ふたりはマレロロ・ひとりお遊戯肚内巡り 一
むかしむかし、或る小さな国にあまり仲のよくない姉妹がいました。ふたりは国のお姫さまで、先王亡き後協力して国を治めねばなりませんでした。妹は常日頃から姉と仲良くしたいと考えておりましたが、姉が閉した扉を開けることはありませんでした。姉には強大な魔力がありました。しかし、その力を上手く制御できずにおりました。だから誰かを傷つけることがないよう、ひとりぼっちで城の奥深く隠れていようと思ったのです。ところが或る日、小さな国に異国の脅威が襲いかかりました。
閉じこもってばかりもいられないと、姉は扉を開け放ち姉妹は力を合わせて脅威に立ち向かって、国は守られたのでした。力を合わせて闘った事で、春の雪解けのように姉妹のわだかまりは溶け消えて、ふたりで立派に国を治めました。 ――輝石ノ国古典童話集一篇『國護りのふたり姫』より。
二
真っ暗な夜。この地でしか採れない鈍色の中に緑の雲母が光る石灰質角礫岩を加工し煉瓦のように積み上げて造られた家々がひっそりと立ち並ぶ城下町に、巨大な生物の心音を思わせるどこか懐かしい重低音が撚り合わさり陰鬱としたサイレンの音となって、複雑に響き渡っていた。家々の扉や窓は、寒い地方特有の木目が詰まった密度の高い楓材を用いた木戸で堅く閉ざされて、路には主だった人影も見当たらない。住民たちは皆建物の奥で息をひそめているようだった。天には分厚い雲が垂れ込めて星ひとつなく、窓辺の花台に咲く透き通ったガラス色の花に白い霜が降りていた。
野外に生きとし生けるものの気配はない――ように思われた。
反響する陰鬱なサイレン音の中を、城下町の中央広場にある噴水へ向かって走る小さな人影があった。まだ歳のころは5つほどの幼な子がひとり、逃げ遅れてしまったようだった。幼な子は城の裏手に広がる深い森の木こり小屋に住んでおり、城下町へはお遣いで降りてきていたが、慣れない遠出に疲れて居眠りしてしまったところサイレンの音に飛び起きた。そういう想定になっている。
街を守るように聳え立つ黒い山の背後から、音もなく三叉角を戴いた夜空よりも更に暗い闇色の巨大な影がのそりと現れた。鳴り響くサイレンはこの怪物の襲来を知らせるものであった。広場の噴水は転移魔法装置の役割があり、湛えられた水鏡を通して深い森の静かな泉の鏡面へと繋がっていた。普段は鍛錬のために徒歩で往路復路をゆく幼な子であったが、緊急事態は別である。三叉角の大きな怪物はゆっくりとしかし確実に、幼な子の背後に迫っていた。
中央広場に駆け込んだ時、安心感からか幼な子の足がもつれて石畳につまづきバランスを崩した。眼前には噴水の縁が迫っていた。咄嗟のことで受け身がとれず幼な子は目をぎゅっと瞑った。
「いかん!」
ふわりと爽やかな気品漂う花の香りと柔らかな衝撃が幼な子を抱き止めた。
――?!
幼な子がそっと目蓋を開くと、目元を仮面で隠して切り揃えられた白銀色の前髪の印象的な女性がこちらを見下ろしていた。仮面の奥には墨染のエメラルドのような優しい眼差しがある。
「怪我はないかね?」
水晶のように透き通った硬質な声を発して小さな瓜実顔が小首を傾げると、なだらかな肩から白銀色の真っ直ぐな長髪がサラサラとこぼれ落ちた。蝙蝠の仮面で顔を隠した幼な子はコクリとうなずき、己が眼前の女性の柔らかな胸元に顔を預けていると知って慌てて身を起こした。白銀の髪の女性は、大きなツバ広の帽子を被り、立襟にキルティングの肩掛け飾りと続きになった一種拘束具を思わせる金具装飾がその身を囲っていた。まるで貞操でも守っているかのように肌の露出が少ない禁欲的意匠の紫衣を纏っている。
――ありがとう。Cureエレガント!
「……もしやその呼称は、私のことを云っているのかね?」
Cureエレガントと呼ばれた女性は仮面を付けていてもわかるほど鼻白んだ。ふと、その背後から同じく目元に仮面を付けた黒衣の女性がつむじ風と共に忽然と現れて、白銀の髪の女性の疑問に深淵の谷に風が吹きゆくような厳かな声でしかし面白げに回答した。声に少し笑みが含まれている。
「ああ、そのようだな」
その黒衣はフリルの効いた立襟でありながら上衣の胸元や袖は黒いシフォン生地のシースルーで、豊満な胸元にできた谷間を惜しげもなく透かしていた。サロペットのようなワンピースは薔薇の金糸刺繍が印象的なマーメードラインのスカートへと続いている。熟れた身体のなまめかしい輪郭をなぞるような衣服のシルエットは、白銀の髪のCureエレガントの装いとは全く正反対だった。キルティングで裏打ちされたマントによってわずかに軽減されているが、それでも白銀の髪のCureエレガントは目線のやり場に困ってどぎまぎした。ふと、己の慎ましやかな胸に安堵を覚えてしまうほどに。
蝙蝠の仮面の幼な子は黒衣の女性をこう呼んだ。
――Cureスタイリッシュ!
「すたいりっしゅ?」
「この僕のことだな」
「……は?」
「迫り来る謎の怪物たちが起こす難事をCureする謎の仮面ふたり組という訳だ」
「くっ……何故こんな恥ずかしい呼称を」
「ところで、最近僕たちはコンビネーション技も決まるようになってきた気がしないか?」
「貴様が強引に私の魔法を誘引するから!」
「やはり、脅威を前にして一致団結すると気持ちも沿うようだな」
Cureエレガントは不本意だったが、確かに戦闘においてCureスタイリッシュと阿吽の呼吸のようなものを掴めるようになってきた気がしていた。
「ん……何かの勘違いだ」
「ははは……おや、来るぞ」
三叉角の怪物が頭から三人目掛けて突っ込んできた。ふたりは幼な子を伴って飛び退いた。三叉角はかなりの硬度を有するようで、ビスキュイをフォークで砕くように易く石畳を打ち壊し、石造りの噴水を破壊した。破壊された割れ目から水が高く噴き上がり、雨のように中央広場へ降り注ぐ。噴水を維持する循環魔法の陣が崩されたようである。
白銀の髪のCureエレガントは被っていたツバ広の帽子を幼な子に被せかけると、幼な子を井戸の影に隠した。幼な子は帽子を傘代わりとして両手で浮かして身を縮こまらせる。白銀の髪のCureエレガントは庇うように井戸の前に立ちはだかると、腰のポケットから赤い菱形の魔法石が嵌った閼伽の手鏡を取り出して、紅蓮の炎がたなびく鏡から救いの鐘を模した手のひらほどのおもちゃのような魔杖を出現させた。少し離れた位置に立つ黒衣のCureスタイリッシュに声を掛ける。
「つい先週、五岐首の怪物を退けたばかりではないか。全くどうなっているのかね?!」
「一難去ってまた一難、だな」
「率直に言わせてもらえば、ありえんぞ!」
黒衣のCureスタイリッシュも黄緑色の宝石が嵌った手鏡から、黄緑の雷電ほとばしる閃光を黒い絹の滑らかな手袋を纏わせた右手が切り裂いて、現れた糸車を模すおもちゃのように小ぶりな魔杖をぱしりと掴む。
敵の追撃をかわしたCureエレガントは、白銀の髪を夜風に踊らせて黒衣のCureスタイリッシュの隣へ飛び退いた。
「それに貴様、先の戦闘で怪我をしているのではないかね?」
三叉角の巨大な怪物が繰り出す黒い渦の斬撃をかわしながら、ふたりは小ぶりな魔杖で応戦する。
「はて、なんのことだろう?」
「ふん、とぼけるな!」
白銀の髪のCureエレガントが黒衣のCureスタイリッシュへ歩み寄ると、左手の黒手袋を取り去った。黒曜石のような爪がついた白魚の腹のような指先には細かな傷と一本ケロイドになるほどの深い傷が走っていた。
「ひどい傷ではないか、神経をやられたのか?」
「僕にとってはかすり傷だ。……何故、怪我がわかったんだ?」
「んふふ、昼餉で杯を取り落としただろう? 貴様らしくないと思ってな。見れば指の動きがぎこちなかったのだよ、私にはすぐわかったぞ」
