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    shiraishiMrs

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    人/中世/姉弟妹 捏造名前

    今はもうここに居ない 神に見放されたといっても、それは今に始まったことではないのだと思う。
     あのお姉ちゃん、ウリャーナが──妹が、兄の「お上品な遊び仲間」にするみたいに──激昂するのを、ふたりは小さくなって部屋の隅の空気を分けあうようにして、聞きたくなかったけれど、でもたしかに聞いていた。歳近い妹、ナターリヤは半分泣いていた──それだけでじゅうぶんに悲劇的な事件だと痛感できた──が、イヴァンは昼間のようにはめそめそしなかった。妹の手前、というのもあったかもしれないが、冷厳なナターリヤが喉を詰まらせ、弱虫のイヴァンが神経を尖らせざるを得ないという、その場は異質な状況にあった。
     それでもイヴァンは、姉の言葉のひとつひとつを、高温の鉄の塊で心臓に押し焼かれるような心地で聞いていた。銀色の鈴が転がるような、軽涼なウリャーナの声。その声で、煮凝りみたいな憎悪をはらんで「おまえ」とか「くそ女」とか最悪な言葉を紡ぐのが、腐って軋む、染みのある天井ごしに響いてくる。かつてならウリャーナはぜったいにそんな粗野な言葉を使わない──もっと言えば別人のように怒鳴り散らすこともしない──と信じていたのだが、怒りや憎しみは人間を壊すのだと思い知る。それがたとえば清貧な聖職者でも、血の味も知らぬ貴族の息子だったとしても、ろくでなしの母親のもとに生まれついた貧乏娘だったとしても、「その時」は平等に訪れるものなのだとイヴァンはすでに気がついていた。
    「おまえの娘になんて生まれなければよかった!」
     ウリャーナがどんな顔でそう言っているのか、全く想像できなかったわけではない。それでも怒号が聞こえてくる前までは、そんな姉の様相は、彼女が寝物語に聞かせてくれるような空想の──目が飛び出したり、糸切り歯が伸びたり、髪が蛇のようにうねる──それでしかなくて現実味がなかっただろうし、今では自分が思っているものよりも実際はもっと悪いように思えて、心臓が音をたてて縮みそうな心地になった。
     がたがたと天井が鳴き、剥がれて垂れた天井の木皮が馬の尻尾のように揺れていた。2階が壊れるほど言い合っている母と姉は最早、人間の言葉を使って叫んでいるとはとうてい思えなかった。
     息が苦しい。
     日の落ちた真っ暗闇のなかで、夜色のもやが肺に押し込んでくるように感じた。そのもやは身を寄せあうきょうだいのまわりを漂って、もう神など居ないこの家の、家族の運命を嗤っている。そうしてしめしめ、いつ喰らおうかと幼い喉元を眺めているのだろう。
     ギュウとナターリヤを抱いた。この子だけは食わせてなるものかと。肩はじきに熱く濡れ、腕の内側で妹が震えていると感じるたび、ギュウ、ギュウと力を込めて握った。
     ドン!
     揺れが大きくなる。
     ドン!
     耳が壊れそうだ。
     ドン!
     あたまの真ん中がずきずき痛む。
     ドン!
     鼻のおくが裁縫針で指を刺したときみたいにつんとした。
     ドン!
     天井の皮がついに落ちた。
     夜のもやが、きゃらきゃらと声をたてて、それはそれはおかしそうに笑っている。
     ……。
     やがて、天井の揺れが止まり、音がしなくなったことに気がついた。
     まるで耳が聞こえなくなったのかと思ったが、ナターリヤが鼻を啜った音で気がついた。
     騒動が終わったんだと。けれど前向きな気持ちにはなれなかった。まだ緊張がこの家に満ちている。夜のもやも、まだ幼い弟妹の隙を伺っている。そんな気がした。
     ふたりで天井を注視し、しばらくして腕の中から「ねえさん」と上擦った声がしたが、祈るような涙声は濡れた頬をつたってイヴァンにだけ届いた。
     転がるようにしてウリャーナが降りてきた。ぼたぼたと泣いていて、手が、しとどに濡れていた。嗚呼ついにこの日が来てしまったのかと、わずか6歳の心は急速に温度を落としていく。
    「ヴァーニャちゃん。ナーシャちゃん」
     ヴァーニュチカ。ナーシェンカ。いまはもう誰も呼ばない赤子をあやすような声音で、歳離れた姉だけは時々呼ぶ。ちいさな守るべき家族、と。
     ウリャーナは小さな弟妹を見つけると、転びながら走り寄った。そうすると不思議と夜色のもやはサッと散って、ウリャーナをうらめしそうに睨めつけた。姉のひとみはウルウルと揺れていて、光源もない暗い部屋なのにくゆりくゆりと踊っていた。雲のない真昼のような空色の目は、不思議な生命力に満ちていて、イヴァンはしばし見惚れた。姉は抱き合ったままの弟妹を、うえから隠すように抱きしめた。やわらかなウリャーナの肢体は沸騰するほど熱くたぎっていたが、着ているブラウスは汗でジットリ濡れて冷たくなっていた。
     たぶん、ウリャーナが言った。イヴァンだったかもしれない。ナターリヤかもしれない。誰かが言った。
    「マーマから、逃げなくちゃ!」
     誰も戸惑ったり、否定したりしなかった。
     スカーフや毛布、エプロン、それに帽子に手袋。家にあるものをかきあつめて、イヴァンとナターリヤはキャベツみたいに厚着で膨らんでいった。たった一組の手袋は小さなナターリヤに。
     干し肉とチーズ、それから半切れの黒パンを皮袋に詰め、イヴァンがそれを抱えた。ウリャーナはわずかな硬貨を靴下の内側に仕舞って、スカーフを目深に被ると、両手に弟妹を握りしめ、早足で家をあとにした。
     あんなに血潮のたぎっていた姉の手はいまはもう冷え切っていて、ミルクをこぼしたあとみたいにべたべたと貼りついた。暗くてよく見えないが、きっと褐色に汚れている。
     夜の村は暗くて静かだった。もともと人の多く住む場所ではない。家どうしだって離れているが、もしかしたらイヴァンたちの家ががたがたと揺れ動いたのはもう知れ渡っているかも知れなかった。
     村のそばには川は無い。森を通り抜けなければ。イヴァンは手を洗い流したかった。べたべたはだんだん乾いて、いまは豚のふんみたいな感触になっていた。夜とはいえ、ウリャーナも村の中央を横切るつもりはないらしい。
     家の裏の森を突っ切ろうとすると、木の影に男が居た。イヴァンも、ウリャーナもよく知っている。黒髪で鷲鼻の、若い男。
    「アリョーシャ」
     ウリャーナの声に、鈴の鳴るようなこころよさは宿っていなかった。あるのは大鍋を床に落としたような、静かな落胆。姉は弟妹をスカートの後ろに隠した。
     アレクセイは、村の農奴頭の一人息子だ。イヴァンはまだ歳幼かったが、彼が姉のことを熱の籠った目で舐めまわすように見ているのを、同じ男として本能的に察していた。その目つきの意味するところを理解していたわけではないが、そういうわけでイヴァンはアレクセイをほとんど無意識に警戒していた。
     彼は斧を握っていた。伐採用の、柄の長い両刃斧。
    「ウーリャ。こんな時間に何処へ?」
    「あ、あなたこそ。こんなところで、何を? お祖父さんのめんどうを、みなくていいの?」
    「ああ……。じいさんは晩飯を摂らないんだ。もうとっくに寝たよ。それに、かあさんもいるし」
     ちらりと、アレクセイの青い目がイヴァンを見た。否。イヴァンを、というよりは、繋がれた手の汚れを見ているように感じた。
     喉が詰まる。家に置いてきたはずの夜色のもやが、すぐそばまでにじり寄っている。ウリャーナのきいちご色のスカートがしわになるくらい、縋って息を浅くした。
     ふと。彼の持つ斧が、水滴を垂らしていることにイヴァンは気がついた。否。斧だけではなかった。アレクセイはほとんど全身濡れていた。
    「ウーリャ。約束してくれないか? おれはきみたちを追いかけないから、今日ここで会ったことはすっかり忘れてくれ」
    「え? ええ……でも、その」
     彼は川のほうから歩いてきていた。夜に目が慣れてくると、水の跡が点々と見える。
    「タマラが」
     斧と体を洗ってきたという感じだ。
    「あなたを心配していたわ」
    「もう遅いよ」
    「いつかこうなるんじゃ無いかと思ってた」
    「ああ。お互いさまだな」
    「ねえ……一緒に?」
    「いや。じいさんを置いては行けない。明日どう転んでも」
    「そうよね」
     恋人たちは、ハグも、手に触れることも、しなかった。
    「そうよね」
     後悔しても、引き返せないことはわかっていた。時間は戻らないのだから。
    「さようなら、アレクセイ」
    「さようなら、ウリャーナ」



