレウスを見た。酷くクマの浮かんだ目元をして、静かな表情をしていた。
    「罪に罪を重ね果てて……私は貴様が欲しくなった」
     白い衣のロロは出来上がった白い花環を井戸を挟んでマレウスの頭上へ掲げようと、淵へ足を掛け身を乗り出した。
     マレウスの捻れた山羊のような角の鋒へ花環が掛かった時、ずるりとロロの足が滑って白い衣の身が井戸に落ちた。ロロの肩で羽を休めていた小鳥は慌てて空へ舞い上がる。マレウスの眼前で、白い鳩が天空から撃ち落とされたような残像に寄せて、千切れた花環から白い花びらが白い羽根のように舞い散った。
    「ロロッ!」
     咄嗟のことでマレウスは初動が遅れた。腕を伸ばすよりも魔法を放つ方が馴染んでいるマレウスだったが、魔法はやはり強固に結いあがらず煌めく残滓が散り惑うばかりだ。水路に落ちたような水音は聞こえてこない。
     マレウスは井戸を覗き込んだ。
     暗い石造りの井戸の底で、何かが蠢いている。マレウスが暗がりの中よく目を凝らしてみると、井戸の底のパイプベッドの上でロロの身体を穿ち犯す双角を脳天に戴いた己の背があった。
     ――地獄、か。
     井戸の底、闇の中で白く浮かび上がるロロの肢体が一際大きく跳ねた。井戸の底のマレウスは果てたロロの髪を撫でて襟足に口付けを落とすと、ゆっくりと身を引いた。
     そして、井戸の中を見下ろしているマレウスを、見上げた。
    「――っ!」
     マレウスはパイプベッドの上で、遥か高みにある明かりとりの為の窓を仰ぎ見ていた。マレウスと情事にふけるこの部屋は廉潔清純なロロにとって井戸の底であるから、あの窓はあんな高いところにあるのかとマレウスは腑に落ちた。
     眼前の白い衣のロロは着衣の乱れなく、パイプベッドに腰掛けていた。腕の内にはお包みがあり、頭部はインク壺のようになって、ロロがあやすほどに、ちゃぽんと音がした。
    「フランム」
     マレウスは坐るロロの眼前に立った。
    「僕とお前の子どもというが……生まれいでた時から生きとし生けるものは皆”個”だ」
     マレウスはロロの髪を撫でた。さらさらと滑らかな潔く切り揃えられた前髪を梳く。整えられた柳眉は浮かない表情を作っている。
    「……」
    「僕を討ち取らんとする為に、ひとりの個を使わないでやってくれ」
     ロロは決まり悪そうに言葉をこぼす。
    「……ああ、子は親の所有物ではない」
     マレウスはロロの言葉ににこりと破顔した。
     ロロはお包みの中のインク壺の頭部に口付けた。柔らかな髪を撫でるようにインク壺のねじり蓋を回して外す。
    「引き留めてすまなかった。刹那でも私のいとし子でいてくれて、ありがとう」
     40センチまで育ったロロの悪夢ファントムはほどけて、頭部に集められたブロットを依代にした幼子の影は、抱きしめられていたことでロロの体温が移って小春日のように温かくなり、ふわりと軽く浮き上がった。そうして、ロロが子守唄として歌い聴かせていた『願いよ響け』の旋律を、まるく円を描くように口ずさみながら天へ昇るほどに煙のように薄くなり、そっと霧散した。ロロは、黒い影が消えてしまうまで、じっと行方を見守っていた。
     虚空から目を離したロロは、細く息をついた。
    「……オーバーブロットすれば、圧倒的な魔力を有する卿にも一矢報いられようかと思ったが、張りぼてでは虚しいだけだったな」
     そういうと、ロロは立ち上がり腰帯にした縄をほどいて、ゆったりとした白い衣を脱ぎ落とし、スラリとした体躯のよくわかる墨染の衣を纏った姿となった。顔は、はじめから穢れを知らぬような清らかな白い頬をしていた。
     ロロは眼前のマレウスを見上げた。
    「私はあの悲劇を忘れてはならない。限られた命の間でやらねばならぬ責務が……」
     ロロの言葉は途中で摘み取られてしまって続けられなかった。マレウスがロロのことをぎゅっと抱きしめたからだ。
    「ヒトの子は考えることが複雑怪奇だ。妖精はもっと単純明快だぞ」
     マレウスは力を緩めて、腕の中の墨染の衣のロロをいたずらっ子の表情で見下ろした。
    「特に、お前は話しが長い」
    「なっ?!」
     ロロが絶句していると、マレウスはおかしそうに尖った犬歯をちらつかせて肩を揺らして笑った。
     そうして、笑いが納まると少し背を屈めてロロの額に己の額をとんと合わせた。ヒトのそれとは異なった、硬い鱗の質感をロロは感じた。目の焦点が合わぬほど近くで、爪で引っ掻いたような深い黒の瞳孔と燃えるような黄緑色に光の粒散る虹彩が、真っ直ぐにロロを見ている。
    「僕は、悲しみに明け暮れて悪夢の回廊を巡ることと、追福修善とむらいが同義だとは思わない」
     ロロはなにか言おうとして口を開いたが、マレウスの人差し指がその唇の動きを軽く封じる。
    「これは僕が当事者ではないから、軽々しく口に出来ているのだということは解している。当事者であれば、僕もきっと夢の中の箱庭から出たくないと駄々を捏ね、天地に災いをもたらすだろう」
     ――それは大問題じゃないか。
     ロロはマレウスの言葉を聞いて、そう思ったが唇を封じられているので、眉を少し顰めるにとどまった。
     マレウスの通った鼻梁が、獣の仔が親を慕うようにロロの鼻梁に擦り合わされる。
    「局外者だからこそ、伸ばせる手もきっとある」
     触れ合いそうなほど近くで、ヒースグレイの艶やかな唇が動く気配をロロは己の唇の薄い皮膜で感じとる。
    「僕はお前を愛している」
     遠くで鐘の音が響いている。ロロはマレウスの頬に手を添えて一歩退いた。ふたりの焦点が互いに合う。ロロは慣れない糸車で紡いだ糸のように、不均一で引っ掛かりのある拙い運びでやっとマレウスが欲しい言葉を告げた。
    「……私も君を愛している……だから」
     そうして、啄み合うように唇が触れた。