得意げに鼻を鳴らすCureエレガントの頬に落ち掛かる白銀の髪を、小ぶりな魔杖を掴んだ黒手袋の右手で避けて、黒衣のCureスタイリッシュは仮面の奥にある光の粒散る黄緑色の瞳をいとおしげに緩めて微笑んだ。
「お前は僕のことをよく見ているな」
「……ッ、そ、そんなことはいいから、無理はしないことだ」
妙に艶を含んだ黒衣のCureスタイリッシュの表情に、図らずも白銀の髪のCureエレガントはたじろぎ目線を逸らす。目の端がほんのり赤く色づいている。
「お前が傍にいてくれて、僕は嬉しいんだ」
黒衣のCureスタイリッシュににじり寄られて白銀の髪のCureエレガントは一歩足を引くが、いつの間にか民家の際まで迫られておりヒールの踵が石壁に当たって靴の甲に飾られた真鍮製の百合が触れ合いチリンと鈴のような音を立てた。まるで、逃げられないぞと囁くかのように。
「っ……」
黒衣のCureスタイリッシュが石壁に両手をつくので囲われてしまい、黒いシースルー生地の主張強めな胸が眼前に迫って、白銀の髪のCureエレガントはのぼせたように頬を染めて目を瞑って顔を背けようとした。女性でありながら、まるで女性に免疫がないかのような反応である。しかし、傷を負った黒曜石の爪の左手が小さな顎をつらまえて、顔を背けることは許さない。切り揃えられた白銀の髪が掛かる頬にひんやりと冷たい吐息がヒースグレイの唇からこぼれる。
「ふふ、まるで幼気ない生娘のようだぞ。フランム」
「チッ、誰のせいでこんな姿をしていると思っている!」
「おやおや、舌打ちとはずいぶんお行儀が悪い口だな」
「黙れ、んッ……」
顎の角度を更に上げられて、まるでユスラウメの実のような色づく小さな唇を喰まれてしまう。
「ま、待て。……そうだ、誰か見ているやもしれな、痛ッ」
息も絶え絶えCureエレガントは眼前の濡れ烏色の羽根飾りの肩を押しやって言い訳をしながら逃れようとするが、その白銀の髪を掴まれて黒いシースルーの両腕のうちに捕えられ、更に口付けを深くされてしまう。
壊れた噴水から雨は降り続けている。衣が濡れて肌に纏わりつく身で迫るものだから、柔肉の肢体を肌で感じて知らず互いの身体の内に熱が上がっていく。まるで水浴でもしたように、びっしょりと濡れてしまうころ。ヒースグレイの唇はようやっとリップ音をさせて離れる。白銀色から銀鼠色になり水が滴る髪をしたCureエレガントの、色が薄かった唇はすっかり赤く色付いて、目線は酸欠でいささか焦点が定まらず、浅い息を繰り返していた。
「お前が心配せずとも、誰も僕らの正体を知る由もない。それに、このサイレンが鳴り響いている間は、皆戸を立て切っている」
先ほどよりもほんのり熱を孕んだ黒衣のCureスタイリッシュの吐息が耳に掛かって、銀鼠色の髪を額に貼り付かせたCureエレガントはびくりと肩をすくめた。
「……」
「おや、僕の口付けで腰が立たなくなってしまったか。この身体は快感に弱いな」
黒衣のCureスタイリッシュが濡れぼそる銀鼠色のCureエレガントの身体を軽々と姫抱きに抱え上げる。
「快感の沼にひたるお前は、ずいぶんお利口でいい」
Cureスタイリッシュの艶めくヒースグレイの唇が銀鼠色の髪に落とされると、当のCureエレガントは悔しげに唇を噛んで目の端の豊満な胸へ、細い手首からなる震える拳を力なく振り下ろした。
「……たわけが」
力ない拳は、豊満な胸にぽゆんと跳ね返された。
三
時は残寒のころに遡る。
茨の谷の次期領主であるマレウス・ドラコニアは師の計らいにより人間の統治下にある黎明の国で、ヒトの子らに分け入って、まるで人生の休暇であるかのように束の間の学園生活を送った。折には、都合ばかり良い「僕の考えた最強に幸せな夢」を仕立てて深淵の闇たちと夜通し夢通し踊り明かしなどした。心の内で、師に見立てた深紅の糸巻きを放り投げて、隠したり表したりしながら夢を渡り歩いて遊んでいた。
「いない! いない! ばあ!」
しかし、楽しいひと刻は終わり、マレウスも夢から醒めなくてはならなくなった。国に戻り、己がまだ稚児であるから摂政として女王に復権し政を執り行ってくれている祖母に代わって、領地を治める責務が待っていた。
「……いやだ」
しかし、マレウスは夢から醒めることを拒んだ。世界を己の領内に納めて、生きとし生けるものを皆夢へ引き摺り込んでやろうと災害級の暴挙へ打って出ようとした。いわゆる世界征服である。
おやおやと困った現女王はかわいい孫に条件を出した。
――ヒトの子をひとりだけ選び、お前の楽しい茨の谷へ『招待』するがいい。
それはまるで、おもちゃ売り場から動きたくないと駄々を捏ねる幼い孫に、ひとつだけ買ってあげるからちゃんと歩きなさいとうながす祖母と何ら変わりがなかった。マレウスは、はたと駄々を捏ねるのを辞めた。
まずは遠方へ赴く師を囲ってしまいたいと思ったが、ヒトの子ではないので却下された。共に学生時代を過ごした近衛たちはもちろん囲わずとも傍に在ってくれる。
マレウスは祖母の御前で己の顎に人差し指を遣ってよく考えた。
――ヒトの子を招待する……か。
この茨の谷によそからヒトの子を招く。
ふと、マレウスには思い出す事があった。
それは気の遠くなるほど昔、マレウスが雛だったころ。
マレウスが卵から孵ったお祝いとして、どこぞから拐かされた乳母代わりのヒトの子がいた。ヒトの子はどこぞの国の踊り子で拐かされた身でありながら優しい心をもっていた。幼いマレウスが眠れない夜には枕元で己の国に伝わる童話を語って聞かせてくれたり、祖母である現女王に見立てた糸巻きを出したり隠したりして留守を一緒に待ってくれたり、膨満感で食欲のない折には紅くて甘酸っぱいルバーブパイなぞ作ってくれたりした。マレウスはよくその者に懐いていた。その者が動くとガラガラと音がしたことをマレウスは覚えている。しかし、慣れない妖精の国で捕えられた籠の中の蝶の命は長くなかった。
或る晩、マレウスがチェスを教えてもらおうとその者の住まう西の塔へチェスボードを担いで昇ってみると、力なく横たわる踊り子の姿があった。マレウスが初めて目にした死だった。マレウスは泣きながら祖母が大切にしている薔薇園の隅にヒトの子の遺骸を埋めた。茨の谷の城ではしばらく雨が降り続いた。
遊び相手がいなくなって、だんだんとマレウスは悲しみよりつまらなさが勝るようになった。雛はむくれていた。そして城は数日氷漬けになってしまった。海外渡航から戻った女王が霜の降りた白く染まる謁見の間を見遣り、おやおやと小さな頭を撫でてやってようやっと氷は溶けた。その後もマレウスが癇癪を起こすたびに城は凍てついたが、以降は子守の上手な元近衛隊右大将の支えがあって皆今日までやってこれたのである。
あんな出来事は城仕えの者たちも、もう避けたいところであり、謁見の間はにわかにどよめいていた。
――全く。僕はもうそんなことで癇癪を起こす子どもじゃないぞ。
下々の者たちの様子を肌で感じたマレウスはあの頃のように内心少しむくれたが、下々の不安を取り去ってやるのも王の努めであると考えた。そうして、もうひとりヒトの子といえば忘れられない男がひとりいたことを思い起こした。
――そういえばあの男、僕への再戦を誓っておきながら、音沙汰がないではないか。
マレウスが花の街を訪れてから、7年の年月が流れていた。あの己を睨み付けるギラついた眼光を思い出して、マレウスはゆっくりと動く己の心臓がどくりと大きく跳ねるのを感じた。ちょっとやそっとじゃへこたれない一本筋の通ったあの男であれば、今度は大丈夫だろうと思われた。
――ヒトの子の齢は儚いというのに、僕を早く招かないからこうなるんだ。
「では、お祖母様――」
――くそッ! あの悪党め!!
