山田家の猫「ふむ、だいぶ良くなったようだな。もう起き出しても良いだろう」
それから山田殿は「今朝から一緒に食事を摂ろう」と続けた。今日までの食事は薄粥が主で、私が休んでいるこの室で摂っていた。
あの日から半月以上も経った朝のことだった。
あの日というのは、私が瀕死の重傷を負った日だ。
抜け忍となった私は、かつて仲間だった男に追われ、猛撃から逃れようと崖から足を滑らせた。そこへたまたま野遊山に来ていた一家に出くわしたのだ。彼らが同業であったのは、奇跡のようなめぐりあわせだったと言うほかないだろう。
山田殿と奥方は私の厳しい立場を一目で見抜き、追手を殺さず退けてくださっただけでなく、怪我の手当のために家に運び込んでくださった。
数日間、高熱にうなされ、三途の川の此岸で右往左往はしたものの、どうにかして一命を取り留めた。六文銭を持っていなかったからではない。ひとえに山田家の親子の手厚い介抱のおかげだ。
親子と言った。そう、この家には、子どもが一人いる――。
「『一緒に』と言いますと……。奥さまと……」
「ああ、利吉も一緒だが。それがどうかしたか?」
「いえ……」
意識を取り戻してから、気が付いたことがある。私はどうやら、この家の子どもに歓迎されていない。年の頃十一から十二歳ほどの利発そうな子どもは、山田殿の一人息子で、名前を利吉というらしかった。
断っておくと、私は彼に大いに感謝しなければならない立場ではある。というのも彼は、包帯を取り換え、薬を塗布する手当をしてくれたばかりか、奥方ができない世話――下の世話、全身の清拭までもやってくれているからだ。
けれどもそれは人の倫(みち)にもとづく動機から、というわけではなさそうで、不承不承だ、しぶしぶなのだという空気を隠さなかった。ただの一度もにこりともしない。
飽くまで、言いつけられたから、そうするだけです。鋭い眼はあからさまにそう語っていた。
この部屋に入ってくる時には、いつも唇をきゅっと引き結んで、まるで、悪党には心をゆるさないぞとでも言うような表情だ。
情けないことに私は、いくらも年下のこの少年のことを、苦手に思い始めていた。
――まぁ、悪党には相違ないかな……。
初めて一家に出会った日のことが思い出される。あの時、子どもは何となじったのだったか。
たしか、目に涙をたたえ、「おじゃん」だとか言っていた。きっとよほど楽しみにしていただろうに、私は家族団欒の機会を台無しにしてしまったのだ。
彼には確かに私を極悪人扱いする権利がある。そんなことはわかっている。わかっているから、顔を合わせるような機会が増えるのは、気まずい。
胃痛の予感を覚えつつ、起き出して居間に入る。山田殿は竈に立ち、奥方は囲炉裏に鍋をかけていた。
問題の子どもは配膳を手伝っている。その足元には猫が一匹まとわりついていて、私は驚いた。猫を飼っていたとは知らなかった。感染症を防ぐためか、怪我人のいる部屋に、近づけまいとされていたのだろうか。
と、子どもが、私の姿を認めて驚いた。
すぐに微妙な面になる。誤って獣の糞でも踏んでしまったような顔。
緊張の一瞬が流れたが、ちょうど奥方がこちらを向いたため、私たちは何も言わずに済んだ。
「あなた、もう大丈夫なの?」
奥方が立ち上がり、前掛けで手をぬぐいながら近づいてくる。私は深々と頭を下げた。
「はい、おかげさまで、すっかり良くなりました」
「それは良かった。一時はかなり危なかったんですよ」
「本当にお世話になりました。奥様にも、山田殿にも……利吉くんにも」
横目に、子どもがついと目を逸らすのが見えた。胃が竦む。消え入ってしまいたい。
「あの、私に何かできることは、あるでしょうか」
おずおずと申し出る私を、奥方がおかしそうに見る。
「まぁ、何を言うの。病み上がりの方にできることなど、この家にはありませんよ」
そうして囲炉裏のもとへ座らされてしまった私の目の前に、山田殿がすかさず飯を盛った茶椀を置く。奥方が味噌汁を汁椀に注ぐ。
