最初のはなし 街の喧騒から遠ざかるように続く山道の先、青々と生い茂る草木の中にひっそりと佇む古い寺のような家屋があった。
山道を登り木々の隙間からその姿を見せると、次第に聴こえてくるのは、ピアノの音。
「運ー、来たよ」
玄関の引き戸を動かせばカラカラと乾いた音が響く。
通り抜けるような風を一身に受けながら、少女はこの家にいるだろう人物へと声をかけた。
「おーメロリ、仕事終わんの早かったん?」
玄関から続く廊下にはいくつか連なる障子があり、そのひとつが開くと運と呼ばれた少年がひょこっと顔を覗かせた。
彼の気さくな物言いとカラッとした笑顔に、メロリと呼ばれた少女は貼り付けたような笑顔から柔らかい微笑みにその表情を変える。
この瞬間、常に携えている張り詰めていた緊張感が霧散するような感覚に心地良さを感じ、少女は最近それを気に入っていた。
少女の名は山中メロリ。人々は彼女を『天才ピアニスト』と呼び、彼女は自身の『天才』を愛していた。
だがそれは、今のメロリにとっては過去の話だった。
過去にしたと言う方が正しいが、ある時からメロリは自身の『天才』をこの世界の一番にすることができず、人知れず苦しみ、その『天才』を自身の指先から封印するかのように、ないものとした。
「またマネージャーに送ってもらったー?」
玄関框に座り靴を脱ぐメロリの後ろから、にこやかな声でその背に声をかける少年。
彼の名は日野運。自分のなりたいものを、学びたいものを求めた先でメロリに出会い、その出会いにより彼は自身の運命を変え今ここにいる。
『学びの天才』と言われメロリのような『天才ピアニスト』を目指し、今はこの古い家でピアノを学ぶ日々を送っている。
「車置きに行ってるなら、お茶用意しとくなー」
「うん、でも明日オフになったからもう帰ってもらったしお茶はいらないよ」
「ブハッ! まじかトンボ帰り?」
「一緒に泊まるわけにもいかないからね」
けたけたと笑う運を背に、向こうはまだ仕事あるからね、と続けるメロリは靴を脱ぐとそれを丁寧に揃える。立ち上がると廊下の奥から心地よい風が身体を包み、スカートをひらりと翻した。
夏でもエアコンが要らないような涼しい環境だから、また縁側の引き戸を全て開け放っているのだろう。
「てわけで、今日は泊まるね」
今日もまたピアノを弾き続けるのだと言外に伝えれば、運が快活な笑顔を見せる。
「おう! んじゃ、美味いメシ作る!」
軽快な足取りで台所へと向かう運。その後ろ姿を見送りながら、メロリはその空間の空気を、肺に、全身に、巡るようにとゆっくりと息を吸う。
目を閉じて全身で感じ取るのは、新緑の香り。
「メロリー、今日なに食いたいー?」
ふいに台所の方から呼ぶ声が聞こえ、目を開けたメロリは息を吐くと声のする方へと歩き出した。
ベートーヴェン交響曲第5番。それは『運命』と呼ばれる有名な楽曲で、メロリはある日そのメロディーを使ったオリジナルの曲を、たまたま訪れた楽器店で気まぐれに演奏した。
それが運との出会いだった。
彼の名前を初めて聞いたとき、メロリは小さな運命を感じた。自分のオリジナルの曲をたった一日で弾き、一週間後にはメロリの才能である『歪む演奏』を一瞬、一音だけ奏でた彼に、酷く興味を抱いた。
「そっか、運くん……ていうんだね」
運命を背負うかのような彼の名を口にする。メロリのような天才ピアニストになりたいと高らかに笑う運と、これから共にピアノを学ぶのだと思うと胸が弾むような感覚を覚えた。
さあこれからどうしようかと、彼の現状を確認してみれば、親に勘当され家もない状態だった。
彼を『学びの天才』と称した人物、メロリが師事する四分谷音楽高校の理事長と共に顔を見合せたが、ここで話しても仕方がないだろうと理事長はすぐに車を走らせた。そして着いた先にあったのは、山の中にぽつんと佇む古い家屋だった。