縄で縛り上げられて身動きが取れぬ中、ロロ・フランムは鳥籠のような囚人馬車に込められ揺られながら内心毒ついた。仕事を終え帰宅した途端、縄を幾重にも掛けられて縛り上げられ叫ぼうにも猿轡で口を防がれて、訳もわからぬまま異国へ連れてこられたのだった。取り交わされている言語が妖精語であること、窓の外がどこまでも霧深く昼間でもあまり陽が差してこない陰鬱な様子などを総合して、この地が茨の谷であろうと推測した。茨の谷といえば、ロロの脳裏にいけ好かない余裕の笑みをヒースグレイの唇に浮かべた男がひとり思い浮かんだ。ひと昔前であれば、人間と妖精は交わりを断絶していたこともあり、どちらかがどちらかの国に人身を拐うという悪行が公然と行われていたが、今は国交も整えられて国際法で禁じられている行為である。それを平然と行えるなど、道理も法律も倫理も世界有数の魔力で十把一絡げにしてしまうあの男以外にいないだろう。飛び交う訛りの強い妖精言語の単語を神経質に拾って繋いでいけば、やはり己をこのように拐かしたのはあの悪党の仕業であるようだった。
――マレウス・ドラコニア……!
捕えられる理由が全く思い至らないかといえば、そんなことはなかった。ロロには捕えられるだけの悪事を行った自覚があった。しかし、大いなる救いを慈雨の如く広くもたらすためには必要な悪であるとロロは思っていた。救いが叶えば、魔法士が我が物顔でのさばる嘆かわしい世界を、逆さま祭りのようにひっくり返す事ができるはずだった。ひっくり返せば悪事は救済となっただろう。だが、計画は失敗した。マレウスの手によって。
しかし、ロロは諦めていなかった。一度は自責の念に苦しめという半ばお咎めなしの申し渡しを受けている。約束を違えられては計画が変わってくる。
――私には成さなければならない仕事があるというのに……!
ロロは現在輝石の国の中央政府が置かれた役所に勤めており、全国の幼等院にて魔法が顕現した幼な子らとどう対応するべきかを育士たちに説いたり、現場でのヒアリングや養育環境のチェックなどを行なって対応マニュアルを作成する業務に勤しんでいる。己に何かあった時のために、部署内で業務内容の共有は抜かりなく行なっているが、ロロ自身がやり遂げたいと思っている仕事であった。ロロは別のアプローチで異なる救いを成そうとしていた。同時並行で、この嘆かわしき世界から魔法を奪う方法を模索中である。命を賭して何年かかっても構わないと思っているからこそ、その間にこぼれ落ちる命がないように努めているのだった。
鳥籠の囚人馬車が停まった。頭から布を被せかけられて光の方向しかわからなくなる。長い廊下をゆき、布を取り去られると、まるで生きていた者を石にしてしまったかのような臨場感あふれるグロテスク彫刻の並んだ石造りの一室に通された。ロロははじめ大人しく付き従ったが、よそ見をした見張りを背後から送襟締めにして頸動脈を一時止めて半落ちにすると逃亡を図った。すぐに駆け寄ってくる他の妖精言語が聞こえたので、見張りは助かるだろう。ロロは追手に追い付かれないよう、連れて来られる際に感じた月の光の方角を頼りに、足早に暗い廊下を進んでいた。
ふと、ロロが窓に目を遣ろうとした時、壁から窓がなくなっていた。
いつの間にか、窓のない廊下にロロは在った。背後に聞こえていた訛りのきつい追っ手の声も止んでいる。
真っ暗な廊下だ。
ぽつり、ぽつりと先の見えない暗闇に導きを示すかのような松明が点っていく。松明は黄緑色の妖精の炎である。後戻りしようかと背後を振り返っても先の見えない闇があるばかりで、ロロは生唾を飲んだ。仄暗く黄緑色が照らす廊下を前に進むしかないようだった。廊下は人が3人はすれ違えないような狭さで、奇妙な彫像が壁の松明の間に等間隔で立っている。大理石のような白い石肌に炎の黄緑色が反射して粒子がきらきらとしている。像は皆眠っているように目蓋を閉じ脳天に双角を戴いていた。彫像の面差しがマレウスに似ているとロロは思った。像はしかし、身体の一部がどこかしら欠けていた。王子の像にしては不可解である。ロロは首を傾げつつ、同じ場所を巡ることがないよう、冷たい石壁に手を伝い歩いた。
どれほど歩いたかわからない。ふと、ロロは左片脚のない像に出会した。膝から下が斜めにすっぱりと潔く折れている。何時間か前にもロロはこの断面を潔いなと思ったのだ。この像に出会うのは四度目だった。ロロは嫌でも何度も同じところを通っていることに気がついてしまった。ロロは己がうわばみの腹の中にいるように思えた。
――むしろ、ドラゴンの肚の中、か。
少し肌寒いほどなのに、嫌な汗がロロのこめかみから顎へと伝い床へ落ちる。
ロロは真っ暗な廊下で愕然としてひとり立ち止まった。歩き続けて脚が棒のようになっていた。すると、前方か後方からか、カツカツと靴音が響いてきた。音が反響して前後不覚になっている己の方向感覚に唇を噛みロロは身構える。
少し先の黄緑色に照らされた灯りの中へ、夜闇の色をしたウプランドの長い長い裾を引きずりながら、まるで闇から出でたように捻れ上がった双角を脳天に戴いた長身はのそりと現れた。
「これはこれは……」
地の底から響いてくるような脊髄が震えるほどの低い声に、ロロは身の毛がよだった。黄緑色の妖精の炎を逆光にした憎むべき悪党の影は、しかしどこか悲しそうな顔をしているように思われた。ロロは妙な心地になった。すぐに馬鹿らしいと己の内心を叱責し被りを振る。
「久しいな、フランム」
「これが貴様のやり方か、マレウス・ドラコニア!」
「客人は遥か先の来賓の間へ通したはずだったが、どうしてこんなところを歩いている?」
「んふふ、客人だと? 強引に拐っておきながら、囚人の間違いであろう?」
「……室内にガーゴイルを置いても、雨樋の役割を果たさないものはガーゴイルとは呼べない」
「……ん?」
「だから、我が国の最高峰のガーゴイル彫刻師であるドワーフの翁に、室内へ置くことができるものとして代わりの精巧なグロテスクで貴賓の間を飾らせたというのに。あのグロテスクが、屋根にあってはガーゴイルとして雨水を吐き出す様を夢想することで風雅を感ずるのだ。何故あんな素晴らしい空間から逃げようとする?」
「……貴様と喋っているといつも論点がずれる。まあ、いい。私にはやらねばならぬ仕事があるのだ。帰らせてもらおう」
「輝石の国の中央議会には、お祖母様から賓客としてお前へ招待状を出しているぞ」
「何? 聞いていない」
「しかし、いつまで経っても音沙汰がない。聞けば、お前は輝石の国の方々を回っていて、届かないと云われたそうだ。僕は辛抱強く待っていたつもりだったが、気付けば城が霜に覆われていた。痺れを切らしたあるじ思いの者達が、此度の無礼を働いてしまったのかもしれないな」
黒い革手袋に包まれた左手が、ロロに向かって差し出される。
「さあ、こちらへ」
「……いやしかし、私は」