炊き立ての飯と湯気の立つ味噌汁の匂いが鼻腔に届くと、胃腸は噓を吐けないもので、たちまち飢えを思い出した。盛大に腹の虫が鳴いて、お二人が笑った。
「腹が減るのは、身体が回復した証だ。たんと食べなさい、お若いの」
粥ではない久々の食事は、温かさが臓腑にしみわたっていくようだった。
ふっくら炊き上がった白飯は、そうだ、こんな風に甘かった。出汁の香る味噌汁なんて、いつぶりか。
ああ、帰って来たのだなと実感する。今度も私は、生の此岸に帰って来てしまった……。
子どもがいきなり口を開いたのは、そんな感慨に浸っていた時だった。
「父上。この方は、もうすっかり良いのでしょうか」
声音には反抗的な響きがあり、私は身構えた。山田殿は白飯をたくあんとともに掻き込んで、うなずいた。
「うむ、まだ全快とは到底いかんが、傷はほぼ塞がった。治ったと言っていいだろう」
子どもは箸を椀の上に揃えて置き、「では」と慇懃にかしこまった。
「私はお世話係を返上しとうございます」
山田殿はぎょっとして箸を止めた。
「こらこら、なぜそんな薄情なことを言う」
子どもはむっと唇を尖らせる。
「利吉は薄情ではありません。ただ、もう治ったのなら、元のとおりになりたいです」
「元のとおりとは一体なんのことだ」
「父上は忘れてしまわれたのですか?」
山田殿は首を傾げたが、何を言わんとしているか、私にはわかる気がした。
胃が、しくしく泣き始める。子どもは顎を反らして続ける。
「野遊山がおじゃんになった日、父上は言われましたね。しばらく辛抱して、この方が治るまで面倒を看てさしあげなさいと。利吉は言われた通りにしましたよ。看病してさしあげて、この方は元気になりました」
「そうだな、お前はよくやってくれていた」
「ですが、私は元々この方が好きではありません」
「好っ?!な、……なに?」
「だから元どおり、嫌いになりたいのです」
なんとも珍妙な理屈だったが、少年の面は真剣そのものだ。それに、ついに言ってやったという達成感も表れていた。その頭に父親のゲンコツが落とされた。
「いてっ!何をするのですか、父上!」
「何もどうもあるか!なんという言いざまだ!そんな狭量な子に育てた覚えはないぞ!」
見上げたことに、子どもは怯まなかった。それどころかフン、と鼻を鳴らして父親に立てついた。
「それはおかしいです、父上。近頃私を育てているのはほとんど母上ですよ」
「なんだと?」
「父上があまり家に帰ってきてくださらないのが悪いのです」
「だから今年は、こうして帰って来ているではないか……!」
「でも結局、利吉と遊んでくださらなかったではありませんか」
「それは仕方ないだろう。お前はいったいいくつになった?聞き分けなさい、利吉!」
とうとう私は箸を置いた。いたたまれない。あまりにもいたたまれなかった。
縮こまって腹をさすり始めると、背中を温かい掌が撫でた。
「どうか気になさらないで。喧嘩はこの家ではいつものことですから」
奥方はやさしく微笑んでくださったが、私の気は休まるどころではなかった。
「しかし私のせいで……私がみなさんに迷惑をかけてしまっていますよね、すみません」
「迷惑だと思うなら初めから関わったりしません。こちらこそ利吉が生意気を言って申し訳ないわ」
「ですが……お子さんの手もわずらわせてしまって……」
言葉をとぎらせると、奥方が噛み含めるように言った。
「利吉はこんな山中に一人っ子でしょう?きょうだいも友達もいないんです」
「はぁ……」
「だからこの家ではいつだって自分をいちばんにされてきたの。他の人を優先されるのに慣れていないから、拗ねているだけよ」
奥方は私を安心させるようにと、黒々とした美しい目を細めた。
「利吉を甘やかし過ぎたのは私と主人の落ち度であって、あなたのせいではないのよ。むしろあなたが来てくれて、私はありがたく思っています。きっとあの子にもいい経験になるだろうから」
(続く)