紡がれた味枯れた大地に砂塵が舞い、細やかな土が視界を遮る。良く晴れて風が強く吹いていたのがそこに災いした。敵の巻きあげた砂埃で咄嗟に影を追えなくなったかと思うと、クライヴは背後から手酷い一撃を受けたのだ。
焼かれる様な痛みが肩から腕に走り抜けると覆っていた筈の皮と鎖帷子が無残にも裂かれる。連なる輪が支えを失ってばらばらに散り飛び、重苦しい音を大地に落とした。斬り離されたベルトに繫がる父上の防具もごとりと落ちて、遅れて追いかけて来た血飛沫が幾重にも重なる。
「ぐっ……」
剣を持つ手がだらりと力を失い、指先に流れて来た赤い雫が溜まって零れる。それでも握り締めた剣を手放さなかったのは騎士だった者の矜持だ。
してやったりと牙を覗かせる魔物がつんざくような甲高い音を鳴らす。不快なその音色に顔をしかめつつ。痛みをやり過ごすように唇を噛んだ。
「退いていろ」
低い声が響く。静かに告げられたそれは絶対的な意思を持って放たれ、否を許さない。
「っ……」
眼前に黒い影が踊り出たかと思うと次に瞬きする間に全てが終わっていた。振るった剣の軌跡も、その姿も捕らえることができないまま魔物は肉を抉られて命を零す。けひっと小さな断末魔が聞こえたかと思うとどさりと確かな重さを大地に傅かせて転がった。
「はっ……他愛もない」
肉片も血も張り付く間もなく振り切られた剣を腰にさし、バルナバスが無表情のまま転がった敵を見下ろす。
「貴様も、下らん怪我をするでない。仮にも私と剣を交えたのであろう、錆させるな」
「ああ、すまなかったな。バルナバス」
落とした防具を拾い、クライヴがバルナバスに謝る。負傷した腕はそのまま揺れて赤い雫をまた落とした。
「宿場まで戻れればいいが、少し遠いな」
「時間を喰いすぎだ」
ルボルから送られてきた近況と添えられていたリスキーモブの情報。ランクはそこまで高そうではなかったが街道に近い場所に巣食ってしまい、街の自警団には手に余るので何とかしてほしいとの頼みが書かれていた。
丁度急な案件があるわけでは無かったクライヴは届いた手紙を読み終えると支度をしてすぐに宿場までアンブロシアを走らせたのだ。行ってくるとオットー達に告げて出て来たわけだが、私も行こうと普段なら頼んでも指先一つすら動かさないバルナバスが共に船に乗って、ここまでチョコボを駆って来た。
午後の少し早い時間に宿場に到着し、ルボルから詳しい話を聞いたクライヴが一晩待たずにこうして討伐に来たのが今は仇となった。見上げると赤い光が沈む最後の名残を纏わせ、気の早い星がいくつか煌く紺色のカーテンが広がっていたのだ。
「貴様がそんな成りで無かったら宿まで戻るが……」
アンブロシアとチョコボはここまで走らせた手前、何か不測の事態があってはならないと宿場に預けて来た。徒歩で戻るには少なからず数刻の時間が必要になる。そしてここからだと切り立った崖の道を越えねばならない。夜の闇にまぎれて得物を狩る動物、あるいは魔物にとって血の臭いをまき散らしながら歩く肉二つは絶好の餌にしか映らないのは容易に想像できた。たとえそれが人外の強さを持つ者であったとしてもである。
責めるような視線にもう一度クライヴがすまないと謝罪を述べると深いため息がバルナバスの口から零れた。
「貴様の勝手は今に始まったことではない。だが、もう少し考えたまえ……」
「はは、あんたが一緒に来てくれて助かったよ。バルナバス」
街道の脇にごつごつと岩が転がり、僅かだが草木が茂る場所を見つけ、夜を超す為の準備をする。適当な木をぶつ切りにして急ごしらえの薪を作ると火種を作って小さな灯を起こした。
少し前までは手を翳してエーテルを練ればあっという間に炎が答えてくれた。だが今はもう、そんな当たり前に使って来た力は存在しない。かちかちと鳴らして種を飛ばした火打石をしまい、小さな赤い光を大きく育てるバルナバスの傍らでクライヴは身につけていた衣服を寛げた。
外套には抉れて裂けた痕が生々しく残り、また継ぎ合わせないといけないなと畳んで地面に置く。この数年何度も共にしてきた衣服は隠れ家の仲間が丁寧に繕ってくれてまだ形を留めていた。
張り付いた血を剥がしながら鎖帷子を下ろし、皮の装威を解く。こちらも大きく裂かれているのでブラックソーンに相談しなければいけない。小言を覚悟しないといけないなと思うと、同時に申し訳なさが溢れた。