「すげぇー……寺みてぇな家」
「私の別荘だ。好きに使いな」
テキパキと家の中を案内する理事長の後ろをメロリと運が共についていく。説明を聞きながら、メロリは興味津々といった様子の運を横目に口を開いた。
「先生、こんな山の中に別荘持ってたんだ」
「昔は生徒たちの合宿にも使わせてたんだがね。最近はあまり使っていなかったからちょうどいい」
「あは、ほんとだ。ピアノもある」
そこ開けてみな、と言われすぐ隣にあった襖を引くと、忽然と姿を現したのはグランドピアノ。
「おー! ピアノだー!」
すげーでけぇー、と子どものようにはしゃぐ運がピアノに駆け寄る。その姿を見ながら、メロリはいいことを思いついたと理事長のもとへと駆け寄った。
「先生、わたしもここにいていい?」
「メロリもかい?」
「人が多い街中にいるより落ち着くし、ゆっくり出来そう」
メロリはすでにプロのピアニストとして活躍もしているが、パリの音楽院に留学している学生だった。だがパリでストーカー被害に遭い、今は避難場所として日本に一時帰国していた。
日本でも何かあってはと実家で過ごす事もせずホテルを点々としており、そろそろ落ち着いた生活をしたいと思っているところだった。
ここなら人混みの中で緊張して過ごすことも無い。周りは木々に囲まれ人も寄り付かず、なによりピアノが弾き放題だ。
「まぁね。たしかにここにいる方が落ち着くだろうが……」
不服そうな表情を浮かべたのは一瞬だけで、理事長はギロッと音が聞こえてきそうなほどの眼力で運を捉えた。
「余計なことすんじゃないよ」
「え? なにが?」
低く重圧を感じるような声と共に突然向けられた視線に臆することなく、むしろ気にすることなくなんのとこだと返す運に、メロリは思わず笑って応えた。
「あははっ。先生、大丈夫だよ。運くんそういうのないと思う」
「……まぁいい。私も忙しい身だからね、毎日はいられない。メロリもいるなら家政婦を雇うから、生活には困らないだろう」
「じゃあ荷物とりに一旦ホテル戻らなきゃ」
そうと決まればと、理事長はすぐさま明日からの家政婦を手配し、メロリは明日からの生活に思いを馳せる。
息苦しさも感じないこの山の中で、ピアノを弾くことだけを考えて生活できるのなら、それは今の自分にとってとても嬉しいことだ。
自分の演奏を磨きつつ、運くんの練習も見てあげよう。私が教えられることは教えてあげよう。きっと彼はどんどん吸収して、素敵なピアニストになるだろうから。
そんなことを思いながら、すでに鍵盤の上で指を躍らせ楽しそうにあの曲を演奏する運を見て、にこりと笑う。
「これからが楽しみだね」
メロリの言葉に、ふと視線を上げた運が笑顔を返す。
「メロリさんと勉強すんの、すげー楽しみ!」
「そうかい。だが楽しいばかりじゃないからね。これからここでみっちりピアノを叩き込んでいくよ」
終始楽しそうにピアノを弾いていた運に、相変わらず眼力を込めた理事長が発破をかける。しかし先程とは違いその声には溌剌さを携えていた。
「おー! やったー!」
両手をあげ体全体で喜ぶ運を見ながら、メロリは自分の才能を目指してくれる存在にひとり喜びを感じていた。
最初は変だと文句を言われ評価されなかった自分の演奏、その才能。今は多くの人が聴いてくれて、評価され、認められるようになった。
そうして今は、目の前の彼のように自身の演奏を目指してくれる存在がいる。
過剰なファンによるストーカー被害に心がすり減ったりもしたが、運の存在に久しぶりに穏やかな気持ちになっているのを実感する。明日は何から弾き始めようか、そんなことを考えながらメロリはまたピアノに指をすべらす運を見て笑みを零した。
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