ふと、ロロはマレウスの背後にうっすらと白く透けた人影があることに気づいた。ロロは今まで何度もその人影によく似た者を視てきた。床についた己の枕元や、煌々と燃え盛る暖炉の中、家の玄関、屋内霊廟の祭壇の上、階段や廊下の途中……。背格好から、いつもは亡くなった弟だと思っていた。その小さなゴーストは顔がよくわからなかった。生前はまるでひまわりの花のように明るい笑顔で己を見詰めてくれた弟。その顔を見せてくれないということは、己の生きている意味を忘れるなと、罪を認めろとその影は云っているように思えた。ロロの悔悟と懺悔がかたちを成した影であるようだった。
しかし、紅蓮の花の災厄を起こしてからは、その小さな影はロロの目の前に現れなくなった。ロロは問い掛けずには居られなかった。あの出来事で何かを成せたかと云われれば、何も成しえていないのに、何故……と。あんな未遂の行いで、世界は何ひとつ変わらなかったのに。
そもそも、ロロは勘違いをしていた。
弟のゴーストは兄をずっと心配してその傍に在ったのだった。死した身では見守ることしかできなかった。ロロが盲信する救いを成し遂げれば、その先にロロの破滅が待っている。ロロは自罰心から己を責める弟を欲してしまったために、己を心配する弟の顔が見えなくなっていた。ロロの救いが潰えたことで、ロロの破滅は防がれた。強大な魔力を持つマレウスによって。だから弟のさまよえる魂は、安堵してロロの元を離れていったのである。
しかし、ロロはまだどこかに弟の影が現世さまよっていると信じていた。叶うことのない探しものをしていた。ゆえに話しのできるゴーストを探していたのだった。マレウスの背後に立ちすくむ白い人影は、ロロと同じくらいの身長があるように思われた。城に住まうゴーストの類であろうか。ロロは目が悪いが、ゴーストの容姿なるものは視神経とは別の概念を通して脳裏に像を結ぶらしく、存外はっきりとその姿をとらえることができた。
――あの装束は……。
白い人影の纏う装束を見て、ロロは声をかけようとした。しかし白い人影は煙のような白い光となって廊下を疾く駆ける。
「待ってくれ!」
ロロも弾かれたように同じ方向へ駆け出した。
仄暗い黄緑色の炎の照らす光の中で、深い陰を落とすマレウスは、ひとり残された。
そうして、ぽつりと呟いた。
「どうして、みんな僕を置いていくんだ……」
その深淵の底から響くような声色は、ネズミくらいの小動物であれば震え上がって小さな心臓が凍ってしまうほど、深く暗く冷たく寂しい色をしていた。マレウスの手の内には、白銀色の糸巻きがあった。痛む胸を右手で抑えつつ、マレウスは糸巻きを黒い革手袋の大きな左手でそっと覆い隠す。
「いないいない……」
窓のない石造りの廊下に、瞬く間に黄緑色の稲光が走ったかと思うと、ロロはにわかに気を失って床に崩れ落ちてしまった。
四
大ぶりな手枷足枷をされた状態で牢屋の中、ロロは目を覚ました。気を失った刹那の、酷く冷たい心地を思い出して、身震いした己の肩をさすってなだめる。腕の動きに合わせてガラガラと鎖の音がする。石造りの冷たい牢屋には、小さな吹き抜け窓の向こうに爪で引っ掻いたような細く鋭い月とささやかな星々が浮かぶ。夜空の星は明かり採りには頼りなく、此処でもやはり黄緑色の妖精の炎灯る松明がひとつ煌々と燃えている。
薄暗い明かりの中、ロロは己を拘束する枷を検めた。枷は鉄製で魔法のかかっていない珍しいものだった。本来であれば、囚人の魔力を封じたり、手首足首にぴったりと合うようになるものだが、単純に鉄で鋳造された枷だった。妖精は鉄に触れると火傷してしまう性質を持つ。自然と魔法にいだかれて、神と人の間にある者が妖精とされている。鉄はあまりに人間の手助けをし過ぎて、自然破壊の途を助けた。そうして、鉄は自然に嫌われ神は憂いた。ゆえに妖精が人と同じ轍を踏まぬよう、神の掛けた呪いから妖精は製鉄に触れると火傷をするようになった。
――この枷は妖精のためのものという訳か。
おそらくこの牢はトロールを想定した檻であるようだった。鉄柵の巾が大きく、真横を向いてすり抜ければ脱してしまえそうであった。
――この枷さえ外すことができれば……!
枷も大ぶりで、丸太のような腕のトロールにも嵌めることができそうであった。しかし、ロロは男性にしてはほっそりとした指をしているが手の骨格自体は大きいので、無理矢理に引き抜くことは難しかった。だんだんと枷が擦れて、手首にじわりと血が滲みはじめる。
「っ……」
気を持ち直して、今度は手で枷を押さえて足を抜こうとするが、あと少しのところで踵がつかえてしまう。
――踵を少し削ぎ落とせば、或いは抜けるやもしれんが。痛手には代わりない。後々支障が出る。もっと賢い方法をとるべきだ。どうしたものか。
ロロが項垂れていると、いつの間にか傍に立つ影の気配を感じた。
ゆっくりとロロが顔を上げると、髪の長い美しい女性が立っていた。豊かに広がるフレアスカートの裾を両手で持ち上げて、お辞儀のポーズをとっていた。ロロがこの得体の知れないゴーストに気を引かれたのは、ゴースト纏う赤い蝶のような衣が、花の街に古くから伝わる踊り子の衣装だったことだ。亡くなった年代はわからないが、花の街の者なら弟の話ができるのではないかと考えた。ゴーストには同じ動作を繰り返す者、話が通じない者、そもそも顔がよくわからない者などが多い。これはひとつの賭けだった。
――……。
ゴーストの踊り子はロロに向かって挨拶をしていた。ゴーストは念いを託したい者に挨拶をする。己の意思を施行できるゴーストであれば、会話が成立する可能性は高い。
ロロも立ち上がると、ゴーストの踊り子に向かって丁寧にお辞儀を返した。右足を引き、左腕を開いて横へ伸ばし、右手を胸元へ離してあてがう。動作に合わせてガラガラと鎖の音が鳴る。ゴーストの挨拶を無下にする者は、ゴーストの止まぬ叫びを左耳で受け続けることになり、片耳が聞こえなくなってしまうことをロロは知っていた。
「私はロロ・フランムと申します。私も輝石の国は花の街の生まれ。ゴーストとは天へ還しがたい念いがかたちを成して現世を彷徨うもの。今この囚われの身ではできる事も限られておりますが、力添えできることがあればお申し付けください」
――……。
「はい。私には亡くなった弟がいます。その魂はこの世を未だ彷徨っているのではないかと心配しています。ご存知ないでしょうか」
――……。
「そうですか……。ありがとうございます」
ロロはゴーストの言葉に、肩を落としてお辞儀をした。
――……。
「え? ええ、確かにこの枷を外したいが」
ゴーストは頼もしい笑顔でにこりと微笑むと胸元からスカーフを取り出した。ロロもハンカチとして持っている、花の街に古くからある伝統紋様の星空柄をしていた。ゴーストの踊り子はロロの周りをくるくると回った。するりとロロのうなじに冷ややかなストールがすり抜けてゆく。ロロは辛抱強くゴーストの出方を待った。踊りが終わり、ゴーストが手のひらのストールに息を吹きかけると赤い光と煙にロロは包まれた。己のよく知る悪戯玩具の類と同じ些細な魔法だ。
――なんだ?