熱を少し持つ傷は皮を裂いて赤い肉を覗かせる。服もそうだが、これは自分も縫われるなと思うと隠れ家の怖い面々が連なって見えた。
「これで拭いておけ」
思考を巡らせていたクライヴにバルナバスが布を放る。火を起こして湯を沸かしながら僅かに暖められた水で湿らされた布はほのかに白い糸を天に紡いでいた。
「ありがとう」
暖かい布で傷口を拭くとざりっと舞った砂塵の名残が露わになった肉と布に擦れて痛みを訴える。だがこのままにするわけにもいかず、滲む痛みに耐えながらクライヴは傷口を清めて行った。汚れたままの傷口は悪化するから出来るだけ清潔にすること。これもタルヤによく言われていることだ。
赤い色が滲み、元の色が分からなくなるほど汚れる布を絞ってはまた傷に当てて拭きとっていく。少しばかり痛みが引いたと思うのは気のせいかもしれないが有難かった。
少し前、ジョシュアと旅をしていた頃は些細な傷でもすぐ不死鳥の力で治された。治って欲しいのはジョシュアの、弟の身体だと言うのに。蝕まれる身体に何もしてやれることなく、いつも助けてもらったことを思い出すとつんと鼻先が痛んだ。もう、どれほど傷を負ったとしてあの優しく暖かな灯が癒してくれることは無い。甘えていたことを今、手にしていたもの失って実感している。望んだのは他でもない、自分だと言うのに。
「…………トス、……ミュトス」
話しかけられる音を捉えられず、拭いた布を握り締めてクライヴが焚き火の炎を見つめる。熱く闇夜を照らす赤い光はあの弟の刹那の輝きを思い起させて心臓を掴まれる思いだった。
「過ぎた過去に囚われるのもいい加減にしたまえ」
「あっ、痛っ!」
引きもどされるのは一瞬だった。拭いた傷口が引き絞られ、肉が締まる衝撃に全身に痛みが走った。
「バ、バルナバス! んっ! もう少し、緩めてくれ!」
「適当な処置などしたら私に小言がくるではないか」
隠れ家の名医は王にも容赦が無いらしい。手にした包帯を搾りながらクライヴの腕に、肩にとバルナバスが巻きつける。意外にも思えるほど、恐ろしく手際は良かった。間にいくつか薬草を挟みながら固定するとバルナバスがどかりとクライヴの横に腰を下ろす。気がつけば焚き火の上には壺が乗せられ、中では沸騰する液体がごぽごぽと贄立つ気泡を上げていた。
取り出した皿にバルナバスがその熱い中身をよそるとクライヴに差し出す。中には肉と申し訳ないほどの葉が浮かぶ汁だった。
「えと……バルナバスが作ったのか?」
「他に誰がおる……さっさと受け取れ」
ぐっと差し出された腕を受け取るとふわりと昇る湯気がクライヴの顔を撫でた。どことなく懐かしさを覚える香りに誘われてありがとうと頂きますと呟いて皿に口を付ける。片手が包帯で固められているので匙を使わず直接啜るという有様だが咎める者はいない。
熱い汁が唇に触れ、口内に広がる。少しだけ味が付けられ、肉の味が漏れ出たその暖かいものを含むとクライヴが目を見開く。驚愕に視線をさ迷わせ、含んだ液体を飲み下すと呆然と皿を見つめる。
「なんだ……毒などないぞ」
作ったバルナバスは匙を手に沈んだ肉と葉を咀嚼しながら時折啜る。伏せた眼が湯気に濡れてその睫毛に潤いを灯すと灰青の瞳が静かに沈む。
「これ……は……」
含んだ味は埋もれた遠い記憶を揺さぶる。肉が染みたスープに絡みつくいくつかの味。どうして忘れる事が出来ようか。まぎれも無くそれはロザリアで食べていた味だ。
失った年月の彼方に霧散したはずのもの。
「バルナバス……どうしてあんたが、これを……」
「昔……まだ人であった頃か。各地を旅していた時に世話になった者が食わせてくれたものが忘れられなくてな。ウォールードで取れるもので出来るか戯れに作ったものだ」
告げながら熱した壺の中身を掬う。再び満たされた皿には僅かばかりの肉と葉が乗せられた。
手にした皿の汁を見て、そして口を付けて啜る。もう二度と口に含むことなどないと思えたそれにクライヴの目から雫が溢れた。
「なんだ、泣くほどまずいかね」
「……違う。目に染みただけだ」
それ以上の言葉は無粋だと互いに汁を食し、冷えた夜を温めながら眠りについた。
遮るものが少ない野宿は容赦なく体温を奪うが、バルナバスが作った汁が身体を火照らせ、クライヴを芯から暖める。まだ騎士になれた喜びに溢れていた少年時代の記憶が鮮やかに蘇ると包まった毛布の中であどけない顔を晒して寝息を立てる。共に包まりながらその様を見てバルナバスは手の中のクライヴを抱きしめた。じわりと伝わる熱に、バルナバスもまた遠い記憶を手繰り寄せる。