    「……だから、目を醒ませっ! マレウス・ドラコニア!!!」

     ロロの悲壮な叫びと共に、ゴランゴロンと今までより明瞭にマレウスは鐘の音を聴き、ゆっくりと目蓋を開いた。甘ったるい香りが急に感ぜられ、マレウスは咳き込みそうになる。
     ――おや、これは……。
     マレウスの瞳の真横で、泣き腫らしてぼろぼろになった生徒会長服を纏うロロがいた。その姿は随分と小さい。白魚のように美しい指を有した手は、見る影もなく赤黒く腫れ上がって血を流し小刻みに痙攣していた。
     ――鐘撞きの縄で荒れているのと、僕を起こそうとしてこめかみを叩いていたのだろうな。
     マレウスはロロを抱きしめたいと思ったが、身動きが取れないことに気がついた。
     マレウスは首を動かせる範囲でもたげた。前足を突っ張ると、楢材の床板がばきりと弾けた。空は澄み渡って青く、地上は遥か下にあった。己がとぐろを巻くように伏しているのはノーブルベルカレッジの鐘楼の頂きにある鐘撞き堂であり、マレウスはいつの間にか、元のドラゴンの姿となっていた。鐘撞き堂は半壊状態で、石の天井が半分どこか吹き飛んでいた為に、マレウスの頭上には晴天が広がっていた。
     マレウスの身体がうまく動かないのはその身を花が咲き乱れる茨に捕えられているからだった。
     茨はマレウスが魔法で呼び掛けて大地から紡ぎ上げるものに似て、花は紅蓮の花によく似ていた。マレウスはふと、己とロロの子たるものの正体は、この花咲く茨であると悟った。マレウスが詠唱を頭の中で思い描くと、天から雷が一閃轟いて、花咲く茨は魔力あふれる黄緑色の妖精の炎に包まれて、百舌鳥の鳴き声にも似た悲鳴のような音を立てて燃えた。
     黄緑色の妖精の炎をぼんやりと見詰めていたロロの元へ、マレウスはヒトのかたちを取り戻して降り立った。花咲く茨から解き放たれて、己の身体の隅々まで魔力が満ち満ちていることがマレウスにはよくわかった。今ならなんでも出来るような気がした。まずは腫れ上がったロロの諸手を掬い上げて口付け癒しの魔法を施すと、己の革手袋を脱いで未だ濡れぼそるロロの頬に素手で触れた。
     熱をもった頬にひんやりとした手のひらは心地良くて、ロロは少し頭を預けて目蓋を閉じた。
    「ずっと、夢の外から僕を呼んでいたのか」
     マレウスは鐘の音と誰かが叫ぶ声を遠くで感じ取っていた。
     ロロは目蓋を閉じたまま応える。
    「……卿は寝付きが良すぎる」
     叫び続けていた為か、その声は掠れきって息の漏れに少し意味を染めるのがやっとの様子だった。マレウスは己の角に注意してロロの喉元に口付けて、癒しの魔法を施した。