    2021
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    shiraishiMrs

    DOODLE人/中世/姉弟妹 捏造名前
    今はもうここに居ない 神に見放されたといっても、それは今に始まったことではないのだと思う。
     あのお姉ちゃん、ウリャーナが──妹が、兄の「お上品な遊び仲間」にするみたいに──激昂するのを、ふたりは小さくなって部屋の隅の空気を分けあうようにして、聞きたくなかったけれど、でもたしかに聞いていた。歳近い妹、ナターリヤは半分泣いていた──それだけでじゅうぶんに悲劇的な事件だと痛感できた──が、イヴァンは昼間のようにはめそめそしなかった。妹の手前、というのもあったかもしれないが、冷厳なナターリヤが喉を詰まらせ、弱虫のイヴァンが神経を尖らせざるを得ないという、その場は異質な状況にあった。
     それでもイヴァンは、姉の言葉のひとつひとつを、高温の鉄の塊で心臓に押し焼かれるような心地で聞いていた。銀色の鈴が転がるような、軽涼なウリャーナの声。その声で、煮凝りみたいな憎悪をはらんで「おまえ」とか「くそ女」とか最悪な言葉を紡ぐのが、腐って軋む、染みのある天井ごしに響いてくる。かつてならウリャーナはぜったいにそんな粗野な言葉を使わない──もっと言えば別人のように怒鳴り散らすこともしない──と信じていたのだが、怒りや憎しみは人間を壊すのだと思い知る。それがたとえば清貧な聖職者でも、血の味も知らぬ貴族の息子だったとしても、ろくでなしの母親のもとに生まれついた貧乏娘だったとしても、「その時」は平等に訪れるものなのだとイヴァンはすでに気がついていた。
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