ふと、ロロは己の身体に違和感を感じた。煙の中で、ゴーストがロロの耳元に願いを囁いていた。
ガシャンと重力に従って、抵抗もなく手首から枷が落ちる。枷は輪のままである。煙が晴れてみれば、己の手が随分と小さいように思えた。踊り子のゴーストの姿はない。願いはすでにロロへ託されていた。
――さびしい坊やの傍にいてあげてほしい……か。一体誰の事だ?
足もするりと枷から抜けた。ふと、その足元に紅く太い茎が印象的な青臭い匂いの植物が落ちていた。
「ルバーブ、か……?」
先程までこんな独特な匂いはしなかった。おそらくゴーストは何かを伝えようとこの植物、もとい野菜を置いていったのだとロロは思った。
――しかし、この匂いでは己がどこにいるか知らせているようなものだ。
ロロはルバーブを牢の中に置いたまま、脱出することにした。この痩身であれば、檻の柵も抜けてしまえると思い、脚を外へ出してみたが、いささか思惑は外れた。
――……胸と尻がつかえる。これは……。
「このはしたない脚……また、僕から逃げようとするのか?」
ロロが柵から出した右脚を、ひんやりとした手がするすると撫で上げた。
「ひっ」
「お前はお祖母さまを通じて、この僕に『招待』されている。無礼だとは……」
いつの間にか、檻の外に立っていたマレウスはしかし、ロロの姿を見て言葉を失った。
黄緑色の妖精の炎に照らされるロロの顔面は蒼白のそれだった。白銀の髪は長く顎や肩の輪郭は丸く細い首と手脚に、極め付けは慎ましやかに膨らんだ胸元であった。
「み、見るな!」
思ったよりも高い声が出て、ロロは己の口元へ手を遣った。マレウスの視界から逃れようと、ロロは檻の中へ身を引き掛けるが、マレウスに手首を掴まれてしまう。ロロの身の内に悪寒が駆ける。己の細い手首を掴む骨ばった男の手に、敵わないと思わせられる力の差を感じた。女の身になってしまって、如何様な目に遭わされるのかと思うとただひたすらに憎悪と恐怖がそのか弱い身を蝕んだ。
細い手首を掴んだマレウスにも、眼前の面妖な容姿をしたロロの恐怖が震えとして伝わってきた。細い手首はまるで花の茎のようにたやすく手折ってしまえそうな印象を受けた。マレウスからすれば、ヒトの子はただでさえ脆い。か弱さまで付加されてはどう扱ったら良いのか、内心マレウスも戸惑いを覚えていた。マレウスは今まで年頃の女性と相対する機会が少なかった。
手首を掴み、掴まれたまま、ふたりはしばし動くことができないでいた。
マレウスはよく考えた。
ロロが逃げるから閉じ込めてしまっているが、実際のところマレウスはロロと仲良くなりたいのである。己に臆さないロロを気に入っているのに、恐怖されてはその他大勢と同じになってしまう。
やっと見つけた面白いものが面白くなくなってはいけない。
「……ふむ。では、こうしよう」
マレウスの左手に小さな吹き抜け窓から夜空の月や星の光がきらきらと集まって風を巻き起こしながら光の渦を成した。その渦から光の糸を紡ぐと黄緑色になってマレウスの身にくるくると糸巻きを作るように巻き、その身を黄緑色の光が包んだ。
手首を掴まれたままのロロは眩しさと巻き起こされる風のために目を瞑る。目蓋を閉じても明るい闇がようやっと落ち着いたころ。ロロがそっと目を開くと、豊満な胸の谷間が視界に入った。
「なっ!」
ロロは思わず目を逸らした。
「ほぉら、これでこわくなくなったろう?」
少しハスキーな声の捻れた黒い角を脳天に頂いた見目麗しい緑の黒髪をした女性が、ロロの手首を掴んで楽しげににこりと微笑んだ。男子校で過ごしてきたロロは年頃の女性と相対する機会が少なかった。ゆえに眼前の婀娜っぽい肉体を、ウブな青年の心は直視することができずにいる。角を戴いた女性もといマレウスはむくれた。そうして掴んだままのロロの手を、あろうことか己の豊かな胸元にあてがわせた。あたたかくむっちりとした張りのある胸の感触を己の手のひらで知ってしまったロロは真っ赤になって、熱いものでも触れたように手を跳ね除けた。ロロは今日まで女性の胸を触ったことがなかった。
「は、破廉恥なッ!!!」
「なんだ? お前とお揃いではないか」
マレウスはよく考えたのだ。
そして、遠く離れてしまった師や、顔を忘れてしまった乳母代わりのヒトの子のことを思い出していた。皆、小さな己と目線を合わせて頭を撫でてくれた。高みから見下ろされるのは怖いものだ。ロロも目線を合わせてやれば、つまり同じ女の身の上になってやれば今起こっている恐怖心も失せるだろう――そうマレウスは考えたのだ。ロロの手を己の胸にあてがわせたのも、お揃いの女態を成している証拠を示したに過ぎなかった。
「……へ?」
確かにロロの恐怖心は幾ばくか軽減されたが、マレウスの超絶思考をとっさに理解できず、何故マレウスが女性に化けたのか解らず、らしからぬ裏返った声が出た。
五
かわいい王子が公女となって、仮面を被った現女王はおやおやと己の顎を上げて高らかに笑った。
ドラコニア一族は本体がドラゴンである。人に擬態した身はかりそめの姿だ。マレウスは元の性別に依って男体を成していたが、夜の女神の有する月や星の力を使って、体を女に傾けることなど造作もなかった。まるで酸性をアルカリ性に変えるような感覚であった。ゆえに女王もなんの意にも返していない様子で、ふたりに揃いのドレスを仕立ててくれるほどであった。ロロは頭を垂れながら石造りの謁見の間に響き渡る上品な笑い声を聞いて、女王もマレウスに負けず劣らぬ御仁だと思った。
対するロロはゴーストの呪いに依って女態をとっていた。呪いに使われたストールも夜空の柄で、仕組みとしてはマレウスと同じ夜の女神の力にゴーストの強い念いが撚り合されて組まれた魔法であった。
「つまりは、夜が明ければ解ける魔法だ」
勝手知ったる複雑な城の道を行きながら、祖母である女王より召し与えられたロロと揃いのドレスを纏うマレウスは楽しげに笑った。ドレスは天の川の星々を織り込んでおり、ビーズやスパングルのように密やかな光がきらきらとしていた。隣を歩くロロも、女王から己が正式に招待を受けていると知らされて、ようやく大人しくなった。
