添える指に任せようと思う いつもの放課後、いつものトレーナー室。
きっともうすぐブライアンが来て、今日のトレーニングは? と言う頃だ。そう思って顔を上げると、がらりと扉が開く。うん、タイミングは思った通り……でも、ん?
「ブライアン?」
不思議な姿が目に入り声をかけるが、まるで何事もないようにブライアンはドカッとソファに座り、当然のように背中に背負っていた大きなものをテーブルに下ろして、布のケースから楽器を取り出した。
それを見て、私はさらに驚く。
「え、え? ブライアン?」
私は机から立ち上がり歩み寄るが、ブライアンは未だに、おかしいのは動揺している私の方だと言わんばかりに普通の顔をしている。
「なんだ?」
「いや、なんだはこっちのセリフなんだけど……どうしたの、これ。見たところ、ベースに見えるけど」
「逆にベース以外のものに見えるのか」
なぜ彼女はある日突然にベースをトレーナー室に持ち込んで、ここまで堂々と、さも今日からベーシストですけど? みたいな顔ができるのだろうか。
「えーっと、ベースを始めることにしたの?」
一から説明をして欲しいとお願いするように聞くが、
「『聖蹄祭』でアマさんとやることになった」
という薄い説明。けれど、私はもうブライアンのトレーナーとして長く過ごし、およそのことは感覚で伝播できるので理解する。
「そっか、バンドやるんだね。今日から練習?」
「あぁ」
ブライアンはアンプに繋がないままのベースを指で弾く。そこに違和感を感じる。
「ブライアン、チューニングしてある?」
「チューニング? アマさんに任せてあるが?」
「んー、少し違うような気が……」
私はたまらず、ブライアンの隣に座って、ベースを貸して? と言った。渋々と引き渡してくれたベースを一弦ずつ弾いていくと、理由が分かる。
「なるほど、ドロップチューニングしてるんだね」
「ドロップ? なんだそれは」
「わざと四弦だけ一音下げてるの。こうすると、なんていうのかな。ゴリゴリっていうか、こう、低い音が出て音が重くなるんだよね」
そう言ってもブライアンは、ピンッと来ていないようだった。
「つまりどういうことだ」
「んー、つまり、かっこいいってことだよ」
ベースを返しながら言うと、ブライアンは確かに嬉しそうな顔をしていた。なんて分かりやすい。
ブライアンは左手の指を指板に置き、右手の指で弦を弾く。慣れてないのもあるけど、やけに大事そうにベースを弾くので少し複雑な気持ちになる。いや、ダメダメ。ベースに嫉妬してどうする。
拙い手。覚束ない指。何とかコードを押さえている。
「コードから練習するの?」
私はてっきりコピーしたい曲がありそのベースラインの練習をするのかと思ったが、ブライアンは確かにひとつひとつコードを練習している。
「……普通はコードからじゃないのか?」
ブライアンは少しムッとした顔で言う。
「え、あー、まぁ、コードでもいいと思う。それは悪いことじゃないから。ベースはどのコードから覚えてもいいけど、私はCが好きだからそこから覚えよう? ここに人差し指で、中指はここね」
私はブライアンの指を勝手に摘んで弦の上に置いていく。まだ柔らかい指先は、いつか硬くなってしまうのかな。
「ブライアン、手が大きいからいいね」
私の手より大きな手のひらと長い指が弦の上を滑る。
「そんなに変わらないだろう」
「えー変わるよ、ほら」
私が手のひらをブライアンに差し出すと、すっと、臆面なく手のひらを合わせてくれる。
少しドキッとしてから、第一関節分、ブライアンの方が大きくてびっくりする。まさかここまで差があるとは。
「その指でよくベースが弾けるな。そもそもよくそれでストップウォッチを握れるな」
「いや、ストップウォッチぐらい握れるよ!」
からかっているのか、本気で弄ってるのか分からなくてつい声を張ってしまう。
「はぁ、手が大きいって羨ましい」
「言うほどでもないだろう」