各地をスレイプニルと共に歩み、神の器であるミュトスを最後に見て灰の大陸へ戻ろうと思いロザリアの地へと足を運んだ。御方の赦しがなかった故にスレイプニルに探らせ、自身は人の寄らなそうな小さな島でしばし待とうしたところ、酷い雨に降られたのだ。
木々の合間からも容赦なく降り注ぐ雨水に体温が奪われていくのを感じ、人の身を棄てたドミナントと言えど、その不快感に遮る場所はないかと探ると小さな小屋を見つけた。さて、人の気配がし無かった故に選んだはずだがと思いつつ、その小屋に数刻厄介になるか諦めるか思案した。
「あ、あの!」
突然かけられた声に振り向くとバルナバスの背後には黒髪の少年がいた。雨で鈍っていた為か気がつかなかったバルナバスが小さく舌を打つ。
「何か用かね」
「あ、雨がすごいから……僕のとこで雨宿りして下さい」
そう告げながら指で示したのは見えた小屋で、ぎゅっと少年がバルナバスの衣服を掴んでいた。
「こんな雨に濡れていては風邪を引いてしまいます!」
震える手が雨に打たれて白い。それでも離してはいけないと思っているのか握り締めた力は強かった。
「……世話になろう」
バルナバスの答えにぱっと顔を明るくすると少年が小屋に走りだす。そこでふとその少年の身なりが上等なものであると気がつく。色の濃いズボンは布の目が細かく、白いシャツは黄ばみや汚れが無い。こんな離れた小屋に住んでいるにしてはどう見てもおかしいほど小奇麗だった。
「………そう、か」
いぶかしんだバルナバスにスレイプニルの思念が届く。探せど見るまいと思っていた神の器は目の前の少年だったのだと。
御方の命に背くことになるが致し方ない。自らの意思で神の器に会おうとしたわけではないのだ。
スレイプニルが戻り、この地を去るまでにはまだ時間がかかる。なればこの場はかの少年に勧められるまま、バルナバスは小屋に足を踏み入れた。
「い、いらっしゃい……こんなところですみませんが」
「いや、邪魔をする。雨をしのげるだけでも助かる」
勧められた床にバルナバスが腰を下ろす。
急いで片づけたのだろう。小屋の中に机があり、端には寄せられた子供の玩具が転がっていた。木の玩具はそれこそ赤子が好む物からチョコボに股がるものを思わせるものまで様々で、どれもくすんだ色をしていた。
「何もないんですが、今日は冷えると思って持っていたスープがあります。その……良かったら飲みませんか?」
もてなしのつもりか、少年が手にした水筒を差し出す。丁寧な作りそこらの村のものではないことを示していた。
断る理由も無いのでバルナバスは受け取ると少年が頬を染めた。どうぞと促され、閉められた栓を開けて中身を啜る。少しばかり熱が冷めたスープは肉の味が染みてじわりと広がる。臭みを消す為に使われているのはこの地の香草か、ウォールードには馴染みのない味だった。
アカシアとなって食を必要とし無くなったはずの身体にそれはゆるりと広がると内臓の深くで疼くようななんとも不思議な感覚がした。
「その、どうでしょう。僕の家の味なんですが」
「……良い。好ましいものだ」
「本当ですか! その、良かったです。ロザリアでは皆寒い日に飲むもので、家ごとに味が違うから大丈夫かなって思ったんですが」
「ほう……詳しく聞こうか」
バルナバスの言葉に嬉しそうに少年は笑って話出す。雨があがるまで互いに言葉を交わし、バルナバスはそこでロザリアの味を知ることとなった。
後に知ったことだが少年――幼きミュトスが己の立場、境遇に囚われることなく会話というものをしたのは随分と久しいことだったそうだ。迎えに来たスレイプニルにそう告げられ、成程と呟く。
眼下に見る先、少年は息を切らしながら走って行く。その先はロザリアに立てられた歴史ある城ロザリスが佇む。まだそのときでは無いとは知りながら、このままこの器を連れて帰ってしまえば良いのではないだろうかとも思うが、御方には自分が及ばぬ理があるのだろう。
引きずられる何かを残しながらバルナバスはスレイプニルと共にその地を後にした。渡された汁の味がいずれ出会う神の器と自分を繋ぐものとして刻まれ、そしてはるか未来に繫がるとも知らずに。