「だが、夜がくればこのようにまた女になってしまうのだろう……何故だ、どうして私が」
ロロは浮かない顔をしていた。
マレウスはむくれた顔をしてロロの顎をつらまえる。
「お前はせっかくの招待を霜で萎れた花のような顔で過ごすつもりか?」
「……っ、そもそも私は何故招待されたのだね?」
「いつか救いの鐘の下で……と、僕は言っただろう」
「ん?」
「僕はずっとお前からの再度の招待を楽しみに待っていたんだぞ」
「え」
マレウスは立ち止まってロロを見た。大きく黒い茨の這いまわった中庭の道を差し掛かったところだった。マレウスが女態をとっているので空には星がない。城の壁面に黄緑色の妖精の炎が灯された松明に照らされるマレウスは女態をとっているが7年前と一切変わりのない若く美しい見目をしていたが、ロロはあの頃よりも僅かに大人びた顔をしていた。マレウスはむくれた。
「……みんな僕を置いて大人になっていく。大人の何がいいというのだ」
――もしや、ゴーストの云っていた坊やというのは……。
ロロは肩透かしを食らったような心地になった。
「大人になりたくてなる者ばかりでもなかろう。齢なら皆自然と経ていくものだが、多くは外因によって大人にさせられていくものではないかね? ある者は仕事に因って、ある者は子に因って、ある者は老いた親に因って」
「……お前も外因で僕を招待できなかったというのか?」
「ああ、郷でやらなければならぬ仕事がある」
ロロはいいながら、頭を悩ませていた。坊や、もといマレウスの傍にどれほどの間いることがゴーストの求めた条件かわからなかったのだ。おそらくゴーストの望みの期間が終われば、ロロの夜間女態化の呪いは解ける。ロロの仕事は陽のある内に終わらないことも少なくなかった。なんとか解いて帰国したいところである。
――しばらくは陽のある内に時短で暇を乞うて、解決方法を探すなり呪解を得意とする魔法医院を受診する手もあるだろう。
「あと、何か勘違いしているようだが……私は貴様の澄ました顔が絶望に染まることを望んでいるのだ。楽しみにするなど訳が分からないのだよ」
マレウスはロロの言葉を聞いて、少し悲しそうに笑った。
「僕にそんな口が利けるのは、きっと今ではお前くらいのものだ」
「え?」
「いや、なんでもない」
マレウスの同窓生は大きな外因を背負っている者が多かった。国や地位がのしかかった大人たちは、学生の頃のようにマレウスにもう接してはくれない。マレウスの呟きは夜風がさらってしまったので、ロロの耳には届かなかった。
マレウスはロロを伴って城の裏手にある迎賓館へ辿り着いた。城下町や城と同じ石材で作られた鈍色の建物で、壁面には茨が這いまわって赤い薔薇の花を咲かせていた。
「何かあれば迎賓館付きの妖精たちが手助けをしてくれるだろう。この城の敷地内であれば散策しても構わないが、西の塔には登るな」
「……わかった」
迎賓館の扉を開けると長く続く廊下に黄緑色の妖精の炎がぽつりぽつりと点された。毛足の長い深緑の絨毯の廊下へ足を踏み入れて、扉を閉めようとするマレウスをロロは見上げた。
「王太子殿下自らの案内に感謝する。ところで、私はいつまでここに招かれているのかね?」
「……」
マレウスは静かな顔で答えなかった。
「……マレウスくん?」
小首を傾げるロロの長い髪がさらりと肩からこぼれる。その髪から散った光のきらめきが、己を潤んだ膜に映す墨染の瞳が、マレウスの心の琴線を引っ掻いた。
「……っ」
胸中が震えて促されるように奏でられた意味のまだ理解できない旋律がマレウスの身体を操って、左手でロロの長い髪に手を差し入れて後頭部から角度を上向かせると、右手で華奢な身体を抱きしめて、ロロのユスラウメの実のような愛らしい唇に口付けさせた。
「?!」
背の低いロロへ身体を傾けて、マレウスの艶やかな黒髪がロロの慎み深い膨らみの胸元へ落ち掛かる。ロロは咄嗟に抵抗するも、マレウスの腕から逃れること叶わず、ただ白銀の絹髪が緑の黒髪に混じるだけだった。
唇が離れると、泣きそうな顔をしたマレウスの表情が像を結び、ロロの抗議の声は喉元に引っかかて出てこなかった。
「おやすみフランム」
立ちすくむロロからマレウスは身を離す。抱き締めた為に絡んでしまった互いの長い銀と黒の髪が引っ張られて名残惜しげにはらりと解け落ち、扉は閉じられた。
妙に耳がうるさいと思ったら早鐘のように鳴る己の心臓だと知って、ロロは顔に血が上るのを感じた。そうして閉じられた分厚い扉に手をついて、その場にずるずると坐り込んでしまった。
「……は?」
身体の全部が熱くて心臓と同化したように震えて、ロロは己の華奢な肩を抱き締めると、抗うことの叶わない感情の波間にひとり翻弄されていた。
胸の内がざわめくのはマレウスも同じだった。
何故己がロロへあんな行動に出てしまったのかわからなかった。早足で暗闇の中庭を行きながら、ロロと触れ合わせて熱の移った己の唇に触れて、己の冷ややかな呼気で唇の熱が引いていってしまう事を残念に思った。
――フランムを帰したくない。どうしたら、僕の傍にいてくれるだろう。
迎賓館を離れたマレウスは、その足で西の塔へ登った。
重たい木戸を押し開くと、そこは己の師が城に滞在するための小部屋になっており、師がさまざまな異国から持ち帰った土産の品や楽器などがそのまま残されていた。その全ては白い霜が降りて全ての時が止まったように氷漬けにされ、何もかもが透き通った氷の中に閉じ込められていた。一切の風化を許さない魔法の氷はマレウスでなければ溶かすことができない。その部屋の一角に、師のものではない品がひっそりと置かれている場所がある。マレウスが喉の火袋から黄緑色の妖精の炎を細く吹くと、氷だけが溶けて閉じ込められていた品に触れることができた。異国より取り寄せた『輝石ノ国古典童話集』と金の箔押しがされ魔法石のかけらが嵌め込まれた革張りの古めかしく美しい装丁の本は、顔を覚えていない乳母の持ち物だった。
――確か、仲違いしていた姉妹が協力して国を治める話があったはずだ。
マレウスは凍った部屋の中心で、虚空に黄緑色の炎を灯し腰を下ろして童話集のページをめくった。