「あるよ。だって、手のひらって身長みたいに厚底出来ないし、口調みたいに取り繕えないし、どうやっても変えることはできないでしょ? それに気付いたら決まっているものだもん」
ブライアンは考えるようにしてから、そこまでして欲しいものか? という顔をしている。
「ギターだって欲しいギターあったのに、わざわざネックの細いギターにしたんだよ。手に合うように。ほら、大変でしょ?」
私はわざとらしく手をぐーぱーして見せつける。けれど、ブライアンは怪訝な顔でこちらを見ていた。
「え、どうしたの?」
「ギター、弾いてたのか」
ブライアンはなぜか酷く冷たく言う。
「えっと、うん、ブライアンの歳の頃、私も学祭でバンド組んでたからね。そこからしばらく趣味でやってたよ。社会人になってからはやってないけど。あの当時、私はギターだったけど、ベースも少しやってたから分かるよ。それにギターと似ているところがベースにも多くあるからね」
ブライアンは、それを話した途端に、ふいっとベースを見下ろして私から目を逸らした。
「ブライアン?」
私が聞くと、ブライアンはぶっきらぼうに「ギターをまだ持っているか」と聞いた。
「まぁ、部屋に行けばあるけど」
その瞬間、ブライアンはスクッと立ち上がった。
「ど、どうしたの? トレーニングする?」
「部屋にいくぞ」
「部屋? 誰の」
「アンタのに決まっているだろう」
いや、決まってないでしょ。とツッコミを入れたくなるがあれよあれよと手首を引かれて、私はトレーナー室から引っ張り出される。
私の手首に回る手を見て、ああ、本当におっきいなと感じてしまう。私はベースのネックになったような気分になる。
「ブライアン、部屋に行ってどうするの?」
ベースを背負いずんずんと歩く背中に聞く。
「……セッションする」
いや、コード進行もしらないのによく言うなぁと思うけれど、こういう思い切りのよさが、彼女らしさなのかもしれない。
「分かった。じゃあ、今日から特訓だね」
私は手首を掴まれたまま言う。
ブライアンは、まるで当然という顔をしている。何故教えてもらう方がこんなにもドヤ顔なのかは分からない。でも、それがいいと思ってしまう私は大概だ。
「そうだ、とっておきのエフェクターをあげるよ」
「エフェクター?」
「そう! それ使うとベースの音がゴリゴリになるんだよ!」
「つまりどういうことだ」
「んー、つまりかっこいいってこと」
私が言うとまた満更でもない顔をする。
ブライアンは嬉しそうに、私の手首を握ったまま先を歩く。ふと不思議な感覚がして手首をみると、ブライアンが指を遊ばさせている。さっき教えたCコードを私の手首で練習している。器用だなと思い見つめる。
Cメジャー、Cマイナー、C7。覚えるの早いな。
私の腕はベースじゃないよと言おうとしたけれど、ブライアンがやけにご機嫌なのが耳と揺れる尾から感じて言うのをやめた。私の手首に弦はないけど、ぎゅぎゅと指で押される感覚は悪くない。むしろ、少し嬉しい。
背中に背負われたベースに心の中で言ってやる。
羨ましいだろー、私は、ブライアンのトレーナーでベースの代わりにもなれるんだぞ。私ならブライアンの指を傷つけて硬くさせることもない。うん、そうだ。私で練習すればいい。
「ね、ブライアン! 部屋についたらベース使わずに練習してみよう! 私、思いついたことがあって」
そう言うと、ブライアンは少し振り返って言う。
「ベースを使わずにベースの練習? 何を言ってるんだ、アンタは」
いやに真っ当に返されてしまい私は閉口する。
確かにそうなんだけども。
「それにベースで練習しないと、アンタとセッションできないだろう。バカなこと言ってないでさっさと行くぞ」
まぁそれも一理ある。
私は納得せざるを得ない。
いいアイデアだと思ったけれど、ブライアンと早く一緒に演奏してみたいのは確かだ。
でも、少しだけ、少しだけ聞いてみたい。どっちがいい? って。それは試すようで意地悪かな。
私の手首とベースのフレット、その指が添えたいと思うのはどっちか。それはブライアンに任せようと思う。