     事は、ロロがマレウスの魔力を入手して残しておいた紅蓮の花の種に品種改良を施し、マレウスの魔法に耐性をもった紅蓮の花を咲かせる茨を創ったことにあった。紅蓮の花を育てる時、ロロは図書館の蔵書で閲覧した通り朝露に濡らすかのごとく少しづつ己の魔力を注ぎ、イマジネーションでその蔓や葉や気根が伸びやかに広がるよう、かつて母なる人が『願いよ響け』を子守唄として歌ってくれた旋律を記憶の底から掘り起こして、苗に歌い聞かせていた。
     故に、花咲く茨も同じようにロロは苗を養育した。
     ――あとは、魔法薬で無理矢理に己を仮性オーバーブロットさせて穢れを注げば完成のはずだった。
     マレウスの魔力を得る為に朝餉へ『招待』して交流を続け、ロロは己の本心に気づいてしまった。己の負の感情が増幅して抑えられなくなった時、ロロはその黒い濁りとして広がる悪夢にマレウスへの思慕が強すぎることを知って後悔した。
     しかし、時すでに遅く。ロロが鐘楼で仮性オーバーブロット寸前になった折も折、ガーゴイルたちと談笑していたマレウスが気配を察して、ロロが黒い濁りの中に堕ちてしまうことを防いだ。しかし、代わりにインク沁みのようなロロの悪夢を浴びたマレウスへ隠してあった花咲く茨が絡みついた。マレウスは花咲く茨に囚われて、深い眠りに就いてしまった。刻を経るごとにマレウスの魔力が弱くなっていくと、遂にはヒトのかたちも保てなくなり、鐘楼は半壊した。鐘の音を何度鳴らそうと、マレウスの魔力で耐性をもってしまった花咲く茨はなかなか枯れてはくれなかった。
     ロロは花咲く茨を引き千切り焼き払いながらマレウスの名を何度も呼んだ。しかし、ロロの両手を広げても余りあるマレウスの大きな眼は岩石のような目蓋をぴたりと下ろしたまま動かなかった。

    「僕に口付けてくれたのだろう?」
     マレウスは楽しげに腫れの癒やされたロロの手を取ってその柳腰に手を添え、鐘撞き堂でくるくると木の葉が舞うようにふたりで踊っていた。ロロは疲労感の滲み出た顔をしていたが、マレウスのリードに影のごとく連れ添って滑らかに脚を運んでいた。壊された鐘撞き堂はふたりが巻き戻しの舞踊を舞ってコートや会長服の裾がひらりとひるがえる度、燐光を煌めかせ崩れた石壁が元に戻って修繕されていった。周りではいつもより多めに救いの鐘の音を浴びた為に動きが良くなったガーゴイル達が、伴奏を請け負って笛や太鼓などの楽器を朗らかな表情で奏でていた。「みんなで鐘撞き堂を修繕すればお咎めはなしだろう、僕を信じろ」と笑ってマレウスはロロに手を差し出した。
     マレウスは踊りながら歌うように続けた。
    「真実の愛のキスは強力な解除作用があるという伝説だからな」
    「……他に手が思いつかなかったのだ」
     ロロは目線を逸らしてぼそりと呟いた。裾をさばけば割れた窓硝子が膜を張るようにぴたりと引っ付いた。
    「まさか、この僕が我が身に真実の愛のキスを受けることになろうとは」
     ターンの勢いでもって、マレウスはぐいとロロの身を引き寄せた。鐘撞き堂の屋根の穴が塞った。
    「やはり、お前はとても面白い男だ」
     マレウスはとても気分がよかった。ステップを踏めば割れた床板が元通りになった。
    「夢の回廊の中で、僕はお前との子どもについて考えた」
    「……あれは」
    「ん? 知っているのか?」
    「傍で添い寝すると、夢の中に私も入ることが出来た。声を掛けることは叶わなかったが……」
     ロロは俯いた。覗いた耳が赤く色づいている。
    「……ベッドの下で乱れる己の声を聴くのは辛いものがある」
    「心配せずとも僕はいつでもお前をかわいがるぞ」
    「そういうことではないのだがね」
     ロロはため息をついた。
    「……マレウスくんと私の子どもなど、世間からほさかれるに決まっている。かわいそうなだけだ」
     マレウスはロロの腰を引いて腕を伸ばし、ポーズをとった。エルム材の段梯子が木琴を奏でるように波打って踏み板を取り戻した。
     ポーズを戻すと自然とロロはマレウスの顔を正面から見据える事となる。マレウスの顔は至極穏やかで慈愛に満ちた光を黄緑色の目に宿していた。まるで浅瀬の底にきらめくような光をしていた。ロロの見たこともないようなマレウスの視線は、己だけを見ていなかった。ロロにはマレウスが己との子どもを見詰めてこの表情をしているのだと、ふと感じた。

     尖った犬歯を覗かせてマレウスは優しく笑った。
    「ならば僕らが、その嬰児みどりを誰より祝福するほさくるだけだ」
     ロロは言葉が上手く出てこなかった。ただ、マレウスに添えた手をそっと握り返した。


    [終わり]
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