「……脅威」
マレウスは顎に指を遣って考えた。
――フランムは郷に残してきた仕事があると云っていた。茨の谷でも仕事ができて仕舞えば、大人になってしまったフランムは残らざるおえないだろう。
マレウスは心へ春が訪れたかのように、楽しげな笑みを浮かべた。
人差し指をくるりと振って、溶かされた品々の中からチェス盤を呼び寄せる。あの日、ルールを教えてもらう事ができなかったマレウスは後に正しいルールを知ることになるが、当時は己でルールを作りひとり遊びに興じたものだった。マレウスは再び己で作ったひとり遊びを始めようとしていた。
大理石でできた白い駒にマレウスが冷ややかな息を吹き掛けると、氷の粒子が吹き付けてきらきらと光り駒はマレウスの顔になっていた。次に心の内からマレウスは白銀色の糸巻きを取り出して、盤上へコトリと置いた。糸巻きの周りを角のある白い駒で囲っていく。黒い駒は盤上にはない。白い駒を並べ終えると、まるで小さな子どものようにマレウスはひとりで無邪気に笑って、左手の革手袋を取り去った。
「さあ、大変だ。脅威がやってくるぞ」
六
口付けを交わしてから数日後。穏やかな茨の谷にて、ロロは賓客としてもてなしを受けていた。
昨晩、城下町に夜襲があった。切り立った山の向こうから、山よりも大きな怪物がやってくるのである。幸い怪我人はいなかった。
「元から怪物が出るような状況だったのかね?」
「いや、こんなことは今までなかったな」
遊色効果によって虹色にゆらめく水晶を丁寧に薄く切り出してガラス代わりに嵌め込まれた城の豪奢なサンルームにて、分厚い雲の隙間から差すわずかな薄陽に照らされ、寒い茨の谷ではあまりお目にかかることのないモンステラやコウモリランなどの丸く大きな葉をもつ南国の植物あふれる室内の、緑の影にひっそりと置かれた小さな卓を囲んでマレウスとロロは朝餉を共にしていた。風の吹き込まないサンルームは外界の音から遮断され、時が止まったような静けさに満ちていた。ロロはふっくらと焼かれたクロワッサンを上品に揃えた指先でちぎると口へ運ぶ。ふんだんに使われたバターに慣れ親しんだ馴染みのパン屋のものと同じ味を感じて、ロロはぴたりと咀嚼を止めた。
「お前のために花の街から取り寄せたんだ」
マレウスがロロの様子を見遣ってにこりと微笑んだ。
「……そうだったのか。ありがとう」
ロロは上手く笑うことができずに曖昧な表情で感謝を述べた。マレウスにわからないよう、そろそろと細い息をつく。未だ郷に帰る見通しは立っていない。ロロは身体の隅々まで神経を行き渡らせて平生通りを保とうとしていた。目蓋は不用意に閉じられない。目を閉じれば一昨晩の光景を思い出してしまう。
マレウスは上品にクロワッサンをちぎって咀嚼し終えると、静かにこういった。
「僕は今晩夜襲を迎え撃とうと思う。民に被害が出てはならないからな」
ナプキンで口元を拭って、ロロが言葉をかける。
「……私も手伝おう」
マレウスの心の盤上で、糸巻きがコトリとマスを進めた。
「この国の民は余所者の私にも大変良くしてくれている。昨晩の夜襲で街の時計台が壊されたであろう? 仕掛けの鳩を楽しみにしていた幼な子が泣いているのは心が痛んだ」
大きく葉を伸ばすコウモリランの陰の下でマレウスがにこりと微笑んだ。
「魔法に頼るなどと愚かな方法を取りたくはないが、夜の身では呪いのためか筋力の弱さを感じる。人命を優先せねばならない」
「我が民への心遣い、感謝しよう。フランム」
「ただ、智杖を呼び寄せたとして、満足に振るえぬやもしれん。あの杖も存外重たい」
「ふむ。では、城の宝物殿から借り物をしよう。何でも小さくにしてしまう閼伽の手鏡がある。僕らの杖がお守りほどの小ささになれば、お前も問題なく魔法を振るえよう」
「異国の者である私が茨の谷の宝を借りてしまっていいのだろうか」
「何を云う? 国を守ろうとしている者に誰が否を唱えられようか」
「……わかった。背に腹は替えられぬゆえ、その宝を有り難く借り受けよう」
ロロの答えに、マレウスは満足げにうなづいて、砂糖をふんだんに使い煮崩れるまでじっくりと火をいれたルビーのように真っ紅な甘酸っぱいルバーブのコンフィチュールを白いバケットに乗せて口へ運んだ。ヒースグレイの唇の内に尖った犬歯の先がきらめいて、真っ紅なコンフィチュールにぐじゅりと噛み付いた。端正な顔の唇の端に紅いジュレが残る。
――あ。
ロロは動かしかけた左手をそっと留めた。その上等なイチゴジャムにも似た紅はロロを悶々とさせる。
あの口付けを皮切りに、灯りのない夜闇に紛れて毎晩女態をとったマレウスが迎賓館のロロの閨を訪れていた。ロロが目を閉じていると、瓜実顔の頬にひんやりとした指先が伸びてなぞり、呼吸を奪うように口付けられる。苦しさにチラリと目を開けるが、マレウスが空から星を奪ってしまうので、夜目の効かない暗闇しか見えない。己に乗り掛かるマレウスの圧と体温と肌の香りだけをロロは感じる。天蓋からピオニーの花びらのように八重に垂れ下がる薄桃色の天幕の内、寝巻きを肌蹴られて、柔らかな肢体を絡め合って熱を移し、指と舌で導かれるままロロは蜜をこぼして快楽に酔っていた。
ロロはこの夜の花の中での交わりを、全て女態の体のせいにしていた。体の仕組みが違うから快楽に負けてしまうのだと言い聞かせているので、男態に戻る昼間はこうしてマレウスと何食わぬ顔で会話をすることができた。全ては呪いの副作用なのだと思い込みたかった。
――なのに何故。
手袋を纏わないマレウスの白い指が紅いジュレを拭い取り、指の紅色を伏せ目がちに舐める様が嫌というほどゆっくりと煽情的にロロの目に映ってならない。少し長めのあの舌の熱さをロロの身体は知っている。そのくせ呼気はひんやりとしてくすぐったいことも。闇に隠されていたものを視覚的に見せつけられているようで、ロロの身体の内には今はないはずの胎がじりじりと焦げるように切なく締まる幻を感じた。ロロは青ざめて震える口元にハンカチを充てがう。
――違う! これは、私ではない! 快楽に溺れているのは私ではない……!
「フランム、顔色が優れないようだ」
マレウスに声を掛けられて、ロロはびくりと肩を震わせた。
ロロははしたなくマレウスに縋ってしまいそうになる己の身に爪を立て、ハンカチの下で唇を噛む。
「……大丈夫だ」
――ああ、夜に我が身が犯されていく。
喉がからからに渇いていた。ロロはミントとレモンの薄切りが浮かぶシトロンウォーターをピッチャーから杯に移して、マレウスへの激しい劣情と一緒に嚥下する。討伐に参加しようという旨には、快楽に溺れる夜が減れば、己の内に起こってしまう熱を誤魔化せるのではないかという期待もあった。
一方マレウスはロロの様子に首を傾げた。
夜毎ロロを暴くマレウスはといえば、己がロロに口付けた意味を知りたかった。ピオニーの花びらに包まれて眠るロロは、夜闇の一部と化したマレウスを拒まなかった。求め求められる相互関係が嬉しかった。けれども、朝になればロロは夜の事など知らないような素振りでマレウスに接して、澄まし顔で帰国の日取りが知りたいという。
――夜は僕の指が赴くままさえずって、愛らしくてならないのに、どうしてだろう。
マレウスは真っ紅なルバーブのコンフィチュールを銀のスプーンでぐちゅりと潰す。
――フランムの白い肌に似合いそうな紅だ。取り澄ました顔をぐずぐずにとろかしてしまいたいと思う僕は、フランムに何を求めているのだろう。
マレウスは愛欲というものを、まだよくわかっていなかった。ただ、透明な衝動に突き動かされていた。
――脅威が、共通の敵ができれば、フランムは僕と力を合わせて戦ってくれるだろう。
七
壊れた噴水から降る雨の中、マレウスによって姫抱きにされている腰の立たないロロは真っ暗な空に聳える三叉角の怪物を見上げた。
――確かに、さびしいひとり遊びだな。
ロロは怪物の正体を知っていた。
この怪物の襲来を知らせる低いサイレンの音をロロはずっと不思議に思っていた。どうしてこの低い低い音は怪物の襲来を知っているのだろう。誰が鳴らしているのだろう。本来ならば魔法が使われた後の残滓などで感知することができる。しかし、この妖精の国は魔法の濃度が濃すぎて、音の発生源さえわからなかった。
だから、茨の谷を見渡せるような高い所に登れば何かわかるのではないかとロロは思い至った。城下町の中にいると、壁に反響してわからなくなる。
城で一番高い塔はひとつしかない。
――西の塔だったか。
マレウスに立ち入りを禁じられている場所。きっとそこに何かがあるのだと、ロロは夜になるのを待って暗闇の中で城の西の塔へ登ったのである。黄緑色の妖精の炎はおそらくマレウスに通じている。光に照らされることのないようロロは細心の注意を払った。女態の身は小さく細かったので、陰から陰へと伝うことができた。長い階段を登っていると、学生の折に救いの鐘が鎮座する鐘楼を毎日登っていたことが思い起こされた。あの頃は息など切れることなく登りきっていたが、西の塔の頂に辿り着くころにはロロは肩で息をしてしまっていた。デスクワークが多くなっていたとはいえ鍛え直さねばとロロは己を叱責した。
塔の上には小部屋があり、隔てる分厚い木製扉には鍵が掛かっていた。解除魔法を使うと勘付かれてしまうだろう。ロロは鍵穴から中を覗いてみた。
「ひっ」
氷漬けになった部屋にも驚いたが、中心に立っていた小さな少年が鍵穴を通して中を覗いているロロを、表情を削ぎ落とした顔で見詰め返していた。少年はマレウスによく似ていた。確実に目が合ったように思ったが、少年はロロからふと目を離して、魔導ベースギターを持ち出した。それはマレウスの師が置いていった弦楽器だった。マレウスは常日頃から弦楽器を己が特技と豪語している。少年のマレウスはまるで東方の楽器である琵琶のように魔道ベースギターを低く低く掻き鳴らした。かつて胎児のころに聞いたような気がする低いベースの音はまさしく敵襲を告げるサイレンそのものだった。あまりに複雑な技巧を用いているので、ロロにはサイレンがベースギターの音だと今までわからなかったのだった。
少年のマレウスの前には白い駒と糸巻きが盤上に乗った奇妙なチェスの布陣があった。ベースギターの弦が余韻を響かせる中、幼いマレウスは指先で盤をなぞり、天を向いたまま己の手を落とした。
「ばあ!」
駒が盤上で跳ね上がって転げ落ちる。床に落ちた駒の中には割れてしまうものも少なくなかった。
遠目にはわからないが、駒には全て二本の角のようなものが頭上に付いている。ロロはふと思い至った。
城付きの従者をはじめ城下町の人々や女王までもが皆仮面を被っているのは、茨の谷の文化なのだとロロは思い込んでいた。全員に角があるのも――。
――もしや仮面の下は皆、同じ顔をしているのではなかろうか。
拐かされた折を思い返せば、訛りのある妖精言語を話していた者たちに角は見受けられなかった。茨の谷に着いてから、どこかでロロはこの奇妙な世界に迷い込んでしまっていた。
電気も電波も通じていないので、スマートフォンはずっと役に立たず、郷に連絡を取ることができていなかった。妖精族は長く人間との交流がなかったとはいえ、あまりに旧態依然過ぎるのではないかと思っていたが、合点がいった。
――やはりここは、ドラゴンの肚の中だったというわけだ。
ロロには思い至ることがあった。魔法災害警報が賢者の島に発令されたという新聞の見出し。マレウス・ドラコニアの文字。生きとし生けるものに幸せな夢を魅せて時を凍らせてしまう。そんな悪夢のような魔法をマレウスが持っている事を。
ロロはここで『醒めた』のである。
八
額を流れる水を手の甲で拭って、ロロは前髪を荒く掻き上げた。
「不甲斐ないことに、私は動くことができない。井戸の淵に下ろしてくれたまえ」
「何故?」
「私が奴の気を引く。その隙にマレウスくんはトドメを刺してくれ」
あの日、ロロは確かに『醒めた』が、そのままマレウスの心に寄り添ったままだった。
ロロが鍵穴から覗き見た幼いマレウスの表情は絶望の色をしていた。しかし、ロロはマレウスの心に秘める幼い少年を捨て置いて、離れることができなくなっていた。
かつてロロは紅蓮の花で世界を救おうとした。救いを他者へもたらすということは、一種優しさと正しさの押し売りである。そうと知っていても、弟の死を前にして何もできずに絶望した幼い己を誰も救うことができなかったから、あの日の己を救う代わりに未来ある子らを救いたかった。どんなに弟のための行いをしようと弟は帰って来ない。生きた人間ができる償いは、生きた人間に対してしか作用しない。
真っ暗な肚の奥深くに閉じこもったマレウスは夢を魅ている。
まだ生きている。
ならば、マレウスと一緒に目醒めたいとロロは思ったのだ。マレウスにとっては、いい迷惑である。これこそ優しさ正しさの押し売りである。
しかし、巡り巡る夢の中には未来がやってこない。
幼な子たるものは、無限の可能性へと枝分かれした未来の途がある。西の塔にいた幼い姿はマレウスの心の権化であった。マレウスは夢から醒めることを、未来を拒絶したことで、目が潰れて見えなくなっていた。
ロロは不器用で優しく傲慢な男だった。押し売りだとしても、隣人への救いを願わずにはいられなかった。ロロはマレウスを亡き者にしたいと思った事は一度もない。魔力を奪うことで、マレウスをも救おうとしたのである。生きていなければ、ロロには手が届かない。救いの押し売りができない。
――あの三叉角の怪物は、おおよそマレウスくんの尻尾の先だろう。トドメを刺す演技であれば、本人同士の方が都合がいい。
先週は五本の首を持つ顔のない怪物だったが、勢い余って山の稜線で深手を負わせてしまった。ロロは己を抱くマレウスのケロイドが走る手に指を這わせる。
「いいだろう。今宵はお前の策に乗っておこう」
マレウスはロロを井戸の淵にそっと下ろすと額に張り付く前髪を指で避けて、口付けを贈ると夜闇に紛れた。
背後で気配がしてロロが振り返れば、ロロの帽子を傘にした小さな角の生える蝙蝠の面の幼な子が、こちらを覗っていた。
――大丈夫?
「ああ、大丈夫だ。私の言いつけ通り隠れていたから、何も見ていないな?」
――見ていない。
幼な子は舌足らずな口調で真面目に答える。
「お利口だ」
ロロが魔杖を振ると妙なる音と炎がほとばしった。山より大きな三叉角はロロを見下ろしているような素振りを見せる。ロロは生唾を飲み、苦笑いした。
「正体がわかっていても、畏怖の念を抱かせるとは末恐ろしい男だ。いつか本当の救いを貴様にもたらしてやる」
――Cureエレガント、がんばれー!
ロロの背後から、幼な子が歓声を飛ばす。歓声は力になって、口付けで情事を思い起こしてぐずぐずになったロロの腰を立たせる。
「……応援ありがとう。君は……」
――?
「君はどんな目醒め方を望む?」
幼な子は帽子を片手で抑えながら、ロロの元に駆け寄ると、服の裾を掴む。
――さびしいのは嫌だ。
「んふふ、良かろう。坊やが目醒める時、私が手を握っていると約束しよう」
――!
ロロは己の服の裾を掴む小さなマレウスの手をそっと握り締めた。
「お前をひとりきりになど、私がさせはしないのだから」
――ありがとう、フランム。
「んふふ、覚悟するがいい。マレウス・ドラコニア!」
小さな手が、ロロの手をぎゅっと握り返した。
[終]